信長、異世界にて「徳」を学ぶ 〜群雄割拠のヴァルデニア王国、辺境から始める天下布武〜
喜湖水庵
第一章 ラインハルトの覚醒
第1話 覇王の洗礼
「乱世の只中に、少年は目覚める――その魂は、かつて天下人と呼ばれた男だった」
ヴァルデニア王国東部。アストリア大陸中央に位置するこの王国は、二〇〇年前の王位継承戦争以来、その権威を失墜させ、各地の有力貴族が独自に勢力を競い合う戦乱の世となっていた。東方からは強大なガリア帝国の脅威が迫り、王国はまさに乱世の只中にあった。
ラインハルト・フォン・オーディン、十歳。男爵家の嫡男である彼は、翌日、教会で洗礼式を迎える。洗礼式とは、自らの魔力の素養、スキル、そして加護をアーティファクトで確かめるという、貴族の子弟にとって最も重要な儀式である。しかし、彼の朝は荘厳な教会ではなく、ノイエン県郊外の、獣の匂いが立ち込める森の中で始まっていた。
「ラインハルト様、やはり西側の森は獲物が豊富だ! これなら今日の獲物も文句なしだぜ!」
ルカスが声を弾ませた。彼はラインハルトの父ヘルマンが率いる傭兵団の一員の子で、ラインハルトとは幼馴染だ。粗末な革鎧を身につけているが、身軽さと俊敏さでは傭兵団の中でも一、二を争う。
その俊敏さはまだ粗削りだが、やがて百戦の将をも凌ぐ武勇へと繋がるだろう――そんな未来を予感させる動きだった。
ラインハルトは弓をゆっくりと構えながら、冷静に答えた。
「ルカス、様付けは不要だと何度も言っただろう。それに、獲物が多いのは当然だ。昨日の夕方の風向きを覚えているか?あれは東側の匂いを完全に消し去った。警戒心が強い獣ほど、今日はこちらへ移動していると予測できた」
「予測か。ラインハルト様はいつも通り、獲物の動きを先読みだ。さすがは領主様の嫡男だ」ルカスは笑ったが、その瞳には心からの敬意が宿っていた。
その時、後方で地図を広げていた少女、セーラが声を上げた。彼女はノイエンでも指折りの大商人の娘であり、情報収集と計算に長けていた。
彼女の冷静な分析は、商人の才覚に留まらず、いずれ戦場で地図をも動かす力となるだろう。
「予測は単なる確率じゃないわ、ルカス。昨夜、私は東側の罠師たちに聞き込みをしたの。彼らは皆、獲物の移動がいつもより早いと言っていた。ラインハルト様はその情報を基に、風と地形を計算しただけよ」
ラインハルトは弓を下ろし、軽く笑った。
「セーラ、感謝する。君の情報がなければ、いくら予測を立てても無駄だった」
ラインハルトの周りに集まる友人たちは、身分も生い立ちもバラバラだった。この辺境の地では、貴族の嫡男が平民の子と対等に交流するのは異例のことだったが、ラインハルトは彼らの才能を身分で判断しなかった。
彼らは、ラインハルトの冷静な判断力と公平な姿勢に惹かれていた。そしてその絆は、やがて乱世を渡る覇道の礎となる。
彼らがノイエンの街へ戻る途中、国境付近の監視塔から甲冑をまとった兵士たちが慌ただしく駆け抜けていく姿が見えた。
「ああ、またか。伯爵様からのお呼びだろう」ルカスがうんざりした顔で言った。「辺境は物騒ね。いつだって、私たちが稼いだお金が、彼らの武器に変わっていく」セーラは冷めた口調で付け加えた。
ラインハルトは無言でその光景を見つめた。交易港として栄えるノイエンの賑わいのすぐそばに、常に剣と血の匂いが漂う、これが彼の日常だった。父ヘルマンが治めるノイエンは、賑わいと、いつ破裂してもおかしくない緊張感とが混在する、不安定な土地だった。
領主邸に戻ったラインハルトは、執務室に向かう。父ヘルマン・フォン・オーディンは、ラインハルトの帰りを待っていたかのように、執務机に座り込んだまま、疲れた表情で迎えた。彼の背後には、彼の代名詞である炎の魔法を制御するための魔導具が、重々しく飾られていた。
「戻ったか、ラインハルト。洗礼式を前にして、気が休まらないだろう」
