第一話

冬の朝靄あさもやが、ウィーン王宮の冷たい石畳を静かに包み込んでいた。

外の世界はまだ眠っているようで、窓の向こうに広がる庭園も霧に沈んでいる。


重厚な天蓋てんがい付きのベッドの中で、神谷悠人はゆっくりと目を開けた。

視界に飛び込んできたのは、金箔が施された天井の装飾。

見慣れない豪奢な意匠に、彼は一瞬、自分が夢を見ているのだと思った。


「……ここは……?」


声はかすれていた。

だが、それ以上に違和感を覚えたのは、自分の体だった。

手を見れば、白く細い指。肌は滑らかで、まるで絹のようだった。

慌ててベッドから降り、部屋の隅に置かれた銀縁の鏡の前に立つ。


そこに映っていたのは――若き日フランツ・ヨーゼフ一世のだった。


「……嘘だろ。」


「まさか……転生したのか? しかも、オーストリアの皇帝に……?」


鏡の中の男は、歴史の教科書で何度も見た顔だった。

鋭い眼差し、整った顔立ち、そして皇帝としての威厳を宿した姿。

だが、その瞳の奥には、確かに神谷悠人自身の意識が宿っていた。


混乱と恐怖が強く胸を締めつけた――その瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。


「……っ!」


視界が白く染まり、断片的な映像が流れ込んでくる。

宮廷の広間、戴冠式、軍服の重み、そして――ドイツ語の響き。


『Majestät, der Minister wartet.』

(陛下、閣僚がお待ちです)


意味が、自然に理解できた。


「……俺、ドイツ語が……わかる?」


いや、違う。これは――フランツ・ヨーゼフの記憶だ。


記憶の断片が、悠人の中に溶け込んでいく。

彼は確信した。自分はただ転生しただけではない。

皇帝の記憶を継承している。


ベッドの脇に置かれた書類の束には、見覚えのある名前が並んでいた。

「首相兼外相フェリックス・ツー・シュヴァルツェンベルク」「内務大臣アレクサンダー・フォン・バッハ」――すべて、彼が大学で学んだ歴史の中の人物たちだった。


悠人は、歴史オタクだった。

特に一九世紀ヨーロッパの政治と軍事に魅了され、大学では国際関係史を専攻していた。

だが今、彼の頭の中には、教科書の知識だけでなく、皇帝の記憶が混ざり合っている。


「これは……チャンスだ。歴史を変えられるかもしれない」


混乱の中でも、悠人の思考は冷静だった。

彼は深く息を吸い込み、窓の外に広がる霧のウィーンを見つめた。


「この世界で、俺は何をすべきなのか――」


その問いこそが、帝国の運命を変える第一歩となる――。




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フランツ・ヨーゼフ1世は、19世紀から20世紀初頭にかけてオーストリア・ハンガリー帝国を統治した皇帝です。彼は1848年に即位し、第一次世界大戦が始まる1914年まで約68年間、ヨーロッパの政治に大きな影響を与えました。

帝国内の民族問題や複雑な政治情勢に対応しながら、二重帝国体制(オーストリアとハンガリーの同君連合)を築いた人物です。彼の治世は、帝国の繁栄と衰退の両方を象徴しています。

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