第7話 島に降りる
空が燃えている。
綾瀬ユウは、ヘルメットの内側から前方スクリーンを睨みつけながら、歯を食いしばった。 視界の半分以上が、橙色のプラズマに埋め尽くされている。
外殻センサーには、きしむような警告音と、温度の数字が雨のように流れていた。
《降下角安定。大気圧、上昇中。ER−07、呼吸パターン維持を》
Λ−Logosの声は、いつも通り平板だ。
「維持してます・・!」
ユウは胸郭を押しつぶすようなGの圧迫の中で、短く返事をした。
月面重力が身体から抜けていき、今度は地球の重さと、加速の重さが上から覆いかぶさる。 パワードスーツ《ワーカー》のサーボが、骨と筋肉の代わりにそれを受け止めてくれているのが、今ほどありがたいと思ったことはない。
横のシートでは、医官の森下チカゲが、落ち着いた顔でモニターを確認していた。
彼女のスーツは医療用モジュールが増設された改良型で、関節部には追加の防護リングが装着されている。
「心拍数、一二〇。ちゃんと訓練通りよ、ユウ」
「先生は?」
「七八。年の功」
冗談とも本気ともつかない返しに、ユウはかすかに笑った。 その笑いが、緊張で固まっていた胸のあたりの筋肉を少しだけ緩める。
◆
やがて、揺れは徐々に収まり始めた。
外の橙色は薄れ、代わりに灰色と青の層が現れる。 雲だ。
水蒸気の層をいくつか通り抜け、レーダーと光学センサーが地表を捉え始める。
《目標降下地点、視界内》
Λ−Logosの表示に合わせて、前方のスクリーンに島の全景が投影された。
割れた海岸線。崩れた港湾施設。
丘の上には、箱のような建物がいくつか残っている。 そのうち一つは、屋根が半ば落ちた体育館のような構造だ。その周辺には、熱源が密集している。
〈PACIFIC/NORTH_03−SCHOOL 距離:十二キロ〉
「最初の着陸地点は、そこから三キロ離れた高台だ」
カラム・ウォンの声が、コックピット全体に響いた。
重装スーツ《ロック》を装着した彼は、パイロット席の後ろで発射管制を兼ねて立っている。
「“巣”にいきなり横付けするほど、俺たちは楽観的じゃない」
その言葉に、ユウは胸の奥で同意した。
窓の外に、本物の海が見える。
ルナ・センターの訓練タンクやバーチャルシミュレータで見たものとは違う、混濁した塩水の広がり。 波頭には白い泡が立ち、その下には何が潜んでいるのかわからない暗さがある。
《降下速度減衰。補助推進噴射開始》
機体の下部から、重低音が響いた。 核融合補助ブースターが点火され、落下が「降下」に変わる。
高台の上の、かつて駐車場かグラウンドだったであろう平地が、ヘッドアップディスプレイにターゲットマークとして表示された。
《三、二、一――接地》
衝撃は思ったより小さかった。 ショックアブソーバが衝撃を吸収し、機体がわずかに揺れて静止する。
「地球初着陸、だな」
誰かがヘッドセット越しに呟いた。 ルイスだ。重々しい声に、いつもより少しだけ高揚が混じっている。
◆
「外気圧、一・〇一気圧。酸素濃度二一%前後。窒素七八%。二酸化炭素〇・〇四%」
チカゲがモニターを読み上げる。
「ざっくり、教科書通りの地球ですね」
ユウが言うと、彼女は首を横に振った。
「まだ“空気”しか見てないわ。肝心なのは、その中身」
彼女の指がコンソール上を滑る。 外部環境スキャン用のマイクロドローンが、シャトルの腹部から数機、音もなく放たれた。
《ドローン一〜四、展開。エアサンプル採取開始》
Λ−Logosが補足する。
《表層エアロゾル中に、既知の細菌・真菌・ウイルス群を多数検出。未知配列、一〇〜一五%程度》
「未知がそのくらいで収まっているなら、まだマシね」
チカゲが短く言う。
《ただし、既知配列の一部に、“旧世紀行動制御因子プロジェクト”由来と一致するモチーフを複数検出》
「もう出たか・・」
ユウは思わず息をのんだ。
《行動制御因子=いわゆる“ゾンビウイルス”は、単一ゲノムではなく、多数のモジュールを各種宿主に分散して保持しています。この空気中だけでも、そのいくつかが確認できます》
Λ−Logosの説明に、チカゲが続ける。
