第30話 矢を撃てない狙撃手(2)
「ここに、もう一枚だけ、別の計算式を書く余地があります」
「計算式、ねえ」
カイは小さく笑った。
「お前は本当に、何でも数字にしたがる」
「数字は、恐怖を消してはくれません」
シュアラは、言葉を選びながら続ける。
「でも、“どこまでが恐怖で止まる範囲か”を測ることはできます」
射場で、リオが指を固めた距離。
人形と的が入れ替わった瞬間の、呼吸の乱れ方。
誤射の記録に記された距離と、風。
「例えば、彼の矢を『人ではなく、物』にだけ向ける訓練から始めることは可能です」
「物?」
「敵の馬脚。旗。指揮官の腕。……人そのものではなく、人が戦うために必要な“部品”です」
カイの目が、わずかに細くなる。
それは、彼にとっても馴染みのある戦い方だ。
敵の戦列を崩すために、馬や旗持ちを優先して狙う――古い教範にも載る常套手段。
「リオさんの矢は、“心臓”には届かないかもしれません」
シュアラは、自分の胸の位置に軽く手を当てた。
「けれど、“骨”や“神経”は切れる。身体に例えれば、先ほどまでお見せしていたヴァルムの経済圏と同じです」
南は胃、東は脂肪、西は骨。
その骨を支える鉄を、彼の矢で折る。
「今、ここには『矢を撃てない狙撃手』という、非常に扱いにくい駒があります」
シュアラは、率直に言った。
「扱いを誤れば、確かに他の兵を巻き込んで死にます」
「……」
「ですが、正しい場所に置けば、『敵の矛を折るための一矢』になる可能性がある」
カイは、机の上で指を組み合わせた。
しばらく沈黙が続く。
その沈黙の重さを測るように、シュアラは自分の胸の内を確認した。
(これは、砦のためだけの話ではありません)
リオ自身の問題でもある。
自分が役に立てないと思い込んでいる少年を、そのまま倉庫の隅に置いておけば、いずれ自分から崩れる。
砦の数字には乗らない損失。
だが、「この土地の盤面」を見るなら、無視できないコストだ。
「……分かった」
ようやく、カイが息を吐いた。
「条件付きで、お前に預ける」
「条件、ですか?」
「リオの矢が、また誰かを殺しそうになったら、その瞬間に俺の判断で引き上げる」
カイの声は低いが、はっきりしていた。
「訓練でも、実戦でもだ。『もしかしたら撃てるかも』じゃなく、『撃てる』って自信を、お前が数字で出してから前に出す」
「……難しい注文ですね」
シュアラは、わずかに苦笑した。
「数字で“自信”を証明するのは、最も不確かな作業です」
「お前ならやるんだろ」
そこで初めて、カイは口の端を上げた。
「今さら、“できません”なんて言われたらこっちが困る」
その言い方に、シュアラは小さく息を飲んだ。
それは、「お前の描いた盤面なら、背中を預けられる」と言ったときと、同じ種類の賭けの言葉だった。
「……承知しました」
彼女は深く頭を下げる。
「リオさんの『撃てない』を、もう一度計算し直します」
*
団長室を出て射場へ戻る頃には、太陽は砦の壁の向こうに半分ほど沈みかけていた。
雪に踏み荒らされた地面だけが、さっきの訓練の名残を留めている。
藁人形は横倒しになり、胸の赤い布が濡れて暗い色に変わっていた。
その脇で、リオが一人、矢を拾い集めていた。
手袋をしない手は赤く、指先はかじかんでいる。
それでも、折れた矢は丁寧に脇に分けている。
「残骸も、資産ですよ」
声をかけると、リオがびくりと肩を震わせた。
「ぐ、軍師殿……」
振り向いた瞳は、驚きと警戒と、少しの怯えが混ざった色をしていた。
「壊れた矢でも、削れば火種になります。鉄は溶かせば、別の形になります」
シュアラは、折れた矢を一本拾い上げた。
「あなたも同じです」
「お、俺が……折れた矢ってことですか」
自嘲混じりの言い方に、シュアラは首を振る。
「折れかけた矢、ですね。まだ完全には折れていません」
それは慰めではない。現状の診断だ。
リオはうつむき、矢筒の口を見つめた。
「さっき、また……撃てませんでした」
「見ていました」
「的なら、行けるんです」
リオは必死に言葉を探しているようだった。
「丸い板とか、木とか、瓶とか。どれでも当てろって言われたら、いくらでも当てます。でも、人形になると……」
喉が詰まり、言葉が途切れる。
「胸に布巻かれてるだけで、人みたいに見えて……。前に、一回、間違えて……」
そこから先は、声にならなかった。
肩だけが、小さく震えている。
シュアラは、立ち尽くす少年の前に回り込んだ。
「リオさん」
「……はい」
「あなたに聞きたいことが二つあります」
彼女は一本の矢を取り出し、その矢先を藁人形の足元に向けた。
「一つ。敵の馬の脚を狙えと言われたら、撃てますか?」
