第9話 意識し始めた男たち、医者と作家
その日、裕司のスマホに届いた一通のメール。
差出人は愛華も、元妻だ。
添付されていた一枚の写真を見た瞬間、裕司は息を呑んだ。
そこに写っていたのは、美夕だった。
メイクであの傷跡が、まるで存在しなかったかのように消えている。
たった一枚の写真に、妙な引力があった。
だが、次の瞬間、添付ファイルのもう一つに気づいて、胸がざらついた。
撮影場所と、時間。
どういうつもりだ。
部外者の自分に、来いということか。
「行くわけ、ないだろ」
声に出してみたが、響きは虚しかった。
返事を打とうとして、スマホを伏せる。
行かないと打ち込む気力さえ、今はなかった。
そんな自分の様子を、英介が見逃すはずもなかった。
「さっき、俺のところにもメールが来た」
英介は何気ない調子で言った。
「裕司さん、行く?」
「部外者だぞ。俺は」
即答した。
だが、声の奥にわずかな揺らぎがあったのを、裕司自身が感じていた。
英介はテーブルの上で指を軽く叩きながら、
どこか探るような目を向けてきた。
「愛華さんは、そう思ってないみたいだけど」
その言葉に、裕司は口をつぐんだ。
行かないと即答できるはずなのに。
行く理由も、資格もない。
医者としても、男としても、越えてはいけない線がある。
けれど。
あの写真の中で笑う彼女の表情が、
その線を曖昧にしていく。
ほんの一瞬、スマホの画面に視線を戻した。
光の中に立つ彼女の姿。
それは現実よりも遠く、そして近かった。
「撮影場所にはスタッフも大勢いるし、男もいるだろう」
英介は湯呑を回しながら、何気ない調子で言った。
「目をつけられるかもな。デートに誘うとか、連絡先を聞くとか、そういうやつ、絶対一人はいると思う」
その言葉に裕司は、無意識に顔を上げた。
考えもしなかったことだ。
だが、言われてみれば、あり得る話だ。
「そうだな」
短く答えながらも、胸の奥が妙にざわついた。
想像してはいけない光景が、ふと浮かぶ。
撮影現場、照明の下、スタッフたちの視線。
彼女が笑う、その横で誰かが気軽に話しかけている。
「エリックって作家、美夕さんの昔の知り合いなんだよね」
英介が続けた。
「知り合いから聞いたけど、顔もそこそこ、金もある。けど、俺は羨ましいとは思えなかった」
「どうしてだ?」
思わず問い返した声に、自分でも驚いた。
英介は少し笑って、言葉を選ぶようにして言った。
「元は作詞家でさ、気まぐれに書いた小説が賞を取って、それから作家として活動し始めたらしい」
成功者、か。
裕司の胸の中でその言葉が響いた。
金も名声もあり、女にも困らない。
世間が羨む勝ち組の典型だろう。
だが、英介は首を横に振った。
「いや、モテるとは思う。でも俺は、正直、羨ましいとは思えないな」
その言葉には、妙な重さがあった。
「女は集まってくると思うよ、でも有名人だから、近づいてくる、話題になる男と関わりたいっていう。多分、本人は、そういうの分かっていても、黙ってるタイプだと思う」
英介の声には皮肉がなかった。
ただ、事実を見つめるような静かさがあった。
「それに、本も色んなジャンル書いてるけど、恋愛小説はほとんど売れてない」
裕司は眉をひそめた。
「恋愛……?」
「うん。数本は書いてるけど、どうも評判が悪い。経験がないんだろう。想像だけで、誰かを愛することを書こうとすると、薄っぺらくなる」
英介の言葉が、淡々と落ちる。
それが静かに、裕司の胸に沁みていった。
周囲から見れば、エリックのような男は羨ましいに決まっている。
だが、金も女も、愛の証にはならない。
「愛華さんが言ってたんだよ」
英介の声は、いつになく落ち着いていた。
「彼女、裕司さんのことが気になってる。でも、わからないんだって。それがどういう気持ちなのか。」
彼女が誰を指すのか、考えるまでもない。
何も言えないまま、裕司はただ視線を落とした。
英介は、淡々と続けた。
「裕司さんが医者で自分はは患者。それに年上だろ。彼女、真面目だから、そういうこと、すごく気にするタイプなんだと思う」
「そんなことは……」
裕司は言いかけて、そこで止まった。
わかっていると言いたかった。
だが、その言葉を口にすれば、自分が何を否定しようとしているのか、はっきりしてしまう気がした。
英介の言葉は淡々としていた。
「エリックって人が、彼女の素顔を見たら、恋愛感情なんて、ないだろうな」
英介の言葉は淡々としていた。
事実を述べただけのように聞こえた。
裕司は反射的に口を開いた。
「そんなことで――」
だが、その先の言葉が喉で止まった。
そんなことで人の価値が決まるわけがない、言い切る自信がなかった。
現実は、もっと冷たい。
人は見た目で判断する。
好意も、興味も、最初の印象で決まってしまうことを、裕司は痛いほど知っていた。
いや、この歳になったからこそわかるのだ。
英介が、少し声を落として言った。
「でも、裕司さんは、最初から見てる」
その一言が、不意に胸の奥に触れた。
「勝てるよ」
短く、それだけを残して英介は黙った。
何を言うんだ、そう言い返そうとした。
だが、口を開きかけて、言葉が出なかった。
心の奥で何かが、静かに波打っていた。
「知ってるじゃないか彼女のこと、素顔だって」
「何を、馬鹿なことを」
裕司は思わず言い返しかけたが、
その言葉の先が喉で止まった。
自分でも、なぜ止めたのかわからない。
勝てる、そんな馬鹿な。
だが、彼女の傷を初めて見たときのことを思い出す。
そのとき、英介のスマホが震えた。
「えっ、誰だろ」
画面を覗き込んだ英介の表情が、一瞬で変わった。
ニヤリと、あからさまに人の悪い笑みを浮かべる。
「ああ、美夕さん」
「……なっ」
声に出すこともできず、ただ英介を見つめる。
「美夕さん。実は今ね、裕司さん、風呂、入ったところなんだよ」
「はっ?」
英介は余裕の表情で会話を続ける。
「そうそう、一時間ぐらいは出てこないと思う。湯船で寝るタイプだから」
「おい! 勝手なことを……っ!」
声にならない声が喉で暴れる。
出ようか? いや今出たら、本当に風呂上がりだと思われる、いや、何より、そばにいたのがバレる。
別にやましいことはない。
だが、いや、ある気がしてきた!
