第22話 透書堂

 週明けの月曜日の午後。

 常磐坂の並木道から二本外れた路地に、小さなカフェがある。そこに蒼侍がいた。


 白い外壁に、手書きの文字で『カフェ透書堂』と描かれている。硝子越しには、古い書棚とアンティークのランプ。深煎りの香りよりも、紙とインクの匂いが先に鼻をくすぐる。

 ここは読書をコンセプトにしたカフェだ。小説や漫画など数多くの本が置かれている。


 扉を押すと、ベルが短く鳴った。

 昼を回っても客は少なく、窓際の二人掛けに、白いブラウスの少女が静かに座っていた。


 白神結月。本を読むときの彼女は、いつも凛としている。今日は薄いグレーのカーディガンに、黒のロングスカート。机の上には、紫陽花の施された銀の栞。

 蒼侍は結月に声をかける。

「お待たせしました」

「いいえ、今ちょうど区切りのいいところでしたから、大丈夫です」


 結月は指でページの端をそっと撫で、読みかけの箇所に銀の栞を差し込んだ。


 手元のカップからは、柑橘類の香り。蒼侍は結月の隣の椅子ではなく、向かいに腰を下ろす。距離はテーブル一枚分。だが本の話をするには、ちょうど良い距離だった。


「ここは読書をする人のためのカフェだと聞きました。音楽が少なくて、紙の匂いがする」

「店名に『書』という文字が入ってますから」


 蒼侍が注文を済ませると、店主が深い青のソーサーに紅茶と、ガラス皿にイチゴのタルトを置いていった。


 ナイフの銀の刃に、窓の光が反射する。結月はタルトの縁にきれいに切れ目を入れ、一口ぶんを慎重に移した。その所作は、ページをめくる時と同じく丁寧だ。


「黒無さん、その……他の子たちはご迷惑をかけていないでしょうか?」

 結月はそう聞いた。

 他の子たち、燈たちのことだろうと察し、蒼侍は答える。

「迷惑はかけられてません。むしろ、俺の記憶を取り戻すのに協力してもらってるので、とても感謝しています」

 蒼侍は淡々とそう答える。それに安堵したように結月は胸を撫で下ろした。


「実を言うと、身内以外で私たちのことを話したのは、黒無さんが初めてなんです」

「俺も自分が記憶喪失だってことはほんの数人にしか話してません。お互い様です」

「そう、ですか……」

 結月は何か話すことはないか、と言った具合に店内を見回した。

「そういえば、黒無さんは、読書はされますか?」

「はい、しますよ。最近では藍河しおりさんが書いた『暁と登る君』を読んでいます」

 それを聞いた結月の目が輝いた。

「藍河しおり先生の作品をご存知なんですね! では他のシリーズも?」

「『夜明けの君と朝帰りの僕』『真昼の軌跡とマヒルの奇跡』は読みました。どれも面白かったです。俺、藍河しおりさんの作品のファンなのかもしれません」

「すごい、私も藍河しおり先生のファンなんですよ! さっきも先生の作品を読んでいましたから」


 結月の手元にあるのは、藍河しおりの新作『ギャルに優しいオタクはいるのか』だった。

 普段凛とした結月が熱く物語を語るのは新鮮だ。

「藍河しおりさんの作品がお好きなんですね」

「ええ。先生の作品は全部読んでいます。文章が繊細で巧みで、所々にくすっと笑えるところを言葉で伝えるのが上手いんです」

「俺も藍河しおりさんの文章好きです。論理に沿って話が進むのに、最後に感情の爆発が来る。構造が明確で、最後にどんでん返しがあるところが特に」


 結月の目が、ほのかに笑った。

「私もそこが好きです。登場人物が正しさと自分らしさの間で揺れて、最後に自分の速度で答えに触れる。急がないのに、ちゃんと辿り着く。……そういう書き方をする方ですよね」


 蒼侍は頷く。

「主人公は、多くの人が求める正解を知っているのに、わざと遠回りをして、自分の足で確かめ直す。結果として、一般人との正解と一致しないこともある。だけど本人にとっては、自分らしい正解を選んだと納得する。今の俺にはあまり納得できませんが、何か心に残るんです」


「――自分らしい正解。私もその表現が一番好きです」


 結月は紅茶を口に含み、ゆっくりとカップを戻した。把手にかけた指が、うっすらと白い。


「『夜明けの君と朝帰りの僕』の終盤、主人公が正しい別れと自分らしい再会の間で迷う場面、覚えていますか?」


「公園のベンチで、夜風を受けながら、主人公が手紙を破る直前で止める場面ですか?」


「はい。あの躊躇が、とても誠実で。……私、あそこで胸が熱くなりました」


 結月は少し恥ずかしそうに視線を落とし、膝の上の本の端を指で押さえた。


「結果ではなく、迷っている最中に、もう答えが生まれている感じ。誰かに用意された道ではなく、自分で選んだという事実が、ヒロインを救う。……黒無さんは、どう感じました?」


 蒼侍は言葉を選ぶように、短く間を置く。

 選択肢を並べて、最善の結果を辿る。それは彼の得意な手順だ。

 だが。

「……カタルシスを感じた。理屈ではなく、身体が納得した気がします」


 その返答に、結月の口元が柔らかくほころぶ。

「身体が納得。素敵な言い方ですね」


「自発的ではなかったのですが、本を読み終わった時、呼吸が深くなっていたんだと思います。肩の力が抜けて緊張がほどけると同時に、心にどこか余白が生まれた、そんな感覚がしたんです。すみません、上手く言葉に表せなくて」


「心に余白……」

 結月は窓の外に目をやる。街路樹の葉が午後の光を受け輝いた。

「黒無さんは、読書のあとに、余白をつくれる方なんですね」


「どういう意味でしょうか?」


「本を読んだあと、すぐに次の作品へは急がず、余韻を楽しめるという意味です。……羨ましい。私は、すぐに次の作品を読まないとって思ってしまうから」


 蒼侍は、結月の羨ましいという言葉に、ほんのわずか眉を動かした。

 一人の身体に、七人の心。


 彼女の心は、どれだけの声と一緒にその静けさを保っているのだろうか。


「ところで」

 結月が姿勢を正す。

「『真昼の軌跡とマヒルの奇跡』のほうは、どんな印象ですか?」


「前作で示された遠回りの表現を、別の角度から書いている気がします。藍河さんは、読者の期待を受け止めつつ、誰が何を求め、なぜそれを求めるのか、の問いに真正面から向き合っている印象です」


「藍河先生らしいですね」

 結月は嬉しそうに頷く。

「――あの、すみません。少し、個人的な質問をしてもいいですか?」


「かまいませんよ」


「黒無さんは……自分らしい正解を、探している途中ですか?」


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