第11話 観察棟の夜

 観察棟は、さっきまでいた検査エリアと同じ建物の中にあるはずなのに、空気が違った。


 「こちらが短期観察フロアになります」


 案内係が、機械より少しだけ柔らかい声で言う。


 自動扉が開くと、薬品と洗剤を薄めたような匂いが押し寄せた。

 白い廊下。

 同じような扉が、左右に等間隔で並んでいる。


 病院みたいだ、と一瞬思う。

 でも、壁に掛かっているのは内臓の図ではなく、

 情動指数の平均推移グラフだ。


 「ここは、ちゃんと戻ってこられる人のフロアですよ」


 案内係が、何でもないことのように付け足した。


 “ちゃんと戻ってこられない人”のフロアが、どこかにある。

 言われなくても分かる。

 レンがいるのは、きっとそちら側だ。


 私の部屋は、二人部屋だった。


 ベッドが二つ。

 間に小さな棚と、小さなロッカー。


 もう一つのベッドは空いていた。

 薄い灰色のシーツだけが敷かれている。

 誰かがさっきまで使っていた形跡はない。


 「今はお一人です。空きベッドが出たときに一時的に使うこともありますが」


 看護師らしい女の人が、淡々と説明した。


 年齢はよく分からない。

 髪はきっちりまとめて、バンドは制服の袖の中に隠れている。


 「夜までこちらでお休みください。

  夕方に一度、数値の確認があります。

  それまでは、読書スペースとこの部屋の間の移動のみで」


 私はうなずいて、ベッドの端に腰をおろした。


 マットレスは新しくはないけれど、沈み込むほどでもない。

 「暫定の居場所」という感じがちょうどする硬さだった。


 荷物と呼べるものは何もない。

 持ち込めるものもほとんどない。


 あるのは、バンドと、自分の揺れだけだ。


 ◇


 夕方になると、廊下に小さな音楽のようなチャイムが鳴った。

 無旋律の、通知用の音。


 「情動ログの回収を行います。順番に端末をお当てしますね」


 看護師が大部屋や個室を回りながら声をかけていく。


 部屋ごとにドアが開き、

 患者たちが順番に廊下に出て、

 手首のバンドに小さな端末を「ピッ」と当てられていく。


 「どうぞ」


 私の番になった。


 看護師が差し出した端末は、

 ポケットサイズの薄い箱だった。

 先端に、小さな読み取り口がある。


 私はバンドの内側を上に向けて手首を差し出す。


「失礼しますね」



 端末が触れる。

 一瞬、バンドの光が強くなり、すぐに元に戻った。


 端末の画面に、今日一日のログが縮められた形で表示される。

 時間軸に沿って並ぶ細い線。

 午前の検査。

 啓発ルーム。

 診察室。


 看護師は、それを一瞥するだけだった。


 「はい、基準内ですね。

  少しだけ揺れているところはありますが、許容範囲です」


 許容。

 揺れてもいい範囲。

 どこまでが“人間”で、どこからが“危険物”なのかを決める線。


 「ロビーのモニタに、今フロア全体のグラフが出ています。

  ご覧になりたい方は、食後にでも」


 看護師は最後にそう言って、次の部屋に向かった。


 私はしばらくベッドの縁に座っていたが、

 好奇心と不安を半々に混ぜたようなものに押されて、

 部屋を出た。


 ◇


 観察棟の中央には、小さなロビーがあった。


 自販機と、書棚と、

 低いソファがいくつか。


 その一角の壁に、大きなモニタが埋め込まれている。

 そこに、フロア全体の情動指数のグラフが映っていた。


 横軸に時間。

 縦軸に平均E-Index。

 その横に、小さな帯グラフがいくつも並んでいる。


 《本日 入棟者》

 《観察継続者》

 《退棟予定者》


 それぞれの帯の中に、さらに細い線が集まっている。

 一本ずつが、誰か一人の、その日の揺れだ。


 私は、無意識に自分のラインを探した。


 名前は出ていない。

 番号と、簡単なラベルだけだ。


 色の薄いラインがいくつも重なっている中で、

 一つだけ、途中で針のように上方向へ伸びている線があった。


 《Sadness/単発ピーク》


 その下に、小さく《関連タグ:家族》とある。


 私は喉を鳴らさないように息を飲んだ。


 他の人たちのラインは、

 始まりから終わりまで小刻みに揺れている。

 FearやAnxietyのラベルが多い。

 「怖がりすぎて疲れた人」という比喩が、妙に納得できる形だ。


 「ここにいる人はね、

  ほとんど“怖がりすぎて疲れた人”ばかりですよ」


 背後から声がした。


 振り向くと、さっきの看護師が立っていた。


 「驚かせてしまいましたか。

  時々、説明したほうが落ち着く方も多くて」


 彼女はモニタに視線を移す。


