第17話 まどろみの記憶
『カフェ・シエル』を後にした二人がたどり着いたのは、東京の喧噪から切り離されたような広い公園だった。
住宅街の真ん中にありながら、外の騒音は木々のざわめきに溶けて消えている。
陽光を受けた芝生は鮮やかな緑で、足を踏みしめるたびに草の香りがわずかに立つ。
公園の中央には大きな池があり、風に撫でられた水面は無数の光の破片を散らしていた。
遠くでは子どもの笑い声が響き、鳩が羽ばたく影を落とす。
「東京にもこんな場所があるんだな。初めて知った」
「うん……こういう静かな場所はいい……よね」
蒼侍と楓は並んで歩いた。だが肩が触れるほど近くではなく、一歩分の距離があった。
その間合いが、楓の人見知りを雄弁に物語っていた。
「よし、ここにしよ……」
そう言って、芝生に腰を下ろすと、楓はトートバッグからスケッチブックを取り出した。
膝に置き、鉛筆を握る。最初は指先が小刻みに震えていたが、やがて紙の上を線が流れ始める。
「……わたし、絵を描くのが好きなんです……」
楓は目を伏せ、淡々と呟く。
「うまく人と話せないから……。でも、絵なら少しは……気持ちを伝えられる気がして」
鉛筆の先が池の輪郭を描き、水面を撫でる風を曲線で写し取る。
木々の陰影を細かに重ね、葉のざわめきを点で表現する。
その線は決して華麗ではない。だが、一つ一つが真剣で、慎重で、楓という少女の内面を映し出していた。
「……ごめんなさい。つまらないですよね、見てても」
楓は俯き、か細い声で言う。
蒼侍はしばらく観察してから、淡々と答えた。
「……気にしない」
「え……?」
「人間は多様だ。何を面白いと感じるかは、人によって違う」
声に抑揚はない。だがそれは拒絶ではなく、蒼侍なりの受け入れ方だった。
「俺はただ観察している。君の仕草や線の描き方から、君という存在を理解しようとしてみるよ」
楓は驚いたように瞬きをし、それから小さく微笑んだ。
「……やっぱり、変わってますね」
「よく言われる」
蒼侍は芝生に背を預けた。ちくちくと芝生が背中を刺すが、それすらも心地いい。
空を仰げば、雲の隙間からこぼれる光が目に届く。木漏れ日が揺れ、葉擦れの音が子守唄のように耳に届く。
草の匂いが深く肺に入り、身体の奥がじんわりと温かくなった。
瞼を閉じると、意識は音も光も遠ざけ、静けさの奥に沈んでいった――。
◆◇◆
「黒無さん……?」
楓が絵描きに夢中になっていると、少し離れた隣で蒼侍が芝生に横になり、浅い呼吸のまま眠りに落ちていくのを見た。
木漏れ日が蒼侍の額を照らし、額の古傷が淡い光を受けて浮かび上がる。
普段は感情を覗かせない顔が、眠りの中ではわずかに緩んでいた。
楓はスケッチブックを抱えたまま、そっとその寝顔に視線を落とす。
心臓が強く打ち、手のひらが熱を帯びていく。
「……ごめんなさい」
楓は小さく呟き、鉛筆を走らせる。
額の傷を丁寧に線でなぞり、前髪の影を繊細に描き込む。
閉じられた瞼、わずかに下がった口角。
そして――彼が纏う静けさそのものを紙に写し取ろうとした。
鉛筆が止まるたびに、楓の胸に罪悪感とどこか愛おしさが押し寄せる。
「つまらない絵、ですけど……」
呟くその声は震え、けれど瞳は真剣だった。
やがて絵が完成すると、楓はそれを胸に抱き、深く息を吐いた。
指先は震えていたが、頬にはかすかな微笑みが浮かんでいた。
――蒼侍はまだ夢の中。
この間、彼が目を覚ますことはなく、この小さな秘密を知ることもなかった。
◆◇◆
――蒼侍の夢の中。
その暗闇の中で、誰かの声がした。
遠くに響く、母のような柔らかな声。
続いて、父のような低く穏やかな声。
――赤い鳥居。夜の神社。
提灯の灯りが揺れ、線香の匂いが漂う。
幼い自分の手を握る、小さな手の温もり。
『……そうじ』
自分の名前を呼ぶ声が、確かに耳に届いた。
幼い少女の笑い声。夜空を切り裂く花火の破裂音。
眩しい光の中で、母の顔が、父の背中が、霞んでいく。
次に映った光景は、とある広い公園だった。中央には大きな池がある。
その周りを走る自分の足はずっと小さい。池の周りを一周した時、夢の中の蒼侍は大きな岩が三つ並んでいるのを見つけた。
幼い蒼侍はその岩の一つをよじ登ろうとして、背中から落ちた。
◆◇◆
「……っ」
蒼侍は瞼を震わせ、呼吸が浅くなった。
額に触れると、そこにはいつもの古傷があった。
「黒無さん……?」
楓の声が現実に引き戻す。
彼女はスケッチブックを膝に置いたまま、心配そうに覗き込んでいる。
蒼侍はゆっくりと体を起こした。そこでハッ、とした。
夢の中の景色と今いる公園がリンクしている。
胸の奥が急にざわついた。居ても立ってもいられなかった。
気付けば蒼侍は楓を置いて、駆け出していた。
「黒無さ――」
楓は声を上げかけて、しかし追いかける勇気はなかった。
夢の中で、幼い蒼侍が駆け抜けた道を同じように駆け出す。
呼吸することすら忘れて、たどり着いたのは三つの大きな岩の前。
「やっぱり、俺は子どもの頃、ここにいた……」
公園の景色を目に焼き付けながら、楓の元へ帰ると、彼女は心配そうな顔をしていた。
「すまない楓さん。急に走り出して。だけど……少し、思い出した気がする」
「え……?」
楓は目を丸くする。
「断片的だが……声が聞こえた。昔、誰かに呼ばれていた気がする。名前を。そしてここの公園を走り回っていた」
池の水面に映る木々の影が揺れる。
それは過去と現在を繋ぐ、脆くも確かな模様のように見えた。
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