14.危険な水の精
朝から大声を出して疲弊してしまった忉李は、乾飯をモソモソと口の中に放り込んで、竹筒の水筒に入っている水で流し込んだ。
目の下にはうっすらと眠気の影が差し、まぶたはまだ重たそうだ。
「朝から元気がないな、忉李。さっきまであんなに威勢がよかったのに」
「あんなに元気だったから、疲れちゃったんでしょう。今はそっとしといてやりなさいよ、白雅」
放っておくと余計なことをしかねない白雅に釘を刺しつつ、紫闇はなにかを先ほどからずっと調べていた。
「……おかしいわねぇ」
「どうした? 紫闇」
紫闇が手にしているのは『真珠盤』と呼ばれる、珠を緩やかに配置した小さな円盤だ。それに水晶の振り子を組み合わせ、目的地を探っている。
「アタシたち、山頂目指して上へ上へと登ってきたけど、どうもさっきから目的地が下を指しているのよねー……それも、この山の中心部。どっかに降りる道でもあるのかしら?」
しきりに首を捻る紫闇に、白雅と景葵は顔を見合わせた。
「今までどこにも入口はなかったよな。風穴だってここしか見当たらなかったわけだし」
「反対側から見ればあるかもしれないでしょう?」
「……確かに」
すると、それまで黙っていた忉李がポツリと口を開いた。
「入口ならあった、と思う」
「え?」
三人の視線が一斉に忉李へ向いた。
「景葵の背から見たんだ。山頂付近に洞窟の口のようなものが。霧の切れ間で、一瞬だけ黒い口が開いたように見えた。見間違いかもしれないけど……」
その言葉に紫闇が目を輝かせた。
「充分な情報よ。山頂へ向かう理由としては、これで充分だわ」
白雅も紫闇に同意する。
「見間違いかどうかは行けばわかるしな」
旅慣れた二人に促されて、忉李は最後のひと欠片を飲み込んだ。景葵はさっさと出発の準備を整えていた。
風穴の前には朝の冷気がまだ漂い、吐息が白く揺れた。
「食事が済んだら出発だ。行こう、忉李」
白雅は忉李に手を差し出した。忉李はわずかにためらったが、その手を取ると立ちあがった。
白雅の手のひらは、冷えた空気の中では不思議なほど温かかった。
*
そして、山頂目指して歩き続け、その日の昼頃。
「あったな、入口」
白雅は目の前の光景に感嘆していた。
「凄いじゃない、ボウヤ。よく見てたわねぇ」
「ボウヤ言うな」
紫闇の言葉に、忉李が拗ねる。景葵は主を誉め讃えた。
「お見事です、殿下」
四人は、ぽっかりと闇を抱えた洞窟の前に立った。入口付近には冷えた空気が滲み出し、草木の葉先を白く曇らせている。
「さっそく入ろう」
「だが、明かりはどうするんだ? 松明なんて用意していないぞ」
「そうだねぇ。ここはひとつ、頼りないけど……」
紫闇はそう言うと、荷物からゴソゴソと密閉された小瓶をたくさん取り出した。どれも中には液体が波々と入っている。そのうち違う種類の物をひとつずつ選んで蓋を開けると、空の中瓶に移して混ぜた。すると、液体に変化が生じた。
「光り出した。なんだそれは?」
「不思議だろう? 発光物質というものさ。とある液体同士を混ぜ合わせると、こんな風に光を放つんだ」
「へぇ……そんなものがあるのか」
忉李が目を丸くする。
「少々頼りないけど無いよりマシなはずだよ。これで明かりは確保、と」
そう言って、紫闇は蓋をした。混ぜ合わせた量にもよるが、少なくとも数刻程度は発光するらしい。
「じゃあ、早いところ先に進もう。景葵、交替しなくて大丈夫か?」
「大丈夫だ」
景葵が頷いたのを確認して中へ入る。今度は白雅が先頭で、次が紫闇、景葵と忉李の順だった。
足音が、湿った岩肌に吸い込まれながらも、細く尾を引いて返ってくる。一歩ごとに、洞窟が彼らの存在を確かめるように鳴いた。
「いかにもなにか出そうな感じだな……」
「嫌がらせか? 白雅」
「いや、正直な感想」
「余計に悪いわ!」