 「ほら、ここ。

  少しずつ揺れてはいるけれど、

 一気に跳ねることはないでしょう?」


 Fearのラインを指す指先。

 細かく震えている線。


 「あなたみたいに、悲しみの値だけが

  針みたいに跳ねる人は、あまりいません」


 針。

 さっき、自分でそう思ったばかりだった。


 「珍しい、ということは……悪いことですか」


 自分でも意外な質問が口からこぼれた。


 看護師は小さく首を傾げる。


 「良いとか悪いとかではなくて、

  “扱い方が分かりにくい”という感じでしょうかね。

  システムも、人も」


 「扱い方」


 「怖がりすぎる人は、

  『ここは安全ですよ』って何度か説明すれば、

  少し落ち着いていくこともあります。


  でも、悲しみは……そう簡単にはいかないのですよね」


 そこで、彼女は言葉を切った。


 なくなったもの。

 レンのいる場所。

 レンがいない部屋。


 バンドが、手首の内側でほんの少しだけ光を増した。


 看護師はそれに気づいたのか、

 それ以上は踏み込まなかった。


 「今日は、ここまでにしましょう。

  夕食のあと、またログを取りに来ますね」


 彼女はそう言って、ナースステーションの方へ戻っていった。


 私はしばらくモニタの前に立ち尽くしていたが、

 画面の数字がただの線に見えてくる前に、視線を引きはがした。


 ◇


 ナースステーションの前を通りかかったとき、

 中のモニタがちらりと目に入った。


 カウンター越しに、斜めから覗く形になる。


 そこにも一覧が出ていた。


 ただ、ロビーのモニタと違うのは、

 名前の代わりに、記号のようなIDが並んでいることだ。


 《PT-***》《PT-***》──患者。


 その下に、別のタブがある。


 《STAFF/ESB》


 看護師が操作をしていたのだろう。

 タブが一瞬だけ切り替わり、

 その内容がちらりと見えた。


 《MD-12》

 《NS-03》

 《SIG-07》


 職員のID。

 医師、看護師、鎮静官。


 患者のラインと同じように、

 細いバーが横に伸びている。

 基準値内は灰色。

 警告に近づくと、橙色。


 その中の一本が、

 短く橙に跳ねて、すぐに戻った。


 《SIG-07 E-Index/一時上昇》


 小さな文字がついていたように見えた。

 距離があって、全部は読めない。


 「ちょっと、ごめんなさいね」


 カウンターの中の看護師が、

 慌てるでもなく自然な動作でタブを戻した。


 「患者さん用の画面は、ロビーのモニタだけですから。

  こっちは、職員向けの管理画面なんです」


 咎めるような口調ではなかった。

 ただ、「線引き」をさらっと確認する声だった。


 私は「すみません」とだけ言って、

 ステーションの前から離れた。


 啓発ルームの映像では、

 鎮静官は揺れない人間だ、と説明されていた。


 揺れないように訓練された兵士。

 感情を持たない治安の象徴。


 さっき、画面の中で一度だけ跳ねた橙色のバーが、

 その映像の上に小さな傷をつけた。


 ◇


 夜になっても、なかなか眠れなかった。


 観察棟の照明は、完全には落とされない。

 廊下には常夜灯が残り、

 各部屋のドアの上には、

 バンドの信号と連動する小さなランプが埋め込まれている。


 緑は安定。

 黄は注意。

 赤は警告。


 私はベッドから起き上がり、

 喉の渇きをごまかすように

 「水を飲みに行く」という言い訳を作った。


 給水機は、ロビーのさらに奥にある。


 廊下を歩いていると、

 途中でいくつかの小さな部屋の前を通りかかった。


 「個別面談室」と書かれたプレート。

 その隣には、小さなガラス窓。

 中の様子が少しだけ見える。


 そのうちの一つに、灯りがついていた。


 足を止めるつもりはなかったのに、

 視線が吸い寄せられた。


 ガラス越しに、中の様子が見える。


 白い机を挟んで、

 一人の男と、一つのモニタが向かい合っていた。


 黒いコート。

 白いマスク。


 シグだった。


 向かい側の椅子には、人間は座っていない。

 代わりに、机の上のモニタに、

 文字とグラフが表示されている。


 モニタから、合成音声が流れていた。


 「SIG-07 本日情動ログ」

 「情動指数:全時間帯、基準範囲内」

 「ピーク値:○時台、家族関連ワード入力時」


 細かい数字までは聞き取れない。

 でも、「家族」という断片だけが耳に残る。


 別の声が、それに続いた。


 人間の声だ。

 年配の男。

 姿は、ガラスの角度のせいでよく見えない。


 「また家族関連のワードで針が動いている。

  何年経っても、残滓は完全には消えないものだな」


 残滓。

 過去の揺れの残りかす。

 消しきれなかった何か。


 シグは、すぐには答えなかった。


 背筋は真っ直ぐなまま、

 机の上のモニタを見ている。


 「おかげで、君は“感情違反者への憎悪”だけは、

  とても安定している」


 年配の男の声が続く。


 「Eruptionの頃から、

  変わっていない」


 Eruption。


 その単語に、

 私の中のどこかが勝手に反応する。


 情動災害。

 教本の中の線画の街。

 赤く塗られたLZ-4F。


 シグは、少しだけ視線を下げた。


 「……あれは、感情が壊したんじゃない」


 マスク越しの声が、低く、乾いて響いた。


 「感情を放っておいた人間たちが、壊した」


 「だから、抑える?」


 年配の声が、試すように言う。


 「だから、抑える。

  それだけです」


 シグは、それ以上言葉を重ねなかった。


 モニタの合成音声が、また何かを読み上げる。

 「勤務態度」「抑制訓練」「評価」──

 断片だけが耳に届く。


 私はガラス窓から目を離した。


 これ以上見てはいけない気がした。

 見たところで、何かが変わるわけでもないのに、

 ここで視線を固定したら、自分の中の何かが決定的に傾きそうだった。


 給水機で紙コップに水を汲み、

 一気に飲み干す。

 冷たさを感じる前に、喉を通り過ぎていった。


 部屋に戻ろうとしたときだった。


 廊下の角を曲がったところで、

 さっきの面談室のドアが開いた。


 黒いコートが出てくる。

 白いマスク。


 シグだった。


 立ち止まるタイミングが合ってしまって、

 真正面からぶつかる形になった。


 「……観察棟の空気には、慣れたか」


 先に口を開いたのは、シグの方だった。


 問いというより、

 「ここにいる理由を確認している」ような調子だ。


 「まだ、一日目なので」


 喉が少し乾いているのに気づいた。

 さっき水を飲んだばかりなのに。


 沈黙が、数秒分だけ廊下に溜まる。


 口が勝手に動いた。


 「……“揺れているのは私だけ”って顔をされるのは、

  あまり気分がよくないです」


 言ってから、自分で驚いた。


 シグは、少しだけ首を傾けたように見えた。


 「誰も、そんな顔はしていない」


 淡々とした返事。

 けれど、その直後に続いた言葉が、

 さっきの面談室の光景と重なる。


 「君の揺れは、ログに残る」


 彼は廊下の天井を一瞬だけ見上げた。

 そこには、小さなランプと、

 センサーらしき黒い点が埋め込まれている。


 「俺の揺れは、ログにしか残らない」


 「ログにしか」


 「どちらが楽かは、知らない」


 マスクの奥の口元は見えない。

 でも、声だけは、

 あの合成音声より少しだけ人間らしく揺れていた。


 私は何も言えなかった。


 彼が何をどこまで知っていて、

 何をどこまで信じているのか、

 判別がつかなかったからだ。


 シグは、それ以上何も言わず、

 廊下の奥へ歩いていった。


 黒いコートの裾が、観察棟の白い空気を少しだけ乱して、

 すぐに元に戻る。


 ◇


 部屋に戻ると、

 ドアの上の小さなランプが、淡い緑色で光っていた。


 バンドの数値は基準値の真ん中あたり。

 ユニット全体の平均と、大きくは違わない。


 ドアの外の廊下には、

 患者用のランプとは別に、

 職員用のインジケータが並んでいると聞いたことがある。


 それがどんな色で光っているのか、

 ここからは見えない。


 揺れているのは、私たちだけじゃない。


 ベッドに横になりながら、

 天井を見つめる。


 ただ、その揺れの使い道を決める手は、

 私たちのものじゃない。


 泣きたいときに泣くことも、

 怒りたいときに怒ることも、

 誰かを憎みたいときに憎むことも。


 レンが連れていかれた夜、

 私の悲しみは、都市の目には「許容外の揺れ」として残った。


 あの災害の夜にも、

 誰かの揺れがそうやって“素材”に変えられたのかもしれない。


 同じ揺れでも、

 都市がどうラベルを貼るかで、

 罰と燃料に分けられていく。


 “更生”とか“観察”とか、

 柔らかいことばで塗られた仕分けの先に、

 どんな部屋が続いているのか。


 さっきの鎮静官の背中も、

 きっとどこかで、その奥と繋がっている。


 天井の薄い光が、

 まぶたの裏側でゆっくり揺れた。

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