第2話 神宮寺奏は仕事ができる(ただし家ではダメ人間)

リビングルームの一角、要塞のごとく構築された四画面のマルチモニターの中心に、その女性ひとは鎮座していた。


神宮寺じんぐうじ かなで

現在、彼女はという特殊な位相空間に存在している。

黒縁のブルーライトカット眼鏡を装着し、セミロングの髪を後ろでひとまとめに束ねたその横顔は、鋭利な刃物のように冷たく、美しい。


「――ええ。ですから、その仕様変更はプロジェクトのクリティカルパスに影響します。リスクヘッジの観点からも、納期の前倒しは論理的に破綻していますね。却下です」


氷点下の声音。

キーボードを叩く打鍵音は、まるで機関銃の掃射のように正確かつ無慈悲なリズムを刻んでいる。

彼女はフリーランスのシステムエンジニアとして、業界内でも指折りの実力者らしい。

稼働単価は一般的なエンジニアの三倍以上。

私が研究用に欲しがる高額な専門書や、オーダーメイドの洋服、そしてこの都内の高級マンションの家賃。それら全ての資本は、彼女のこの卓越した情報処理能力によって担保されているわけだ。


(……観察結果報告。現在の奏の知能指数は、推定一三〇以上。感情制御機能、正常。社会的適合性、極めて良好)


私はソファの上で、トポロジーの専門書を膝に広げながら、その様子を冷徹に分析していた。

あの姿だけを見れば、誰もが彼女を「クールビューティーなキャリアウーマン」と評するだろう。

隙がなく、完璧で、他者を寄せ付けない高嶺の花。理想のシゴデキ女子。


だが、それは彼女の構成要素のわずか五〇パーセントに過ぎない。

残りの半分は――。


「――はい。では、先方の承認待ちということで。失礼します」


通話終了のクリック音が響く。

同時に、壁掛け時計の針が十七時ジャストを指し示した。


その瞬間。

世界が反転する。


「あーーーーーー! 終わったぁあああああ!!!」


ガタンッ! と椅子が勢いよく弾かれ、先ほどまで「氷の女王」だった物体が、液体のように崩れ落ちた。

眼鏡を放り投げ、髪留めを引き抜き、ジャージに着替える。

そこに出現したのは、ただの「疲弊した干物お姉さん」である。


「むり……もう無理……社会がつらい……。大人の会話とかしたくない……。バブになりたい……」


奏はゾンビのような足取りで、私のいるソファへと接近してくる。

瞳からは理知的な光が完全に消滅し、代わりにドロドロとした欲望の渦が巻いている。

私の計算によれば、彼女のSAN値(正気度)は現在レッドゾーン。

緊急の回復措置が必要だ。


(やれやれ。……高給取りのスポンサー様のご機嫌取りも、被扶養者わたしの重要なタスクか)


私は読んでいた本を閉じ、小さく息を吐いてから、の表情筋プリセットをロードした。


「かなで、おしごと、おわったのぉ……?」


小首を傾げ、あえて舌足らずな発音で問いかける。

効果は劇的ばつぐんだった。


「マシロちゃんんんんん!!」


ドスッ、と重たい衝撃。

奏がソファにダイブし、私の膝に顔を埋めてきた。

私の小さな太腿に、彼女の整った顔面が容赦なく押し付けられる。


「あぁ〜〜〜! 生き返る〜! この柔らかさ、この温もり! これこそが我が家の充電ステーション……! 社会の荒波で傷ついた私の心が、マシロちゃんの太腿によって修復されていく……!」

「……かなで、くすぐったぁい。えへへ」

「ごめんねぇ、でも動かないでぇ。今、成分摂取中だから。マシロちゃん成分がないと、私、干からびて死んじゃうから」


奏は私の腰に腕を回し、深呼吸を繰り返す。

先ほどまでクライアントを論理で撲殺していた人間と同一人物とは、到底思えない。

この落差ギャップ

外では完璧超人、家では幼児退行スレスレの甘えん坊。

この二面性こそが、神宮寺奏という個体の特異性であり、私がつけ入る隙でもある。


(……ふん。所詮は、私の可愛さに依存する弱い生き物ね)


