第3話 映画とサイン会、声をかけられた女の正体

 その日、英介は病院へ向かった。

 珍しく裕司を昼に誘ってみようと思ったのだ。

 昼食に誰かと出かけるなんて、聞いたことがない。

 だから、少しでも気分転換になればと思ったのだ。

 ロビーを抜ける途中で足が自然と中庭へ向かう。

 予感は当たった、裕司の姿があった。

 だが、一人ではない、彼の隣には女性が座っていた。

 私服姿、入院患者ではない。

 穏やかに言葉を交わしているように見えた。

 見えて、英介の口元に思わず笑みが浮かぶ。

 ——ああ、そういうことか。

 最近、変わったなと思っていた、理由は、これか。

 にやけそうになる頬を押さえながら、英介は歩み寄った。

 声をかけようとして、息を吸い込む。

 だが、声は続かなかった、女性がこちらを見たからだ。

 その瞬間、息が詰まる、左の頬に、陽の光を受けて浮かび上がる傷跡。

 隠せないほど深いものだ、英介は反射的に目を逸らした。

 軽口も冗談も出てこない。

 女性が、わずかに視線を落とした。

 その様子に気付いたののか、裕司がゆっくりと顔を上げる。

 気まずさを感じて、英介は、その場を逃げるように去った。



 「ごめん、その……」

 リビングの灯りの下、英介が少し躊躇いながら声をかけた。

 テーブルの上には開いたままの医学書とコーヒー。

 裕司は視線を上げ、メガネを外す。

 「謝るようなことしたか?」

 「いや、昼間の態度が悪かったかなって」

 英介は頭を掻いた。

 自分でもよくわからないが、妙に胸の中に引っかかっていた。

 裕司は短く息をついた。

 「別に気にしていないよ。彼女も」

 英介は曖昧に笑ったが、その顔にはどこか後悔の色がある。

 中庭で見た彼女の表情が、ふと脳裏に浮かぶ。

 あれは、驚きではないと思った。

 「患者さん、なんだろ」

 「ああ。退院したけど、まだ通院してる」

 裕司はコーヒーを口に運び、淡々と答える。

 言葉を探すように、英介は視線を落とした。

 彼女の顔を思い出す。

 ほんの一瞬だったのに、印象が強く残っていた。

 「きれいな人だったんだろうな」

 無意識に漏らした言葉だった。

 裕司は、少しだけ目を細めた。

 「悪気はなかったんだろう?」

 「そうだけど」

 言葉がうまく出てこない。

 裕司は、ふっと笑った。

 それは苦笑にも、優しさにも見える。

 「見ることが悪いわけじゃない。ただ、見る側が何を感じるか、だな」

 英介はその言葉を受け止めながら、視線をテーブルに落とした。

 重くもなく、説教でもない。

 ただ、静かに胸に残る言葉だった。

 裕司は軽く笑う、その笑みには、怒りも優越もない。

 静かな空気の中で、英介は思った。

 この人は父親じゃない、大人の男なんだと思った。


 「……手術は、するんだろ?」

 英介の声は、何気ない調子だった。

 裕司は、わずかに視線を落とす。

 言葉を飲み込み、数秒の沈黙のあとでようやく口を開いた。

 「もしかして、美容整形と勘違いしていないか」

 英介は、はっとした。

 「いや、そんなつもりじゃ……」

 だが、自分でも言い訳じみた声だとわかっていた。

 頭のどこかで、手術すれば元に戻ると思っていた。

 裕司は静かに息を吐いた。

 「一度で元通りになるとは限らない。皮膚を移植することもあるし、痛みや腫れも残る。何度も繰り返すことになる場合もある」

 淡々とした声に、英介は息を呑む。

 「入院とかも?」

 「そうなることもある、私は専門ではない。詳しくは形成の医師が判断する」

 裕司の表情は変わらない。

 医師としての説明の体裁を保ちながら、どこか感情の揺らぎを隠している。

 「費用も時間もかかる。腕のいい医者でも、完全に元の顔に戻すのは難しいだろう」

 英介の胸が少し痛んだ。