「もし大事な話だったら……あ、うん。俺が伝えておくよ? うん、任せて」
裕司は額を押さえた。
何故、こんなに動揺してるのか、自分でも分からない。
いや、分かっている。
彼女が、自分に連絡をくれた、それだけだ、なのに。
くだらない理由で連絡してきたんじゃない。
きっと、何か話したかったのだ。
(……俺は、彼女の何なんだ)
医者で、年上で、患者とは一線を引かねばならない立場。
勝てるよ、英介の言葉が、また胸に落ちる。
ふざけたように聞こえたその言葉が、今は、どこか救いのようにさえ感じる。
スマホを切った英介は、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。
やがて、深く息をついて、小さく唸った。
「前向きだなあ、彼女」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、ただ自然にこぼれたようだった。
けれど、裕司の耳にははっきりと届いた。
「なんて言ってた?」
英介は顔を上げ、ゆっくりと答えた。
「自分のこと、美夜って呼んでほしいって」
「美夜?」
その名を口にした瞬間、裕司の胸がわずかに震えた。
英介は頷き、続けた。
「美夕って名前を変えようと思ったけど、やめたって言ってたよ」
裕司は言葉を失った。
頭の奥、病室での友人との会話を思い出した。。
『名前、変えようかな。違う自分になって新しく』
だが今、彼女は自分でその言葉を否定した。
変えようと思ったけど、やめた。
過去の自分を受け入れようとする決意の言葉だ。
裕司は、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に、言葉にならないものが広がっていく。
過去の傷に縛られてはいない。
逃げるのではなく、向き合おうとしているのだ、彼女は。
彼女がスタジオに入ってきた瞬間、空気がわずかに揺れた。
それは誰もが一瞬、息を呑むような沈黙だった。
エリックはその場にいた全員の視線が彼女に集まるのを感じた。
彼女は目を引く存在だった。
理由は美しさだけではない。
顔に残る大きな傷痕のせいだ。
エリックは驚いた。
まさか、こんな形で再会するとは思っていなかった。
彼女は自分に気づいたはずだ。
スタジオに入ってすぐ、ほんの一瞬だけ視線が交差した。
彼女は無言だ。
スタッフたちのヒソヒソとした囁く声が、エリックの耳に届いた。
スタジオの中は、照明の熱と人のざわめきが混じり合い、独特の緊張感を帯びていた。
スタッフたちのヒソヒソ声が、空気を裂くように耳に届く。
「綺麗になるんだな……」
「メイクであんなに変わるんだ」
「それでも、よく出てこれるよな」
悪意はない、だが、それが一番刺さる。
だが、美夜は表情ひとつ変えない。
スタッフの指示に頷き、まっすぐ立ち、ライトの下に進み出る。
彼女を見つめながら、エリックは思い出した。
正しいことを言う人、彼女は自分のことをそう呼んでいた。
あの頃は、それを褒め言葉だと思っていた。
冷静で、論理的で、感情に流されない。
そういう自分でいることが、正しいと信じていた。
今、その言葉の響きを思い返すと、胸の奥が静かに痛んだ。
そこにあったのは距離だったのかもしれない。
正しいことしか言えない男。
あの頃の自分は、彼女の沈黙を都合よく勘違いしていた。
エリックは目の前の彼女を見た。
(声をかけたら?)
もし今、「久しぶり」と言ったら――
彼女はどんな顔をするだろう。
懐かしそうに笑ってくれるのか。
それとも、冷静な眼差しで“知らない人”を見るように自分を見返すのか。
そのどちらも、怖かった。
彼女の人生の中に、自分はまだ存在しているのか。
それとも、もう完全に過去の登場人物として整理されてしまったのか。
「美夜」
彼女が立ち止まった。
振り返るかもしれない。
気づかないふりをして、そのまま歩き去るかもしれない。
エリックの胸に、不安が波打つ。
声をかけるべきじゃなかったか。
過去だ、彼女が望まないのなら、それ以上踏み込むべきじゃない。
「元気だったか」
自分でも驚くほど自然に出た。
懐かしくて、どこか哀しい響きをまとっていた。
言葉を投げかけた瞬間、彼の中で何かが軋んだ。
もしも、彼女が他人のような目でこちらを見るなら。
忘れてしまったふりをするなら。
だが、彼女は、ゆっくりと振り返った。
ふと目が合った。
彼女は、笑っていた。
柔らかく、穏やかで、どこか芯のある微笑み。
あの頃、彼が見たことのない笑顔だった。
あの頃よりも、ずっと大人びて見える。
エリックは、目の前の彼女に戸惑いすら覚えた。
この笑顔を、いつかの自分は引き出せただろうか。
それとも、この微笑みは、もう自分には届かない場所のものなのか。
「はい」
短く、だが確かに、美夜は頷いた。
声は、かすかに震えていたようにも思えた。
それは懐かしさでも後悔でもない。
再会がもたらした、再び物語が動き出す予感だった。
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