ある日②

***


 シルクハットの男は、何の予備動作もなく、宙から音もなく降り立った。

 黒い執事服の裾が、彼の着地に合わせて僅かに揺れる。

​ それに呼応するように、沼のような物質に浮遊していた私の身体も、重力を取り戻したかのように床を踏んだ。

 粘性の高い、ぬるりとした感触。

「……ここは、どこですか? 私は、死ねたたんですか?」

 震える声で尋ねる私に対し、男はハスキーな、低い声で応じた。

「結城香澄。君は死んでいない。君には、私の主宰する【遊戯】に参加する、唯一無二の資格が与えられたのだ」

 遠目に見た時は深く被った帽子で隠れていたが、間近で見た男の顔は、おおよそ人間のものではなかった。

 ハットの影の奥。そこには眼窩も鼻筋もなく、ただ濃密な黒い渦が、ぐるぐると不規則に、しかし確実に回転していた。

 宇宙の穴を覗き込んでいるような、おぞましい感覚。

「【遊戯】……? あなたは、一体、誰なんですか」

「私が誰……か。そうだね、私は――【神】だ。全ての人間に、平等に資格と権利を与える、主なる神だ」


​「神……」

 その単語に、私は反射的に眉をひそめた。冗談交じりとはいえ、この世の全てを憎み、神を殺したいと願ったのは、半ば本心だったからだ。

 同時に、この異様な男が「神」であるはずがない、という冷徹な確信も胸にあった。

 この腐敗した世界に、そんな超越的な存在がいるはずがない。

「続けよう。【遊戯】とは、私が楽しむために主宰する、命を賭けたゲームのことだ。十人の特別な少年少女を集め、敵となる【十の災い】――Ten Plaguesの具現化されたモノと戦わせる。君は、その十人の一人に選ばれた、というわけだ」

「【十の災い】……?」

「聞いたことがないかい? 旧約聖書、『出エジプト記』の記述だ。まぁ、知らずとも構わない。【遊戯】に参加する内に、嫌でも分かってくることだろう」


 ​私は一歩後ずさった。

「あの、私……そんなことに、巻き込まれたくありません。帰りたい」

 本心だった。この、人の形を借りた異形が主催する狂気のゲームに、関わりたくなどない。恐ろしい。


 死にたいと願った。そのために、【沼】に入った。それは、本心だった。

 でも、今、この男が言う言葉に恐れる自分の心もまた、本心だった。

 ただひたすらに、恐ろしかった。​


 【神】は、そんな私の内面の恐怖と拒絶を、黒い渦の顔で全て見透かしたかのように、ハスキーな声で告げた。

「もちろん、ただ働きとは言わない。私の娯楽に付き合ってもらうのだからね。【遊戯】の【勝者】となった者には、どんな願いでも、一つだけ叶えることができる」


 ​その言葉が、私の耳の奥深くで、鈍い警鐘のように鳴り響いた。


​「どんな――願い、でも?」

 それは、あまりにも、甘美な毒だった。


 ​もし、このゲームに参加し、勝者となることができれば――願いが叶う。


 私を毎日踏みにじり、地獄に突き落としたアイツらを、この世界から跡形もなく消し去ることだって、きっと造作もない。


 あるいは、自分自身が、一度も苦しまなかった「私」として、生まれ変わることすらできるかもしれない。

 自殺を選べば、すぐに終わる。

 けど、私が自殺しても、誰も苦しまない。

 それを腹立たしく思う時もあった。

 それが、唯一の心残りと言ってもよかった。


 でも。


 その心残りを、無くせるかもしれない。

 アイツらが踏みにじったように、私も踏みにじることができるかもしれない。


 普通の状況であれば、この話が狂った冗談だとすぐに理解できただろう。

 しかし、この【神】と名乗る男には、それが紛れもない事実であると信じ込ませる、異様な説得力と、絶対的な力が漂っていた。


 ​どうせ、一度死を選んだ身体だ。

​ 今更、どのような恐怖が待ち受けようと、私の魂がさらに傷つくことはない。

 先程までの、【神】に対する恐れは、そう確信したとたん、すぐに霧散した。


 【神】は、再び私の内心を覗き込んだように、フッと、喉の奥で笑った――私がそう感じただけだが――そして、言葉を続けた。

「君は、特別だ。本来なら、私から【遊戯】に召集された時点で、拒否権などない。強制参加だ。だが、君は特別だ。必ずや、君ならば、【遊戯】の【勝者】となることができるだろう。必ず、生き残れる。そうそう、これがルールブックだ。これを読んで、【遊戯】に参加するかどうか、じっくりと、一晩でもかけて決めてくれ」


 ――特別。

 その言葉が、妙に響いた。


 ​【神】は、何もない空間に手を翳した。途端、その虚無から、羊皮紙のような表紙に覆われた分厚い一冊の書物が、出現した。


 ​私が受け取ったその本の中身は、目を疑うような内容の羅列だった。

 まるで中学生が書いたかのような、脈絡のない、無茶苦茶なレギュレーション。

 人死にを、あまりにも当然の前提として組み込んだ、狂気に満ちたルール。

 だが、それなのに。

 ​私は、その血腥い、不条理なルールに、猛烈に惹かれてしまった。

 ​これこそが、あの現実という名の地獄から、永遠に離れるための切符だと、直感したからだ。

 だから、私の返答は、至ってシンプルだった。

「分かりました。【遊戯】に、参加します」

「いい返事だ。これで、私と君には【契約】が結ばれた」


 ​【神】は、まるで遥か遠い宇宙の果てを指し示すような、永遠とも思える響きを持つ声で、そう告げた。

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