第26話 寝坊した

 東京の夜は、静かになることを知らなかった。

 それでも、この六畳一間のアパートは、喧騒の端っこから外れているらしく、電車の走る音が遠くでくぐもって聞こえるだけだった。


 蒼侍は薄いマットレスに身を沈め、天井を見つめていた。白いはずの天井は、古い照明のせいでわずかに黄ばんでいて、その小さな染みの一つひとつが、まるで彼の生活の縮図みたいだと感じられる。


『明日、常磐坂駅前のロータリーで』

 先程届いた通知。画面を消して横になってもまぶたの裏に残って消えない。

 蒼侍は明日の約束に備えようとする。

 しかし、眠りにつくことが出来ない。


 先日、魅佳に言われた言葉が頭の中をぐるぐると駆け回る。

『貴重な時間に……キミが入り込む余地なんて、あるの?』

 魅佳の言った言葉は正しい。痛く刺さるほどに。


 白神結月は七人の人格を持っている。そして彼女達は各々の人生を一人の少女の身体で歩んでいる。

 読書が好きで静かな結月。

 運動と遊ぶことが好きで元気な燈。

 ヒーロー作品が好きでクールな泉奈。

 絵を描くことが好きで、小動物のような弱さを持つ楓。

 小悪魔的で、おしとやかで、どこか気品のある日和。

 そして、先日、楓と入れ替わるように現れた、少し危険な雰囲気のある魅佳。


「そしてあと、もう一人か……」

 まだ見ぬ七人目、最後の一人。どんな人物なのか想像もつかない。


 様々な色を持った彼女達の人生に、自分のような何も持たない灰色の人間が踏み入れていいものなのか。

 蒼侍は何度も自分に問いかける。


 時間だけが過ぎ、気付けば深夜二時。

 壁越しに聞こえる隣人のくしゃみさえ、この部屋では妙に大きく響く。けれど、蒼侍は気にする気力もなかった。


 ――このままで、本当にいいのか。

 そんな、答えの出ない問いが、天井の染みのひとつに吸い込まれていく。


 誰かがいるわけでもない。

 励ましてくれる声があるわけでもない。


 ただ、東京の夜だけが、彼の迷いを包み込むように静かに流れていく。

 身体は正直なもので、ふとした瞬間に蒼侍は眠りについていた。


 そして、朝を迎えた。

 スマホの時間を見て、蒼侍は飛び起きた。

 約束の時間を過ぎている。

 心臓が一拍だけ痛いほど跳ねた。

「まじか……」

 記憶を失くしてから、初めて蒼侍は寝坊した。

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