リオは一瞬迷い、それから、わずかに頷いた。
「……馬、ですか」
「ええ。人を落とすための脚です」
彼の瞳に、少しだけ焦点が戻る。
「撃て……る、かもしれません」
「二つ目。あなたの後ろにいる仲間が斬られそうになったとき、敵の手から剣を弾けと言われたら?」
リオの表情が揺れた。
「それも……多分、行けます。人、じゃなくて……持ってるものなら」
(やはり、恐怖の境界線は“命そのもの”ではなく、“人そのもの”か)
シュアラは、心の中でメモを取る。
「分かりました」
彼女は矢を矢筒に戻した。
「では、当面あなたは、『人の周りにある物』だけ撃ってください」
「え?」
「人そのものを狙う訓練は、しばらく禁止します」
リオの目が丸くなる。
「そ、それでいいんですか?」
「良くはありませんが、今のあなたにはそれが最善です」
きっぱりと言うと、リオは困惑したように眉を寄せた。
「でも、俺……戦えないままで……」
「戦えます」
シュアラは、藁人形の胸ではなく、その腰のあたりを指さした。
「馬を倒し、剣を弾き、旗を折る。それだけでも、戦場の形は変わります」
その説明は事実だ。
同時に――
(これは、彼に“最初の一歩”を与える作業でもあります)
完全な殺害ではなく、「戦いを終わらせるための矢」。
彼にとっては、おそらくそれ以外に矢を放つ理由が持てない。
「団長とは話をつけました」
シュアラは続けた。
「条件付きで、あなたをまた“矢”として盤面に乗せる許可をもらっています」
「じょ、条件……?」
「あなたの矢が、味方を傷つけそうになった瞬間、即座に引き上げられること」
リオの喉が、ごくんと鳴った。
「怖いですか」
「……そりゃ、怖いです」
正直な答えに、シュアラは小さく頷いた。
「私も怖いです」
「軍師殿が、ですか?」
「ええ。数字だけで片付く話なら、とっくに終わっているはずです」
彼女は、懐から薄い手帳を取り出した。
そこには、新しいページが一つ開かれている。
まだ何も書かれていない白い紙の上に、ペン先が触れる。
「ここに、ゲームを一つ、追加します」
「ゲーム……?」
「『矢を撃てない狙撃手を、矢として盤面に戻すゲーム』です」
リオは、ぽかんと口を開けた。
「な、なんか、すごく嫌なゲーム名なんですけど」
「私もそう思います」
けれど、と彼女は続ける。
「このゲームに勝てれば、砦の“死ぬ確率”が少し下がる」
その言い方が、どこか冷たすぎることは分かっている。
しかし彼女は、自分の言葉を選び直さなかった。
今はまだ、「恐怖のコスト」をうまく言い換える語彙を持っていない。
「リオさん」
シュアラは、真っ直ぐに彼を見た。
「あなたは、ここに残りますか。それとも、後方で荷物を運ぶだけの兵になりますか」
突きつけたのは、二択だ。
どちらを選ぶかは、彼自身の問題。
リオはしばらく唇を噛みしめ、俯いた。
雪の上に、ぽたりと小さな滴が落ちる。
泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「……残ります」
かすれた声が、雪に吸い込まれる。
「こんな俺でも、矢として使ってもらえるなら……残りたいです」
その言葉に、シュアラは静かに頷いた。
「分かりました」
ペン先が、白い紙の上を滑る。
『ゲーム3:狙撃手リオ 初期条件:矢を撃てない』
さらりと書き込み、その下に、小さく数字の欄を作る。
『距離/対象(物)/命中率/手の震え具合(主観)』
(恐怖のコスト。今はまだ、粗い目盛りでしか量れませんが)
それでも、彼女は書き続ける。
「では、明日から、少しだけ訓練メニューを変えます」
シュアラは手帳を閉じ、リオに向き直った。
「最初の課題は、『馬のない射場で、馬の脚を撃つ練習』です」
「……どういうことですか?」
「それは、考えてください。馬を用意する予算は、今はありませんから」
少し皮肉を混ぜて言うと、リオは戸惑いながらも、わずかに笑った。
その笑いを見て、シュアラは胸の奥で、何かがほんの少しだけほどけるのを感じた。
(数字に乗らない変化、ですね)
雪はまだ本格的には降り出していない。
けれど、冬は確実に近づいている。
その冬を越えるために必要な矢が、今、一本だけ――折れかけたまま、彼女の盤面に戻ってきた。
その矢を、どうすれば真正面から放てるようになるのか。
恐怖という名の誤差を、どうやって計算式の中に組み込むのか。
シュアラは手帳を抱え直し、まだ温もりの残る弓の弦を一度だけ指先で弾いた。
静かな音が、白い空気の中に溶けていった。
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