 頭の中で、過去に見た記事の見出しが浮かぶ。

 美容整形失敗、元通りにならない、やり直せない顔。

 ネットや雑誌の記事を思い出した。

 気軽に読んで笑っていた文字列が、今はまるで刃のように思えた。

 「難しいんだな」

 裕司は短くうなずいた。

 そして、少し遠い声で言った。

 「彼女は、それを理解してる」

 沈黙が落ちた。

 英介は思った、元に戻すというのは、顔のことだけじゃないのかもしれないと。

「あのままってことか」

 英介の問いに、裕司は小さく息をついた。

 目線はテーブルの上のカップに落ちたまま、声だけが穏やかに落ちる。

 「多分な」

 その答えに、英介は言葉を失う。

 英介は話題を変えようかと思いながらも、何かが気になって口を開いた。

 「気にならないのか、女性だろ」

  裕司は一瞬だけ目を上げた。

 「お前は、そうは思えないか、カメラマンだからか」

 英介は慌てて首を振る。

 裕司は軽く笑った。

 静かで、どこか申し訳なさそうな笑みだった。

 「悪かった。嫌味のつもりじゃない」

 その一言が、空気を柔らかくする。

 英介は言葉を返せなかった。

 裕司のその穏やかな笑いには、不思議な説得力があった。


 「サイン会か……」

 書店の壁に貼られたポスターを見つめながら、美夕は小さく呟いた。

 エリックの写真。見慣れたはずの笑顔。

 けれど、今の自分には遠い世界の人のように思えた。

 この顔なら、誰も私だとは気づかない。

 帽子を被ってマスク、眼鏡をかければ大丈夫。

 そう自分に言い聞かせた。

 だが、受付であっけなく断られた。

 「申し訳ありません、すでに整理券の配布は終了しております」

 その言葉に、胸の奥がすっと冷たくなる。

 同時に、どこかで安堵している自分がいた。

 やっぱり、怖かったのかもしれない。


 それでも、当日。

 彼女は書店に足を運んだ。

 遠くから見るだけのつもりで。

 人の列。サイン会の会場。

 思った以上に混み合っている。

 帰ろうかと思ったそのとき、背後から声をかけられた。

 「あなた、サインもらいたかったんじゃない?」

 振り返ると、年配の女性が一枚の整理券を差し出していた。

 「予定が入っちゃってね、行けなくなったの。よかったら使って」

 「えっ……でも」

 「せっかくだもの。若い方に譲るほうが気持ちいいわ」

 美夕は戸惑いながらも、頭を下げた。

 「ありがとうございます」

 その瞬間、胸の奥で何かが動いた。

 まるで、もう一度進めと言われたように。

 サイン会場に着くまで緊張していた。

 順番が来た、列の先でスタッフが本を受け取り、テーブルの上に滑らせた。

 美夕は深呼吸をひとつ。

 震える手で本を差し出す。

 帽子のつばを下げ、マスクの中で息を詰めたまま、かすれた声を絞り出した。

 「……お願いします」

 声が自分のものではないように感じた。

 張りつめた空気の中、紙の上をペンが走る音だけがやけに鮮明だった。

 「ありがとう」

 その一言に、心臓が跳ねた。

 変わってない、声も口調も、あの頃のまま。

 丁寧にサインを入れた彼が、本を返してくれる。

 「……ありがとうございました」

 あえて、声を抑えた。

 声で気づかれるかもしれない。

 そんな考えが頭をよぎった。

 だが、次の瞬間、心の奥で別の声が囁いた。

 もう一年以上たっている、気づくはずがないと。


 列を離れようとしたときだった。

 エリックがペンを止めた。

 けれど、その胸の奥には、説明のつかない違和感が残った。

 ペンを置いた指先が、わずかに震えた。

 インクの光が、照明の下でかすかに滲む。

 今の声。

 耳の奥に残る微かな響きが、記憶の底を叩いた。

 思い出せない。

 けれど、胸の奥にざらりとした感覚が残る。

 (まさか……いや、そんなはずはない)