「吸い込んだだけで即ゾンビ、ってわけじゃない。でも、“ここで生まれたものたち”は、この空気を肺に入れて大人になる。そこが月とは違うところ」
彼女自身のスーツのフィルターが、わずかに唸る音を立てた。 多層フィルターとナノスケールのバリアが、空気中のあらゆる粒子を遮断している。
「外、出るのか」
ユウは、自分の声が少しだけ上ずっているのを自覚した。
「出るために来たんでしょう」
チカゲは淡々と答えた。 その声色には、恐怖よりも、好奇心と使命感の方が強く混じっている。
◆
エアロックが開く。
外の光が、ヘルメットのバイザー越しに流れ込んできた。 照りつける太陽。斜面を撫でる風。
シャトルの周囲には、ひび割れたアスファルトと、腰の高さまで伸びた雑草が広がっていた。 その先には、倒れた電柱と、錆びたガードレールが見える。
ユウが最初の一歩を踏み出すと、ブーツの底が固い感触を返した。
月面の粉っぽいレゴリスとは違う、重く、湿り気を含んだ地面だ。
「・・重いな」
思わず本音が漏れた。 スーツのサーボが重力をかなり肩代わりしてくれているはずなのに、膝から下が、自分のものではないようにずっしりと感じる。
《一G環境における実効荷重、現在〇・八G程度に補正中。数分で慣れるはずです》
Λ−Logosが、機械的な慰めを送ってきた。
ルイスが後ろから出てきて、空を見上げた。
「でかいな・・」
天蓋のように広がる空の青を見たことは、誰もない。 月のドーム越しの疑似空では、ここまで色が深くない。雲が流れ、風が音を立てている。
「風速五メートル前後。塩分と有機粒子多め」
チカゲが即座に数値に変換する。
「・・潮風、ってやつですか」
ユウが呟いた。 言葉でしか知らなかった語が、今、鼻腔の奥に実体を持って迫ってくる。
その潮の匂いの中に、別のものが混じっていた。
鉄。油。腐った植物。 そして、ごく薄く、人の皮膚の匂い。
《外部マイクロビオーム、初期評価完了》
Λ−Logosが、空気中と地表の微生物群の構造分析結果を表示する。
《腸内細菌群に類似した配列、皮膚常在菌類似配列、真菌群――いずれも“月面コロニー内”には存在しない変異を多数含みます。密度としては、事前シミュレーションの一・四倍》
「つまり?」
ユウが尋ねる。
「“地球仕様”の生き物には、当たり前のベースライン。でも、私たちにとっては、毒にも薬にもなりうる“別の世界の空気”よ」
チカゲは周囲を見回し、最初のサンプル採取地点を指さした。
「まずは、ここから百メートル圏内。空気、土、水。可能なら、小動物の死骸か排泄物も」
「趣味の悪いピクニックですね」
ユウは、緊張を紛らわせるためにそう言ってみせた。
◆
高台から少し下ると、崩れた建物の基礎がいくつか残っていた。
コンクリートの塊に、蔦や苔が絡みつき、その影にはキノコが群生している。 灰色の傘、黄土色の傘。
その中には、人の足音に反応するようにかすかに揺れるものもあった。
「真菌型、ですね」
チカゲが近づきすぎない距離で観察する。
「胞子が風に乗って広がるだけじゃなくて、足音や振動に合わせて“反応”してる。行動制御モジュール入りの可能性大」
「踏まない方がいいですか」
「踏んでもスーツは守ってくれるけど、なるべく避けましょう。余計な波立て方はしたくない」
ユウは、足元のキノコをまたいで進んだ。
風が吹き抜けるたびに、傘が一斉に震え、かすかな粉が舞い上がる。 その粉は陽光に煌めき、すぐに見えなくなる。
川のような音が聞こえてきた。
高台の斜面を下りると、小さな水の流れがあった。
かつて道路だった場所のくぼみに、雨水や地下水が溜まり、細い川になって海へと流れている。 水面には、朽ちたプラスチック片と、腐った木の葉が浮かんでいた。
「水サンプル、採るわよ」
チカゲが携帯型の採水ユニットを取り出す。 ユウは周囲を警戒しながら、スーツのセンサーで周囲の熱源と動きの有無を確認した。
《半径二百メートル以内、生体熱源なし。・・いや、訂正》
Λ−Logosが、データを更新する。
《地下に、小型動物と推定される熱源が複数。行動パターンが不規則》
「ネズミか、その変種か」
ルイスが呟いた。
