第5話 潜伏と取引
地下の空気は、湿っている。
湿り気が皮膚に貼りつく。匂いがある。油と土と、人の体温の匂い。禁じられているはずのものが、ここでは普通に存在していて、私はその普通さにまず戸惑う。戸惑いが数字に触れないように、息を整える癖だけは地上のままだ。
ミラのブースの奥。壁の裏にもうひとつ、狭い区画があった。薄い鉄板で仕切られた寝床と、壊れかけの換気扇、いつ誰が落としたのかわからない毛布の束。潜伏区画。匿い部屋。
私はそこに押し込まれるみたいに座った。
バンドはまだ手首にある。けれど、この区画では通信の気配が薄い。震えが来ない静けさの中で、心臓の音がやけに近く聞こえる。ドクン、ドクン。数字の代わりに、生のリズムが私の中に残っている。
姉ちゃん、と言う口の形。
路地で割れたケースの湿った冷たさと、あれに触れた瞬間、レンの瞳が吸い込まれていったこと。
思い出すだけで喉が詰まる。
ミラは区画の入口に寄りかかって、煙を指先で揉み消した。煙草の匂いが、この世界では異物みたいに濃い。でも地下では、それがただの匂いとして溶けている。
「泣き腫らしてないね」
泣き腫らす、という語彙は規定の外だ。なのに、彼女に言われると、私はようやく自分の頬が乾いていたことに気づく。乾きの感覚にすら、私は遅れて気づく。
「泣く暇がない」
自分で言って、声の平らさに少し驚く。平らでいられるのは、怖さの前で体が固まっているからかもしれない。
ミラは肩をすくめた。
「それなら早い。条件はさっき言った通り」
私は黙って頷いた。頷きの角度に余分な揺れが出ないようにする。
ミラは足元の端末を引き寄せ、画面を私の方へ向けた。暗い画面に白い線だけが浮かぶ。都市の地図。その中に、ひとつだけ黒い塊がある。
「更生施設。地上はそう呼ぶ。地下は別の名前で呼ぶ」
彼女の指が黒い塊をなぞる。
「採取場。平坦化工場。好きなのを選べばいい」
軽い口調だった。軽い口調で、そこがどんな場所かを言い切れることが怖い。
「レンは、そこにいる」
言い切られると、私の中の空洞の輪郭がくっきりする。私は息を吸って吐く。吸って吐くしか、今はできない。
「この“改定”でね」
ミラが壁のニュース字幕を真似るみたいに言う。
「Redの搬送が早くなる。検査も治療も手順が短縮される。つまり削られる速度が上がる」
削られる。
その語彙が、胸の奥の薄い膜を叩く。叩かれた膜が揺れそうになったところで、私はまた息を整える。
「時間がない。今夜からは特にね」
今夜、という言葉が、路地の割れたケースの湿度と重なる。あれが偶然だったとしても、都市は偶然を利用する。利用するたびに、誰かの宛先が決まる。
「中枢のログを取ってくる。そうすれば、私は施設の動きに手を出せる」
彼女は少し笑う。
「弟を引き出すだけじゃない。施設の奥にある“宛先のしくみ”も取れるかもしれない」
宛先。
私はその言葉が出た瞬間、レンが“荷物の姿勢”で運ばれていった光景を思い出した。荷物には宛先がある。宛先があるから、どこかへ届く。届いた先で、開けられる。
開けられたら、削られる。
「弟だけなら、救出でいい」
ミラが言う。
「でもログは、もっと大きい。これを取れば、上層の黒塗りも、送信先の操作も、ぜんぶ見える」
私は端末の白い線を見た。白い線の中に、黒い塊がある。その黒さが、地上の灰色より濃い。
「失敗したらどうなる?」
私は訊いた。訊くこと自体、この数時間で二度目の規定外だ。
「君も採取される。地下は報復される。ログは取り返せなくなる」
淡々と返す声が、いちばん怖い。
「それでもやる?」
私は答えなかった。答えの前に、答えの形が詰まっている。
やる、と言えば戻れない。
やらない、と言えばレンが戻れない。
その二つの宛先が、私の中で重なって、どちらかを選ばないと息ができない。
「……レンの宛先を、私が取り返す」
ようやく言葉になった。平らに言った。平らに言わないと壊れる。壊れたら私も拾われる。
ミラは満足したのか、しなかったのか分からない顔をして、端末を閉じた。
「じゃあ段取りを話そう」
彼女が指を鳴らすと、奥の通路から背の低い男が出てきた。顔が暗い。でも視線は迷っていない。地下の人間の視線だ。
「ギド。こいつが偽装を作る」
男は何も言わず、袋を床に置いた。袋の中から、白い小さなケースがいくつか出てくる。地上の配給ケースにそっくりだが、角の刻印が違う。