声が反響するため、ヒソヒソと小声で会話しながら、坂になっている洞窟内をくだっていく。霊王山は古代の死火山らしく、この洞窟は溶岩隧道のようだ。内部には溶岩鍾乳や溶岩石筍が見とめられた。
灯りに照らされた溶岩鍾乳は黒く艶めき、ところどころ赤錆色が筋を描いている。石筍はまるで地面の爪のように突き出し、歩くたびに影が歪んだ。
「有史以来、火山活動がないといっても、こうやって崩落もせずに現存しているものなんだな」
「そうね。溶岩は玄武岩みたいだけど、脆くもなっていないようだし……不思議な場所だわ」
白雅と紫闇の呟き声が洞窟内に反響する。
「竜神が竜珠とともに、ここにいるんだろう? だったら、不思議な力でこの地を守っていてもおかしくはないんじゃないのか?」
忉李の言葉に、白雅と紫闇は顔を見合わせた。洞窟の入口のことといい、この子には驚かされる。
「忉李って、一番大事なことを、いつの間にか知っているよなー」
「そうそう。自分でも気づかないうちに、物事の核心に迫っているっていうか」
二人に褒められて、忉李は照れて頬を赤く染めた。暗がりでもなんとなくそれがわかってしまって白雅は笑った。
しばらく進むと、洞窟内の空気がわずかに湿り気を帯びてきた。
湿った空気が顔にまとわりつき、呼吸のたびに肺が重く沈む。硫黄の匂いが薄い膜となって喉に貼りついた。
「なぁ、硫黄の匂いがしないか?」
「んー……アラ、本当。かすかにするわねぇ……温泉でも湧いているんじゃないかしら」
「じゃあ、地熱が近くまで来ているのか?」
「そういうことになるわねぇ」
つまりは、有史以来、一度も噴火したことがないとはいえ、噴火の危険がないわけではないのだ。
「……できれば、あまり時間をかけずに竜神にお目にかかりたいものだな」
「そうね」
そして、延々とくだる隧道を歩き続けた四人には、徐々に疲れが見えてきた。白雅は額の汗を拭った。湿気で乾かず、指先に粘り気が残る。
途中、いくつもの分岐点を過ぎて、道しるべがなければ、もう戻ることも不可能なほど奥まで来ていた。
「もう、この洞窟に入ってから、どれくらい経った?」
「かれこれ、六刻くらいかしら。そろそろアタシは活動限界よ。アンタたちはまだ体力があるでしょうけどね」
「いや、意外にキテる」
「アラ、そう」
そういう話し声も元気がなかった。声を潜めるまでもなく、小声でしかもう話せないのだ。
やがて通路がふいに途切れ、闇が落ちる音すら聞こえそうな広間が広がった。足元の岩が、ごくかすかにひんやりと震えている。まるで、天然の大広間のようだ。
「ここは……?」
「白雅、ちょっと上を見上げて御覧なさいな」
「上?」
高みの闇の奥に、ひと粒の光が揺れていた。灯火にも星にも似ず、かすかに脈動しているようにも見える。
「あれ……もしかして、火口?」
「そうよ。となると、ここを降りると最深部のはずなんだけど……足場、ある?」
「ちょっと待て。調べてみる」
空間に満ちた湿気と硫黄の匂いのせいで、呼吸がしづらい。白雅は左右の壁付近を注意深く調べた。壁際に沿って、細い足場が広間を螺旋状に削っていた。
白雅は足場の縁に立ち、つま先でそっと岩肌を押した。ざらりとした感触が返ってきて、ほんの少しだけ息をついた。
「細いが……一人ずつなら降りられる」
「じゃあ、そこを行くしかないわね」
白雅は紫闇と顔を見合わせると、大きく頷いたのだった。
*
「私が先に行く。明かりをくれ」
紫闇は小瓶をひとつ、白雅に差し出した。小瓶を受け取って、白雅を先頭にして順番に進む。
「景葵、忉李を背負ったままで大丈夫か?」
「む……」
「馬鹿、大丈夫じゃなかったら、さっさと言え! 交替すると言ってあっただろうが!」
「大丈夫だ、白雅。僕も少しは歩くから」
忉李が景葵の背から降りた。
「景葵、気づかなくてすまない」
「いえ、殿下、自分こそ申し訳ありません」
景葵が申し訳なさそうに忉李に謝罪した。そのときだった。
