1日目・庭園③
***
「……【毒針】……?」
私が、掌に収まる短剣ほどの「針」を凝視し、その不吉な色に戦慄していた、その時だった。
まるで見計らっていたかのようなタイミングで、【安全地帯】の外側――暗鬱な植え込みの向こうから、夜の静寂を切り裂くような絶叫が響き渡った。
「うわぁぁぁぁぁ!!」
「ひっ……!? な、なんですか、今の!?」
ムダミラが短い悲鳴を上げ、その場に蹲る。私も弾かれたように顔を上げ、声のした方向へ視線を投げた。
「た、助けてくれ! 頼む、誰か!!」
夜の闇の奥から、一人の少年がこちらに向かって全力で走ってきていた。
必死の形相、振り乱した髪。彼は何か、得体の知れない「恐怖」から逃れようともがいている。
一体、何が。
――否、問い直すまでもない。答えは、このゲームの唯一の敵。【十の災い】だ。
「あ……」
アルジェが、喉の奥で小さな声を漏らした。
その声に反応するように、逃げていた少年がふと後ろを振り返った、その瞬間。
――バキッ。
硬いものが粉砕される、嫌な音がした。
少年の身体が、まるで見えない巨大な重機に叩きつけられたかのように、不自然な角度で地面に転がる。
「い、あ、あ……」
少年の口から、言葉にならない呻きが漏れる。もはや立ち上がる力すら残されていないのは、その凄惨な姿から見ても明らかだった。
「これは――」
百合坂の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
少年の背後の闇から、ぬらりと姿を現したのは、巨大な【蝗】だった。
成人男性ほどの体躯を持ち、強靭な二本の脚で直立する、異形の昆虫。
「い、い……」
蝗の巨大な二対の大顎が、動かなくなった少年を無造作に捉える。
メキッ、という乾いた音が響くたび、少年の五体はあらぬ方向へと跳ね、地面を掻きむしる。死という概念すら超越した、残酷なまでの捕食の光景。
蝗は獲物を貪欲に咀嚼し、溢れ出した赤黒い飛沫が少年の服を汚していく。もはやそこにあるのは、かつて人間であった「残骸」に過ぎなかった。
「ヒイィィィ!! 来ないで、来ないでくださいぃぃ!!」
ムダミラが、正気を失った叫びを上げる。
しかし、その【蝗】は、血に濡れた巨大な複眼を一度だけこちらに向けた後、満足したかのように、再び夜の深い闇の中へと消えていった。
残された私たちは、誰も言葉を発することができなかった。
「あ、うあ、あ……嫌です、怖いですぅ……っ」
ムダミラが、ガタガタと震えながら後退りする。その瞳には、先ほどの絶望的な光景が焼き付いて離れないのだろう。
だが、彼女が境界線に足をかけた瞬間、アルジェが鋭い制止の声を上げた。
「ムダミラ!! 止まれ、動くな!!」
「ふえ……?」
ムダミラが間抜けな声を漏らした、その刹那。
無意識に踏み出した彼女の踵が、微かに【安全地帯】の外へと出てしまった。
――ドシュッ。
「キャアアアアア!! 痛い、痛いです!!」
突如として、何かに鋭く断たれたような音が鳴り響き、ムダミラの腕が、不自然な方向に折れ曲がって地面へと垂れ下がった。断面から鮮血が噴き出し、彼女は激痛に顔を歪ませる。
「くそっ!! ムダミラ、早く戻れ!!」
「動け……動けないっ……! なんでっ!? どうしてっ……」
彼女は戻ろうとするが、足がもつれ、その場に崩れ落ちる。まるで、逃げることを許さない不可視の呪縛がそこにあるかのようだった。
そして、それを嘲笑うかのように、【蝗】は、一瞬、ムダミラの顔を覗き込み、動きを止め――ムダミラの脚を、コマのように回して引き千切った。
ムダミラの身体からガクンと、力が抜ける。どうやら、気絶したようだ。
――このままでは、彼女もあの少年のように食い殺される……!!
頭ではわかっているのに。脚が、震えて動かない。
「おい、みんな!! ムダミラを助けるぞ!」
アルジェは叫ぶなり、躊躇いもなく【安全地帯】の外へと駆け出した。
しかし、私と百合坂の足は、一歩が踏み出せなかった。
死。濃厚で、冷たい死の予感が、境界線の向こう側から立ち昇っている。
でも、今、彼女を救わなければ、彼女の命はここで終わるのだ。
「……ふぅ」
私は、いつものように、落ち着くために、息を吐いた。
私は、特別なはずだ。
神を殺したいと願い、一度は全てを諦めた身体。失うものなど、何もない。
「うわぁぁぁぁぁ!!」
恐怖を塗りつぶすような咆哮を上げ、私は一匹の【蝗】に向かって突進した。
【毒針】の効果が、何をもたらすかは分からない。けれど、今は、この小さな武器に全てを賭けるしかない――。
「キュルルルルルル!!」
「え?」
奇声。直後、私の視界が激しく回転した。
内臓を揺さぶるような衝撃と共に、私の身体は紙屑のように吹き飛ばされ、分厚い植え込みの中に激突した。
「あ、あ、あ……」
百合坂の顔が、絶望に引き攣る。彼女の視線の先には――。
「キュルルルルルル」
「キュルルルルルル」
暗闇から新たに這い出した、二体の【蝗】。
ギチギチと顎を鳴らす怪物が、獲物を包囲するように迫ってくる。
この時、私は、これまでの人生で感じたことのないほど、確実で冷徹な死を感じ取っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます