Side:龍王坂健

1日目・森林①

​***


「はぁッ、はぁッ、はぁッ……!」


​ 肺が焼ける。喉の奥で鉄の味がした。

 俺、龍王坂健は、湿り気を帯びた深い森の深淵で、己の足音と荒い呼吸に追い詰められていた。


​ 数分前まで、俺は「幸福」という名の陽だまりにいたはずだった。生まれたばかりの我が子。その柔らかい温もりに触れるため、急いでいたはずなのに。

「……ふざけるな。なんなんだよ、ここは」


​ 自称【神】の男が告げた不吉な言葉が、脳裏で反響する。

 【遊戯】――この狂ったゲームが、今のこの状況だというのか。


​「どうして……どうして俺が……ッ!」

 絞り出した声は、密生する木々に吸い込まれて消えた。


 思えば、俺の人生はいつもそうだった。絶頂の直後には、必ずそれを叩き潰すほどの「絶望」が牙を剥いて待っている。


​ 12歳の誕生日。世界が自分を祝福していると信じて疑わなかったあの日。プレゼントを買いに出た両親は、二度と笑うことはなかった。


 死因は「凍死」。季節外れの、原因不明の異常現象。事故か事件か、それともこの世ならざる何かの仕業か。その答えは、十数年経った今も闇の中だ。

「……また、これか」

 呪われた運命。自分は幸せになることを許されていないのだと、乾いた笑いが漏れる。


 だが、ふと神の言葉が脳裏をよぎった。――『君には特別な【能力】を授けた』


​「ハッ……まさか」

​ 

 もし、あの両親の死さえも「能力」によるものだとしたら? この【遊戯】という悪趣味な舞台が、現実の裏側でずっと続いていたのだとしたら?


 いや、ありえない。そんな漫画のような話があっていいはずがない。


​「落ち着け。クールになれ、龍王坂健……。こんなの、ただの悪夢だ。そうだろ?」

 自分に言い聞かせる。震える手で顔を覆う。


 そうだ、これは夢だ。

 人を殺しても許される世界なんて、存在していいはずがない。すぐに目が覚めて、いつもの使い古されたベッドの上で、安堵の溜息をつくはずなんだ。

 だが――その考えを否定するように、視界の端で、何かが動いた。

「え……?」

 木々の隙間、木漏れ日が反射する川辺。

 そこに、「それ」はいた。

 最初は、ただの影だと思った。

 しかし、違う。それは人型を模してはいるが、輪郭が常に蠢き、沸き立っている。

 漆黒の泥を詰め込んだようなシルエット。だが、その正体は泥なんかじゃない。

 「ザザッ……ジジッ……」

 静寂を切り裂く、不快な高周波。

 それは無数の、気が遠くなるほどの数の翅が擦れ合う音だった。

「なんなんだ……あれ……」


​ 黒い人型の正体は、数万、数億という微細な「羽虫」の群れだった。それらが一つの意志を持っているかのように密集し、不気味な造形を維持している。


 あれが神の言っていた【十の災い】の一端なのか。

「……くそ、夢なら……早く、覚めてくれよ……っ!」

 心臓の鼓動が、早鐘のように打ち鳴らされる。

 その時、右腕に、熱を帯びた鋭い「痛痒さ」が走った。

「痛っ……!」


​ 見れば、肌に小さな赤黒い腫れ。

 ――いつの間に?

​ ブゥゥゥゥゥゥンッ!!

​ 突如、鼓膜を直接蹂躙するような大音響が、至近距離で爆発した。


​「な、あ――ッ!?」


​ 悲鳴を上げる暇もなかった。

 川辺にいたはずの「黒い人型」が、意志を持つ黒霧となって飛来し、俺の視界を塗りつぶした。


 無数の羽音が脳内をかき回す。皮膚のいたるところに、湿った、それでいて硬質な「虫」の感触が這いずり回る。


​「うわ、あ、やめ、やめろ……ッ!  来るな、来るなあああああああッ!!」


​ 口の中にまで入り込もうとする異物の感触。

 肉を噛み切られる鈍い痛み。

​ 遠のいていく意識の中で、俺は最悪の確信を抱いた。

 これは夢ではない。

 これは「現実」だ。

 そして、この地獄こそが、俺に与えられた新しい人生の始まりなのだ。

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