ヘルマンは元平民らしい質実剛健な体格をしていたが、四十歳にしてすでに白髪が目立っていた。彼は元傭兵でありながら、その並外れた火の魔法の才能と「火焔の英雄」と呼ばれるほどの武功によって、エアデ伯爵家出身の令嬢である母エリーゼと結婚し、男爵位とノイエン県を授かった異色の経歴を持つ。
平民たちは彼の武勇と、傭兵時代の仲間たちへの公平な恩賞に一定の敬意を払っていたが、古くからの貴族や商人たちは、彼を「成り上がり」として軽蔑し、母方の実家であるエアデ伯爵家が彼を都合の良い「駒」として扱っていることを知っていた。
ラインハルトは、父が伯爵家の尖兵として危険な最前線に立たされ、消耗していることを漠然と理解していた。
「父上、狩りは楽しめました。明日に備えて、ゆっくりお休みになってください」ラインハルトは言った。
ヘルマンは苦笑した。「そうもいかん。今しがた、エアデ伯爵家から伝令が来た。ミカーワー国境の小競り合いが激化したらしい。今夜中に私も出立せねばならん」
ヘルマンはラインハルトを真っ直ぐに見つめた。「ラインハルト。明日の儀式は無理をするな。だが、もし魔力があれば……お前が母君の血を色濃く引いていれば、私も少しは楽になる。この地を伯爵家の前線基地から、真の領地に変えられる」
父は英雄だった。炎の魔法を自在に操り、魔物も敵兵も焼き払うその武勇は、ヴァルデニア王国では知らぬ者がいないほどだ。だが、その強さこそが、彼を伯爵家の「駒」として、絶えず戦場に縛り付けていた。ラインハルトは、父の疲弊と、その背後にいる伯爵家の冷酷な意図を理解していた。
「父上、ご武運を」
それがラインハルトが父にかけられる精一杯の言葉だった。
父を見送った後、ラインハルトは居室で母エリーゼに呼び出された。 ラインハルトの成長と教育は、母エリーゼの強い意向と、実家であるエアデ伯爵家の意向に深く縛られていた。母エリーゼは三十二歳。土魔法の名門、エアデ伯爵家出身としての誇りを常に纏っていた。
彼女はもともとエアデ伯爵家の分家の娘であったが、現伯爵の養女となり、英雄ヘルマンに嫁ぐことで伯爵家と辺境領を結びつける役割を担った経緯を持つ。ヘルマンの人間性や功績を理解する優しい母である一方で、自身が伯爵家の血を背負っていること、そしてノイエンの地が伯爵家の前線基地であるというプレッシャーを人一倍強く感じていた。
彼女はラインハルトにも一流の貴族教育を施すことに熱心だった。
「ラインハルト、あなたはエアデの血を引く者です。ノイエンの民を導くためにはヘルマンのような武勇だけでなく、深い教養とそれに基づく冷静な判断が必要です」母の声には、父ヘルマンへの愛情とともに、実家からのプレッシャーに耐えるための焦りが滲んでいた。
「ラインハルト、お父様はまた戦場へ向かわれたわ。わかっているでしょう、私たちはこのノイエンで孤立しているのよ」母の声は焦燥に満ちていた。「伯爵家は、お父様の功績を認めつつも、その出自ゆえに私たちを完全には受け入れていない。明日の儀式の結果が全てよ」
母はラインハルトの肩に手を置いた。「あなたはエアデの血を引く。必ずや、高位の魔力の素養を持つはずよ。そうでないと……伯爵であるお養父様は、私たちを簡単に切り捨てる口実を得てしまうわ。頼むわ、ラインハルト。明日は必ず、価値を示してちょうだい」
ラインハルトは無言で頷いた。彼にとって、儀式の結果は母の心の安定のためにも重要だった。
洗礼式前夜、教育係のヴァルター・ドルンベルク子爵令息が、ラインハルトの部屋を予告なく訪れた。四十二歳のヴァルターは、エアデ伯爵家に古くから仕える名門ドルンベルグ子爵家の三男。形式主義と貴族の身分制度を金科玉条とし、元平民のヘルマン一家全体を心底軽蔑していた。
ヴァルターの細身の体からは、常に古びた香水の匂いと、貴族然とした冷たい空気が漂っていた。彼は名門貴族出身ゆえに強い選民意識を持ち、伯爵家からノイエンに派遣されたことを「名門貴族の監視役」としての栄誉だと考えている。形式主義者であり、ヘルマン男爵家が身分不相応な地位にあることを許せず、彼らの失敗を常に監視している。