「噛まれなきゃ問題ないわ」
チカゲはさらりと言ってのける。
「問題は、その歯の背後にある“ネットワーク”だから」
採取した水は、その場で簡易解析ユニットにかけられた。
モニターには、微生物群の構成と、その中に含まれる遺伝子モジュールの分布がリアルタイムで表示される。
《腸内細菌群に類似した配列:全体の三〇%前後。皮膚常在菌類似:一五%。真菌群:二五%。残りは未知および環境起源》
Λ−Logosが読み上げる。
《行動制御モジュールと同系統の配列を複数検出。ここだけで、旧世紀の実験室レベルを超える多様性》
「ここで水を飲んでいる連中は、生まれたときから“行動制御ネットワーク”の中で育っているってことね」
チカゲの声には、少しだけ敬意にも似たものが混じっていた。
「八十年で、これだけの“社会”を作ってるんだもの。ウイルスにせよ、細菌にせよ、人間にせよ」
◆
高台に戻る途中、ユウはふと立ち止まった。
「・・今、何か聞こえませんでした?」
「風の音でしょ」
ルイスが前を行きながら言う。
「いや、違う。耳の中で・・」
ユウはヘルメットの内側に指を当てた。 ヘルメット越しに耳を押さえることに意味はないと分かっていても、そうせずにはいられないほど、その感覚は妙だった。
遠くで、何かがざわざわと囁いている。
言葉ではない。複数の波が干渉し合って、低い嗡音になっている。 月のドーム内で聞いたことのある「群衆のざわめき」に少し似ているが、もっと生の、湿った感じがする。
《聴覚センサーに異常はありません。が――》
Λ−Logosが、珍しく言葉を切った。
《スーツの外部表面センサーに、“微弱なバイオフィルム形成の兆候”を検出》
「バイオフィルム?」
「微生物ネットワークの“皮膚”みたいなものよ」
チカゲが即座に補足する。
「多分、この一帯の“ささやき”にスーツが触れたせい。あなたの内側で聞こえてるのは、本当は耳じゃなくて、スーツと脳の接続部よ」
ユウは、首の後ろの神経接続ポートの存在を意識した。
スーツと脳をつなぐインターフェースが、外部からのノイズを拾って、それを「ざわめき」として感じさせている。
《行動制御モジュールの一部は、“ヒトの神経系との相互作用”を前提とした設計になっています。あなたたちのスーツのインターフェースも、広義には“神経系の延長”ですから》
Λ−Logosが続ける。
《つまり、ここでは、あなたたちの装備そのものが、“群れの一部”として認識される可能性がある》
「喜ぶべきか、怖がるべきか、微妙なところですね」
ユウは乾いた笑いを漏らした。
◆
着陸から数時間後、初日の環境調査は終わった。 高台に仮設のキャンプが設営される。
簡易モジュールを連結し、気圧と温度をコントロールし、サンプル解析用の小さなラボが組まれていく。
Λ−Logosの一部機能も、軌道上からローカルユニットに分散されていた。
「初期評価」
チカゲがタブレットを片手に、簡潔にまとめる。
「空気、水、土――どれも、“ここに長くいれば必ず感染する”レベル。でも、“すぐに死ぬ”ほどの毒性はない。むしろ、“ここでしか生きられない身体”を作りたがってる感じ」
「それはつまり?」
ルイスが問う。
「ここで生まれ育った連中は、良くも悪くも“適応者”よ。私たちが“未接続者”。それだけ」
彼女は高台の端から、遠くの体育館のあたりを見下ろした。
夕暮れの光の中、廃墟のシルエットが影を引いている。 その内部には、熱源の集まりがあるはずだ。
Λ−Logosの地図では、そこを中心に微生物ネットワークの密度が高まっているのが見て取れた。
《“巣”周辺のマイクロビオームは、この島の他の領域と比べて、明らかに構造が違います》
Λ−Logosが報告する。
《感染モジュールの種類はむしろ少ない。しかし、特定のパターンに強く偏っている。――“家の中用”のOSと、“外回り用”のOSが分かれているようなものです》
「内と外の役割分担・・」
チカゲが目を細めた。
「巣の中にいる連中は、“中枢”と“胎”を守るために特化してるかもしれない。外の吠え場は、その周囲を走り回る“牙”」
「俺たちは、その牙と胎のあいだの“肉”に挟まれに行くわけか」