「空の薬容器」
ミラが言う。
「中身は要らない。見た目が必要」
男が次に出したのは、情動バンドの外装だった。薄い皮膜のような素材で、上から被せると、バンドの型番が別物に見えるようになる。
「安定化診療用のモデル」
ミラが続ける。
「Calm Class向けの“情動再調整”枠がある。表向きは治療。実態は採取。そこに患者として入る」
私はバンドの外装を指で触った。ひやりとしている。ひやりとしたものは、数字より正しい。
「私が?」
「君が」
ミラは頷く。
「グレイが効かない体質。数値が下がらない体質。施設からしたら“検査対象として美味しい”」
美味しい。
その言葉に嫌悪が湧きかけて、私はすぐ押し込めた。押し込める練習だけは、ずっとしてきた。
「診療扱いで入れば、初期棟には通される。そこから奥へ行くルートがある」
ギドが机に紙を広げた。手書きの施設見取り図。地上の地図には出ない、内部の線だ。
「初期棟の搬送通路は、この時間帯に一度だけ開く」
ミラが指で示す。
「同期直前に、Redの再計測がある。そのときに“奥へ送られる箱”が通る」
箱。
レンの姿勢がまた浮かぶ。
「君はその箱に紛れる」
私は黙って図を見た。線の先に黒く塗られた区画がある。そこが中枢に繋がる、と彼女は言いたいのだろう。
「ログはそこにある」
ミラの声が、少しだけ低くなる。
「施設の奥には“感情波の送信ログ”がある。上層だけ黒塗りで消されるやつ。そこが空いているときしか取れない。今夜なら、いける」
今夜。
また今夜。
「地下はね、意外と“宛先の裏側”に詳しいの」
彼女はそれ以上は言わなかった。言わないまま、指先で空の薬容器を転がす。転がる音が、狭い区画に小さく響く。
「一つだけ言っておく」
ミラが言う。
「中枢のログは弟より価値がある。だから君を入れるんだ。弟優先の手順は、施設の中にはない」
私は息を吸って吐いた。
価値。
弟の価値。
そんな比較の語彙がこの世界で生きていることが、逆にすごく現実的で、私の背中を冷やす。
でも冷やされた背中の奥に、別の熱がひそんでいる気もする。熱に名前をつけない。つけないままでも、熱はそこにある。
「……わかった」
私は言った。
言うしかない。
言った瞬間、喉の奥がまた詰まる。詰まりは涙の入口だ。入口を閉めるために、私は息を数えた。一、二、三。胸の奥の熱が、少しだけ引く。
ミラが外装バンドを私の手首に当てた。
「明け方前に動く。同期の前。街が一番静かな時間」
ギドが小さなカードを差し出す。薄いプラスチック。偽の診療番号。
「これが君の名札」
私は受け取る。軽い。軽すぎて、逆に重い。
区画の奥で誰かが低く笑った。地下の笑い声は短い。長く笑うほど余裕がない。余裕がないのに笑う。地上とは逆だ。
「今日、路地にいた若い鎮静官」
笑い声の主が誰か分からないまま、噂だけが漂う。
「白いのに、あれは少し違う」
ミラは聞いているのか聞いていないのか分からない顔で、煙の残り香を指先で散らした。
「気にしなくていい。施設では誰も信用しないこと。特に“優しい手順”はね」
私は頷いた。
頷いたけれど、涙の筋をなぞった視線の感触が、まだ頬の裏側に残っている。
残っているものに意味を与えない。
与えたら、そいつは感情になる。
感情は違法で、違法は宛先を決める。
私は、空の薬容器と偽装バンドを袋に入れた。袋の口を閉じる動きが、どこか儀式みたいにゆっくりになる。ゆっくりの中で、私は自分が戻れないところへ歩き出しているのを知る。
「最後にもう一回、聞く」
ミラが言う。
「入ったら戻れないよ。弟を取れなかったとき、君はどうする?」
私は答えを探した。探す手前で答えが出ていた。
「取る」
平らに言った。
「弟も、ログも。宛先も」
ミラは、珍しく何も言わなかった。
ただ、薄い笑いの形だけが口元に貼りついている。
私は立ち上がった。立ち上がる足の裏に、地上の床とは違う温度が触れる。地下の温度は、生き物みたいに不安定だ。
袋を肩にかける。
冷たいものだけが、今の私を前へ運ぶ。
明け方前。
同期の前。
静かな時間に、私は施設へ向かう。
感情じゃなく、宛先を抱えて歩き出す。
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