第29話 捨てられ原

 雪の降り積もる街道を、長い列が進んでいく。


 難民の動きは、牛の歩みのように遅かった。


 前進、右折、停止──軍隊では、そんな当たり前のことができない。


 すぐに停滞する。離脱して単独行動を取る者がいる。荷車の車輪が思わず道を外れる。母親が子供を抱き抱えて道の脇で立ち止まり、置いていかれそうになる。


 誰もが無口になっていた。文句を言うだけの気力すら、残されていないようだった。


 最後尾のブルッタは、探索と戦いで傷だらけになった侍女用の旅装、生成りシャツの胸元に隠した『大魔石』の首飾り、そして手には黒鉄の斧を持っている。


 かつてのように巨大な荷物を背負っていないため、身軽になったはずなのに、その足取りは重かった。杖代わりの斧が彼女の身を支えている。


 時折、村人たちの視線がブルッタに向く。そこにあるのは、どこか諦めにも似た虚ろな色だった。


 それでも、遅れそうになった村人を見つけると、そこから目を離さず、力を貸して元の列に戻していく。時には歩けなくなった老人を背負う。誰言うともなく、列の最終調整が彼女の役割となっていた。


 彼女が胸元にしまっている石が原因で、みんながこんな目に遭っている。


 隊列の中衛、側面を警戒しながら歩くガドルは、空気の重さに奥歯を噛み締めた。


(……みんな、限界の顔をしているな)


 ガドルは、後方でうつむきながら、泥だらけの足を進めるブルッタに声をかけようとして、やめた。


 今の彼女に必要なのは、慰めではない。この状況を打破する「希望」だ。だが、今の自分にはそれを示すことができない。


 無力感が、重い雪のように肩にのしかかる。


 やがて、隊列が停止した。


 先頭を歩いていたカーミッドが手を挙げて合図を送る。前方から、先行偵察に出ていた二つの影が戻ってきたからだ。


 小人のパプトリナと、狩人の少年オルス。二人の表情は、凍りついたように硬かった。


「……報告」


 パプトリナの声は、淡々としていた。それがかえって、事態の深刻さを物語っていた。


「峡谷ルートの吊り橋、落ちた。完全にね」


 カーミッドが息を呑む。


「……自然崩落か?」


「ううん。人為的な切断だったよ。逃走したヤーゲンの仕業と見て間違いないんじゃない」


 ガドルは眉を吊り上げた。


「そんなことしたら、峡谷に逃げる黒騎士たちだって困るだろうに。自分一人が可愛いのかよ」


 敵味方関係なく退路を断つ行為に、憤りを覚えたのだ。だが、ルナーラは首を横に振った。


「いいえ、こんな峡谷に野営地なんて作らないはず。きっと共和国軍の野営地は山岳方面にあって、彼はそこに向かわず、ここへ一人で逃げ込んだ」


「つまり、黒騎士たちが峡谷に来るはずがないとわかってるから、こんなことができたんだろう。指揮官として拙劣か優秀か、私にはわからん」


 カーミッドが、峡谷の向こう側──対岸の森を見つめると、ルナーラが小さく言う。


「ここで立ち止まっていてはいけない。早く次のルートを決めないと」


 カーミッドが寒さに震える手で地図を広げる。


「……残る道は、一つだけだ」


 カーミッドの指が、地図の東側を指し示した。


 ──東の平原ルート。


 そこは見晴らしの良い平坦な街道だ。歩きやすく、馬車も通れる。本来なら、難民移動に最適な道である。


 しかし、そこは「捨てらればら」と呼ばれる場所でもあった。遮蔽物がなく、空飛ぶ肉食怪物グリフィンの標的になりやすい。


 そして何より──。


「ヤーゲンが橋を落としたということは、敵も我々が平原ルートを通るしかないと予測しているはずだ」


 ヒューマックが、包帯で吊った腕を庇いながら、低い声で言った。


「待ち伏せがあるぜ、きっと」


「わかっている。だが……ここで待機していても、事態は好転しない。戦闘配置を検討する。この先は、打ち捨てられた廃村と水源がある。敵がいるとしたら、そのいずれかを拠点としているだろう。パプトリナとオルスは交代で先行役を務めてくれ。炊煙でも篝火でも何でもいい、人の気配を感じたら、すぐに知らせるんだ」


 カーミッドは決断を下した。


「全隊、進路を東へ! 平原ルートを取る!」


 村人たちの間から、不安のざわめきが広がる。


「平原だって? ……あそこは化け物のせいで、人なんてもう住んでないぞ」


「私たち、どうなっちゃうの……」


 難民の隊列は、東寄りの広い道へと足を進ませていく。


 ガドルは、愛用の盾を背負い直した。金属製の安物で、すぐに歪むがダメージの吸収力は高い。


 ヒューマックは怪我で剣を使えない。パプトリナはまるで暗殺者のように動くが、その腕はあくまで隠密専門の域を出ない。


(何かあったら……オレがやるしかないのか?)


 みな、この三百人を守れる前衛が、実質、彼一人であることは気づいている。しかし、それをあえて口にする者はいない。


 重い空気を纏ったまま、一行は開けた雪原──捨てられ原へと足を踏み入れていく。

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