ルイスが肩をすくめる。
「挟まれないように、よく見て動くのが、あなたたちの仕事よ」
チカゲは淡々と返した。
◆
夜。
仮設キャンプの外壁越しに、地球の風の音が聞こえる。 ドーム内の月風とは違い、生臭さと湿気を含んだ音だ。
ユウは簡易ベッドに横たわりながら、耳の奥に残るざわめきを聞いていた。
それは、昼間よりも弱くなっているが、完全には消えない。 遠くで誰かが話している声を、壁越しに聞いているような感覚。
《睡眠は取りましたか、ER−07》
ヘルメットを外しているのに、Λ−Logosの声は聞こえる。キャンプ内のスピーカーからだ。
「努力中です」
ユウは天井の簡素なパネルを見上げたまま答えた。
「先生は?」
「森下医官は、まだサンプルを見ています。興奮しているようです」
Λ−Logosが、少しだけおどけたように言う。
《今日採取したデータだけでも、論文がいくつ書けるか楽しみにしているようです》
「地球が、彼女にとって最高の患者になりましたね」
《ええ。そして、あなたにとっては――》
Λ−Logosは、言葉を区切った。
《あなたにとっては、“自分の行動OSの外側”を、初めて見る場所です》
「月のOSと、地球のOS」
ユウは、その言葉の重さをかみしめるように繰り返した。
「どっちが本物なんでしょうね」
《両方とも本物であり、どちらも部分です》
Λ−Logosの返答は、哲学的でありながら、冷徹でもあった。
《あなたの脳も、月のインフラも、地球のささやきも、みな同じ“計算の場”の別の層です。それらが重なり合うところで、何が選ばれるのか――それを観察するために、このミッションがあります》
ユウは、目を閉じた。
体育館の中で眠る誰かの群れ。 海辺で空を見上げる、単独の影。
自分たちのキャンプの中も、また別の群れだ。 そのすべての上を、Λ−Logosの見えない視線がなぞっている。
(明日は、どこまで近づくのか)
その問いを胸の中で反芻しながら、ようやくユウの意識は、重い眠りへと引きずり込まれていった。
島の夜は、静かだった。
だが、その静けさの下で、土と水と空気の中の無数の小さな計算が、休むことなく続いていることを、ユウはまだ知らなかった。
♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠
読むための手助け用語・世界観ノート 7
■ 毒にも薬にもなる空気 地球の空気には、ウイルスや細菌がいっぱい。 でもチカゲ先生が言うには、それは「すぐに死ぬ毒」ではなく、「身体をここに馴染ませるためのプログラム(薬)」のようなもの。 これを吸い続けると、脳と体質が書き換わって「地球仕様の人間(=空気を読む能力が高いゾンビ)」になってしまうのです。
■ バイオフィルムとスーツ ユウたちのパワードスーツは最新鋭の機械ですが、地球の微生物から見ればただの「足場」。 表面に薄い膜(バイオフィルム)を張ることで、機械さえも自分たちのネットワークの一部に取り込もうとしています。 ユウが聞いた「耳鳴り(ささやき)」は、スーツという機械を通じて、微生物たちの会話を神経が拾ってしまった証拠。機械と生物の境界線が曖昧になり始めています。
■ 家畜のOS、月のOS
地球のOS:ウイルスのささやきに従って、何も考えずに群れるシステム(感情的・同調的)。
月のOS:AI(Λ−Logos)の計算に従って、効率的に管理されるシステム(論理的・管理的)。 ユウの疑問「どっちが本物か?」に対し、AIは「どっちも計算の一部に過ぎない」と突き放します。 私たちは普段「自分の心」だと思っているものが、実は環境や社会システム(OS)によって動かされているだけかもしれない・・という少し怖いテーマです。
■ 趣味の悪いピクニック 本来なら、初めての故郷への帰還は感動的なはず。 でも彼らがやっているのは、防護服を着て「汚染サンプル」を集める作業。このギャップが、彼らの「異邦人」としての孤独を浮き彫りにしています。
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