「ちょっと待て……なにか、いるぞ……」
白雅の声に緊張が滲んだ。白雅の視線の先──暗闇の奥で、岩肌になにかが吸いつくような音がした。
足元の岩が、かすかに震えたような気がした。風の通らないはずの洞窟の奥で、湿った空気がゆっくりと揺らぐ。
次に、影がゆっくりと形を持ち始める。蛇──いや、蛇より太い。四本の脚が岩を掴み、頭がこちらの光に浮かびあがった。
その体表は水に濡れたように光っている。影が岩肌を這うたび、ぬめりを帯びた鱗が光を撥ね返し、洞窟に淡い反射が走った。
「竜神か!?」
忉李が叫ぶ。だが、紫闇がそれを制した。
「待って。竜神にしては小さいわ。これはおそらく蛟、水の精よ」
「蛟?」
「竜神の眷属。姿は蛇に似ているけれど、四脚を持っていて、毒気を吐くと言われているわ」
「つまり……」
言っている傍から、竜に似た生き物は大きく息を吸い込んだ。
「息を止めて急いで下方へ逃げなさい!」
紫闇が三人にそう警告した次の瞬間、毒気が大量の呼気となって蛟の口から吐き出された。
それは白い霧のようなものではなく、金属臭を伴った灰緑の煙だった。
紫闇が白雅を庇うように一歩、前へ出た。その瞬間、毒気が彼女を包み込んだ。
「──!」
息が詰まる音が、誰のものかもわからなかった。
忉李が紫闇の名前を叫ぼうとしたら、景葵の手にした手巾で口と鼻を覆われた。
そのまま忉李を小脇に抱えて景葵は狭い足場を走った。息が焼けるように熱い。肺が悲鳴をあげても、足は止まらなかった。
狭い足場がわずかにたわみ、そのたび視界が揺れる。岩肌が足裏を滑らせようとするのを、必死に踏みしめた。
忉李の体温が、腕の中で確かな重みとして伝わっていた。
「景葵、こっちだ! ここまでくれば大丈夫だ。早く来い!」
先を行ったはずの白雅が叫んでいる。確かに白雅の場所ならば大丈夫そうだ。足場も他の場所よりわずかに広い。
景葵は駆けた。駆けて、白雅の元へ辿りつくと、忉李をおろし、ようやく息をついたのであった。
「よくやった、景葵。よく忉李を守った!」
「だが、紫闇が……!」
荒い息の下、紫闇のことを心配する景葵に、白雅は彼を安心させるように笑った。
「私に任せろ。一応言っておくが、こちらを見るんじゃないぞ」
景葵たちと交代するように、背の荷物を降ろした白雅が息を止めて駆け抜けた。白い影が走る。白雅の影が、ひと筋の白光のように闇を裂いた。狭い足場でよくぞと思うほどの走りっぷりだった。
こちらを見るなと言われていたのを思い出して、慌てて忉李の目を塞ぎ、景葵も蛟から目を逸らす。一瞬、空気がひりついた。
次の瞬間、白光が洞窟を焼いた。世界が一瞬、真昼に変わった。直後に、蛟の咆哮が洞を震わせる。そして、すべてが闇に還った。
「白雅……紫闇……」
呟いた声がどちらのものかはわからなかった。案外、二人ともだったのかもしれない。
「景葵、あれ!」
忉李が指差した先には、白い人影があった。紫闇をその華奢な肩に担ぎ、荷物までご丁寧に提げている。
救い出したものの、紫闇の体重に足場が軋む。紫闇の身体が傾き、ゆっくりと重力に引かれ始める。その一瞬が永遠にも感じられた。
白雅の身体が傾いた。落ちる──その予感に、身体が勝手に動いた。
腰の鋼線束を岩に引っかけ、反動で紫闇の身体を抱え込む。握力が悲鳴をあげた。
それは束にした鋼線を編んだもので、人間二人くらいの体重くらいならば余裕で支えられる代物だった。ただ問題は白雅の握力だ。せいぜい一人分だろう。
白雅は歯を食いしばり、紫闇の身体を抱えたまま、次の足場へ降り切った。
その手が岩を掴んだ瞬間、深い底から鈍い水音が響く。その響きは、ただの水ではあり得ない重みを帯びていた。
──竜神の眠る泉が、すぐそこにあるかのように
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます