第十話『青年と宿屋』

 宿屋の扉を押す。

ぎい、と軋んだ音が、やけに大きく聞こえた。


「……こんばん、わぁ……」


 声に力が入らなかった。

女将さんが振り向いて、目を丸くする。


「おや、この前の……どうしたんだい?」


 心配されるのが妙に苦しくて、笑おうとして顔が引きつった。


「……えへ……少しドジっちゃって……

 泊めて……もらえますか……?」


「ドジった、にしてはボロボロじゃないの!

 ほら、座りな?」


 手招きされるまま椅子に座った。

途端に全身の力が抜けていく。

体が沈んでいくみたいだった。


 温かいスープが目の前に置かれる。

湯気が顔に触れただけで、胸がきゅっと締め付けられて、泣きそうになる。


 ひと口飲む。

 味は……よく分からない。

でも、体の奥に溶け込むように広がっていく温かさだけで、充分だった。

生き返るってこういう感覚なんだろうか。


「前に来たの、三日前かね?

 何してたのか知らないけど、ムチャはしなさんなよ」


「……えっ……」


 三日。

 その言葉が、耳に刺さった。


「あ……はい……」


 三日前……?

僕、ダンジョンに入ったのって、

宿屋から出て、その日のうちで……。


 三日……?

 三日

 僕……そんなに……?


 頭が一瞬だけ真っ白になった。

器が震えて、こぼしそうになって慌てて抱え込む。

現実感がうまく掴めない。何も考えられない。

まるで夢の中にいるみたいだ。


「本当に大丈夫かい? 何かあったんだろ?」


「えっと……

 蛇と花が、くっついた魔物の……毒……で……」


「……ヘビーローズかい?!

 あいつは猛毒だよ! 中和草ちゅうわそうを使わないと──」


 女将さんの声が遠くなる。

聞こえてるのに、胸の鼓動がうるさすぎて言葉が頭に届かない。

次第にぼんやりとしてくる。

ああ、これ……だめだ……眠い……。


女将さんは僕を見て、ため息をつくと、やさしく手を振った。


「あら……、いいよ。

 とりあえずゆっくり休みな、おやすみ」


「……ありがとうございます……」


 階段を上がる足が、ひどく重い。

でも、寝室にたどり着いて、藁の寝床に倒れ込んだ瞬間、その重ささえどうでもよくなった。

 藁のちくちくが背中を刺す。

でも、それが逆に安心した。


 ──眠い……。


 まぶたがすぐに重くなっていく。


 天井に手を伸ばす。

指先がかすんで、うまく焦点が合わない。


 ……生きてる。

 生きてる……よね、僕……?


 胸の奥が変にざわつく。

あの時、確かに“終わった”と思った。

でも、今息をしている。息が胸を動かしている。

それなのに心はまだどこか遅れてついてこない。



「……っ!」


 急に腹の奥が、じくり、と痛んだ。


 うそ……毒……まだ抜けてない……?

いや、違う。

鼓動も呼吸もおかしくない。

 もっと、変な……

深いところを……なぞるような……?


 ……これ……なに……?


 考える前に、眠気が全部をさらっていく。


 ……だめ……ねむ……


 視界が暗くなる。

腹の奥のざわつきは、薄く灯る火みたいに、

眠りに沈む直前まで消えずに残っていた。

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