旅詰めの魔女
柴原かなめ
一章 光そよぐ瓶
窓から差し込む薄い光が顔に触れ、目が覚めた。昨晩仕掛けた目覚まし時計は、まだ鳴らない。
眠ることが好きだ。本来ならあと五分でも寝直すところだが、今日は何故かそんな気にならなかった。
――何故か、とは言いつつも、自覚はある。
チラリと視線を向けたカレンダーには、今日の日付に赤い印がついている。
――パルファ
旅の魔女が、風を連れて魔法の瓶の納品にやってくる。
重たい身体を引き摺って顔を洗う。
ボサボサの寝癖のついた髪、こけた頬、青白い肌。
目の下のクマを擦ってみたが、もちろんそれで薄くなるわけもない。
それでも、普段よりほんの――ほんの少しだけ時間をかけて身だしなみを整えた。
午前八時。
飾りガラスの入った古い木の扉をゆっくりと押し開き、年季の入った「OPEN」の札をかける。
親から引き継いだ雑貨屋『キステラーデン』は、最先端のお洒落とは程遠いところにある。
だが、長年使い込まれた木材の光沢や湿った空気、古い紙の匂いを、ドルックは嫌いではなかった。
棚に並んだ商品に異常が無いかを確認する。
・入れた紅茶の色が必ず青色になるティーカップ
・春に芽を出す植物のみ元気になるガラスの霧吹き
・日向に置いても写真が一切色褪せないフォトフレーム
・握る力によってインクの色が変わる万年筆
・決まった順にボタンを押さないと光らないランタン
……何も問題はなかった。昨晩、店を閉める前にも確認したので。だからこれは単なるルーティーンのようなものだった。
自分の好きなものをたくさん集めるのは楽しい。
自分の好きなものを、同じように好きだと言ってくれる人がいることが嬉しい。
好きなものが、それを求める誰かの手に渡る瞬間を見たい――。
ドルックは色々あって引き継いだ雑貨屋店主という立場を、面倒なことは山ほどあるが、それ以上に天職だと思っている。
*
十時を過ぎた頃、ドアベルがガランと鳴った。
光が、香りをまとって入ってくる。
「やあ、店主さん。相も変わらず、山ほどの商品に埋もれているね」
パルファは風の中から現れ、笑いながらそう言い放った。
金の髪が陽射しを浴びてまるで発光しているようで、薄暗い店内にいたドルックは思わず目を細める。
「おっと、今日は風が強いね」
目を細めた原因を風圧のせいだと考えたのか、失敬失敬とドアを閉めてパルファがこちらを向く。
「今回はね、三瓶持ってきたよ」
トントンと杖を鳴らしながら軽やかに歩き、ドルックの前に来たパルファは机の上に瓶を並べた。
若草色、赤銅色、鈍い金色――それぞれが呼吸をするかのように光を揺らしていた。
「まずは一つめ、春の森の空気。そよ風のように降り注ぐ木漏れ日を浴びた、美味しそうなベリーがたくさん実をつけている小さな広場があってね。小動物たちが種族関係なく穏やかに微睡んでいた」
「……暖かそうだ」
「そうだね。気温も心も。――簡単に見つかるような場所ではないけれど、あれは一度でも天敵に見つかってしまえば二度と生まれない空間だろうなぁ」
パルファは少し遠くを眺めるような目をしながら、瓶の蓋をトトンと軽く叩いた。
「次は宿場町の空気。馬と商人たちが慌ただしく行き交っていてね。皆それぞれの言葉を話しているのに、少し離れるとまるで一つの歌を歌っているようだった」
「……歌も詰めてきたのか?」
「もちろん。音の振動は空気の中にある。瓶の蓋をずらせば買い手にもきっと聞こえるはずさ」
ドルックは指先で瓶の蓋をなぞった。
パルファは得意気な顔をしてそれを見つめている。
「三つめは?」
パルファの視線に気づいたドルックは、少し目を逸らしながら催促した。
「最後はね、雨を願う祭りの空気。あの土地の民は昔から陽気でね。どんなに日照りが続こうとも、土着の神に祈れば雨が降ることを知っている。辛い日々は続かないことを理解しているからこそ、いつだって希望の中にある」
「……希望、か」
「この空気を浴びれば、出口のない夜を乗り越えるとき、背中を押してくれる。そう思うよ」
ドルックは少し考え込むと席を離れ、返事の代わりに鍋に火をかけた。
「……茶でも淹れる。飲んでくだろ」
「もちろん! きっとそう言ってくれると思ってね、食事をお土産に買ってきたよ」
使い込まれた茶色のカバンから包みを取り出し、布を解くと同時に香草の匂いが広がった。
油でキラキラと光る、よく焼けた肉とキャベツの漬物を挟み込んだパン。数種類のドライフルーツ。
……ここまでしっかりとした飯は久しぶりな気がする。食べれるだろうか、とドルックは少し顔を顰めた。
淹れた紅茶からは湯気がふわふわと立ち、店の中に温度と香りが漂う。
ニ人は向かい合い、穏やかに食事をとった。
パルファが以前この店を訪れてから今日納品に来るまで、約五ヶ月の間にあった旅の話を面白おかしく語り、ドルックは言葉少なに、しかし興味深く頷きながら聞いていた。
パルファの視点から切り出される世界は、いつだって儚く図太く美しかったので。
*
会話と食事が一段落ついたタイミングで、パルファはカバンから小さな瓶を机に取り出した。
青い――ちょっと見ない深く暗い青色が、質量を持って揺らめいている。
「今回持ってきた瓶は三つ……そう言ったけど、実はもう一つあるんだ」
瓶は生き物のように呼吸しながら、周囲の光を吸収しているようにも見えた。
「これには一体、何が詰められていると思う?」
声が、悪戯っぽく弾む。
ドルックは目を眇めて瓶を見つめる。
「……綺麗な青色だ。夜空、川、湖、海」
「ふむふむ」
「雨乞いの祭りは、ここから北に十五日くらい行った所にある街、フェルスでやってる行事だ。二つ目の瓶の宿場町はそこからさらに遠い場所、となると北か東か……」
ふらりと立ち上がり、棚から地図を取り出して机の上に広げる。
不健康に細くゴツゴツした指がゆっくりと紙面を辿る。
「……二ヶ月くらい前なら東のポルトで酒の品評会をやっていたな。人が集まるフェルスとポルトを結ぶ宿場町――ルーエン、ここか」
パルファは楽しそうに小さく拍手をした。
「雨乞いの祭り、宿場町、春の森……おそらく訪れたであろう時期に冬眠から覚めた小動物が出てきてるなら、向かったのは南だろう。……ティーフェルト。山の麓に広がる森がある」
「いいね」
「……となると、問題の四つめの瓶は、この旅路で寄れるどこかの空気。――海、だな」
「うーん、もう一声」
頬杖をつき、にこにこ微笑みながらパルファは高らかに声をあげた。
「……あー、そうだな……光を吸収するような、青だ。海底」
「良しとしよう! 正解~!」
パルファは滑らかな動きで瓶を掴み蓋を少しだけ回した。
世界が一瞬で切り替わった。
潮の匂い。音が遠い。見慣れた店内が青に染まる。圧力が身体にかかる。冷たい空気とともに、そっと重たく暖かく柔らかいブランケットをかけられたような感覚だった。
深海の音が、身体の芯をノックしている。耳の奥で鐘が鳴っている。
「……それ、売り物じゃないのか」
「いや?」
パルファは首を左右に振った。
「これは君への贈り物だよ。店主引き継ぎ五年目のお祝い」
「……どうして」
「前にね、海底測深機を眺めていた君が、とても楽しそうに見えたから。これなら君も喜んでくれるかな~って。どう?」
静けさが店内を満たす。
儚く注ぐ光は棚の古い本の背表紙を撫で、埃がチラチラ反射している。
「……海の底に沈んだみたいだ」
「それ、褒め言葉?」
「……まあ」
しばらく海に包まれた店内は、パルファが瓶の蓋を閉めたことでいつもの姿に浮上した。
「また君が楽しめるような空気を詰めてくるよ」
「……楽しみにしてる」
パルファは頷き、立ち上がって伸びをひとつ。
「じゃ、また連絡するね」
ドアベルが鳴り、風がキラキラした金髪を遊ばせながら店内に吹き込む。
扉が閉まり、店内には薄暗い静寂が戻った。
先程まで深海に沈んでいたのが嘘のように、乱雑に古い物たちが地層を作っている。
まだ温もりの残るカップを片付けながら、ドルックはポツリと呟いた。
「次来るときまでに店、片付けておくか……」
言葉は、静かな波に攫われるように溶けていった。
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