私は心の中で優越感に浸りながら、彼女の頭を撫でてやることにした。

これは条件付けの強化パブロフのいぬだ。

「仕事を頑張れば、マシロに甘えられる」という報酬系を脳に刷り込むことで、彼女の勤労意欲を維持させる。

極めて合理的なマネジメントである。


「かなで、おしごとがんばって、えらいえらい。……はい、なでなで」

「んふぅ……マシロちゃんに褒められたぁ……。もう私、一生マシロちゃんのために働く……。マシロちゃんが欲しいもの、全部買ってあげるからねぇ……チョコ?お洋服?爵位?」

「んー、爵位はいらない」


奏が私のてのひらに頬を擦り付けてくる。

まるで甘える大型犬だ。

その仕草に、ふと、彼女の髪から漂うシャンプーの香りが鼻をくすぐった。

いつもの、甘くて優しい匂い。


指先に触れる髪はサラサラとしていて、体温は少し高い。

その熱が、私の冷えやすい指先をじんわりと温めていく。


(……温熱効果を確認。暖房器具としては、やはり優秀だわ)


私は論理的な評価を下そうとするが、思考の片隅で、別の感情がノイズのように走った。


先ほどの電話会議。

彼女は「納期の前倒しは論理的に破綻している」と言い放った。

論理ロジック。正解。効率。

それは私が最も得意とし、拠り所としている世界だ。

本来、IQ200の私が共感すべきは、この膝の上でふにゃふにゃになっている奏ではなく、先ほどの冷徹な奏の方であるはずだ。


けれど、今の私はどうだ?

「なでなで」などという、非論理的で幼稚な語彙を使い、彼女の頭を撫でている。

そして何より――この状況を、不快だと思っていない。


「……ねえ、マシロちゃん」


不意に、膝の上の奏が顔を上げた。

とろんとした瞳が、私をじっと見つめている。


「ん……? なぁに?」

「マシロちゃんは、ずっとこの家にいてくれる?」


ドキリ、とした。

心拍数が一瞬で跳ね上がる。

それは私が抱えている最大のを、核心的に突く問いだったからだ。


「……私は、マシロちゃんがいないとダメなの。だから、ずっと一緒にいてね?」


奏の言葉は、あくまで「今の私(=可愛い幼女)」に向けられたものだ。

私はそれを理解している。

だからこそ、完璧な回答レスポンスを返さなければならない。


私は恐怖を笑顔の裏に隠蔽し、小悪魔的な角度で首を傾げた。


「もぉ、かなでったら甘えん坊さんなんだからぁ。……わたしがいなきゃ、ダメダメだもんね?」

「うん、ダメダメだよぉ。マシロちゃん専用のダメ人間だよぉ」

「えへへ。……いいよ。かなでがいい子にしてたら、ずっといてあげる!」


「やったぁ! 愛してるーっ!」


再びの抱擁。

押し潰されそうなほどの圧迫感の中で、私は静かに息を吐いた。


(……嘘つき)


ずっといてあげる、なんて。

そんな契約、私の一存では保証できない。

決定権を持っているのは、保護者であり家主である貴女の方なのだから。


私が「幼女」でなくなった時、あるいは貴女が「幼女でなくなった人間せいちょうしたわたし」を必要としなくなった時。

この「ダメ人間」の仮面は剥がれ落ち、あの冷徹な「仕事モード」の奏が、私を排除カットオーバーするのだろうか?


『その仕様(=成長したマシロ)は、私の人生に不要です。却下です』


脳内で再生された彼女の声が、妙にリアルに響いた。


「……かなで、ぎゅーして。もっと、ぎゅーってして」


私は無意識のうちに、自分から彼女の背中に腕を回していた。

計算でも、演技でもなく。

ただ、その冷たい幻聴を、彼女の体温で打ち消したくて。


「ん? もちろんだよぉ! さあ、私の胸に飛び込んでおいで! 窒息するまで愛してあげるからね!」


奏は何も気づかず、嬉々として私を包み込む。

その腕の中は、悔しいけれど、世界で一番安全で、温かい場所だった。


明日も、明後日も、彼女が「ダメ人間」でいてくれますように。

私はIQ200の頭脳を使って、神に祈るという非科学的な行動をとった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る