「坊っちゃん、少しよろしいですか。明日の儀式について、最終確認を」
「ヴァルター先生、どうぞ」ラインハルトは自ら椅子を勧めた。
ヴァルターは椅子に腰を下ろすことなく、冷ややかな視線をラインハルトに投げつけた。「儀式は、貴族としての栄誉でもあり投資です。教会のアーティファクトである『真実の水晶』にかかる費用は、ノイエン一領民の生涯の稼ぎに匹敵する。その高額な投資に見合うだけの魔力の素養を見せられなければ、伯爵様はノイエンの領地経営、ひいては貴方様の血筋に疑念を抱かれます」
ヴァルターは言葉の端々に、「元平民」の父を持つラインハルトへの軽蔑と、彼が失敗することを期待している悪意を滲ませた。
「ぜひとも母君の血で凡庸以上の結果を出していただきたい。そうでなければ、この男爵家は終わりですぞ。そして、私がこの辺境で無駄に時間を費やしたことになります」
ラインハルトは表情を変えず、ヴァルターの目を見て静かに言った。
「ヴァルター先生の言う通り、貴族の価値は血統と才能で決まる。しかし、その才能を活かす知恵もまた、貴族の義務でしょう。私は、誰よりもノイエンを豊かにする知恵を持っています」
ヴァルターは鼻で笑った。「知恵、ですか。坊っちゃんの若さ溢れる自信は結構。ですが、このヴァルデニア王国では、知恵は魔力に勝てません。魔法の素養、つまり真の力こそが全て。先生のご忠告を忘れないように」
ヴァルターは一拍置き、冷笑を深めた。
「そして忘れないように。血統こそが秩序であり、凡庸な者が夢を見る余地などないのです」
ヴァルターはそれだけを言い残し、傲慢に部屋を後にした。彼の言葉は、貴族の支配構造そのものを示していた。聖光教会のアーティファクトでしか加護やスキルを判定できないという事実は、平民から才能ある者を生まれないようにする、保守派の身分固定の装置なのだ。
ラインハルトは一人残された部屋で、静かに拳を握った。
「ヴァルター先生の言うことは正しい。力、権威、そして身分。この乱世は、それらがすべてだ。だが、私は知っている。力だけでは、全てを失うことを」
彼は窓の外を見た。夜の闇に沈むノイエンの街。父が身を削って守る、この小さな領地。
「明日、私の人生の価値が決まる。いや、決めるのは私自身だ」
翌朝。ノイエンの中心にそびえる聖光教会の神殿は、儀式を見守る貴族や神官たちの緊張感で、異様な熱気に包まれていた。
ラインハルトは、母エリーゼの硬い手を引きながら、神殿の中央へ向かう。父ヘルマンは不在。母の隣には、満足そうな笑みを浮かべたヴァルター子爵令息が控えていた。
荘厳な祭壇の中央には、黒曜石の台座の上に、人の頭ほどの大きさの巨大な『真実の水晶』が据えられていた。淡い光を放つその水晶は、二〇〇〇年前に勇者アストリアが残したと言われる、教会の権威の象徴だ。
「さあ、ラインハルト・フォン・オーディン様。聖光の導きを受けなさい」
儀式を執り行うのは、都から辺境へと派遣されてきたばかりの若き才媛クレメンスだった。経験は浅いが、彼女はこの神聖な儀式を前にしても微塵も緊張は感じられないようだった。
ラインハルトは水晶の前に進み出る。背中に、母の期待、ヴァルターの冷笑、そしてノイエンの領民たちの運命を乗せている。
彼は深呼吸をした。そして、神殿に満ちる視線の圧力の中、ラインハルトは、光を放つ『真実の水晶』に、静かに右手をかざした。
その指先が水晶に触れた――。
その瞬間、ラインハルトの頭蓋を内側から叩き割るような、激しい痛みが襲った。
炎、血、謀略、裏切り、そして三段撃ちの轟音。
膨大な記憶の奔流が、一瞬にしてラインハルトの十年の人生を上書きしていく。
「――余は、織田信長であった」
ラインハルトの瞳の奥で、何かが覚醒した。
――第六天魔王の加護と、天下人の記憶。
少年ラインハルトの覇道は、ここから始まる。
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