 理性が即座に否定する。

 ほんの一瞬、会場の喧騒が遠のいた気がした。

 サインを求めて並ぶ人々の列が、霞のように揺れる。

 時間が止まったような感覚の中で、エリックは無意識に顔を上げた。

 胸の奥にざわめきが残る。

 その正体を確かめようとするように、彼はペンを持ち直した。


 映画なんて、いつ以来だったろう。

 暗い館内、スクリーンの光が観客の顔を淡く照らす。

エリックは隣の女性に小さく笑いかけた。

 「まさか、あんたと映画に行く日が来るなんてね」

 彼女は留学時代の友人だった。

 仕事で海外から一時帰国し、再会したその勢いで誘われた。

作家になったと話したときの彼女の驚きようが、いまでも少し可笑しい。

 「そういえば、彼女も書いてたじゃない?」

 その一言に、エリックは一瞬まばたきをした。

 彼女、それが誰を指しているのか、すぐには理解できなかった。

 ああ、美夜のことだと思った。

 言葉が喉に引っかかった。

 亡くなったのは一年以上前、彼女は知らなくて当然だ。

 だが、今ここで口にする気にはなれなかった。


 スクリーンには恋愛映画のエンドロール。

 編集者から“次は恋愛小説を”と提案され、仕方なく観に来た。

 題材のため、そんな理屈で足を運んだのに、

 最後まで物語は心に入ってこなかった。

 照明が戻り、観客たちが立ち上がる。

 友人が「ちょっとトイレ」と言って席を立つ。

 エリックはロビーへ出て、外のガラス越しに人の波を眺めていた。


 数分後、外に出た友人が入口の前で立ち止まっていた。

 その表情に違和感を覚え、声をかけた。

 「どうした?」

 彼女は目を見開いたまま、息をのんでいた。

 「美夜がいたのよ」

 エリックの足が止まった。

 「人違いだろう」

 声が、思っていたよりも乾いていた。

 「だって、立ち止まって」

 エリックは無言になった。

 女性は自分に言い聞かせるように呟いた。

 「人違いかもしれない。後ろ姿、似てたの」

 エリックは何も言わなかった。

 理性では否定していた。

 美夜はもう、この世にいない。

 一年以上も前に。

 それでも、心の奥で何かがざわついていた。


 映画のチケットなんて、もう何年も行ったことがない。

 裕司は、机の引き出しに封筒を戻す手を止めた。

 数日前、ある患者の家族が「いつもお世話になってるから」と言って置いていったものだった。

 封筒の中には、恋愛映画のペアチケット。

 だが、それを手にしたところで、自分が映画館に足を運ぶ姿はどうにも想像できない。

 使わないなら誰かに、そう思って、向かいの席に座っていた英介に声をかけた。

 「映画、行くか?」

 「は?」

 新聞の折り目を整えていた英介が顔を上げる。裕司は封筒を軽く振った。

 「患者の家族にもらったんだ。恋人でも誘って行けよ」

 「……恋人ね」

 英介は鼻で笑ったような声を漏らす。

 「金のないフリーカメラマンと付き合う女なんて、いないよ」

 裕司は少しだけ苦笑した。

 軽口かと思ったが、本人はどこか本気だった。


 「じゃあ、美夕さんを誘ってくれないか」

 英介は椅子ごと少しのけぞった。

 「映画、嫌いじゃないみたいだったし」

 裕司はコーヒーカップを手に取りながら、事もなげに言った。

 「でもさ、俺ら初対面みたいなもんだよ? 二言三言くらいしか話したことないし」

 「俺みたいな年上の男と行っても退屈だろう。若いやつと行くほうが、気が楽だ」

 「まあ、そうかもな」

 言ってしまってから、英介はしまったと思った。

 だが裕司はただ笑った。

 その笑いには、自嘲でも照れでもなく、どこか他人事のような静けさがあった。

 裕司はカップを置くと、もう用は済んだとばかりに視線を外した。

 

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