第25話 ミルストーンの粉と欲望
東の村から戻った翌朝、ヴァルム砦の空は鉛の薄膜を張ったように重かった。
雪を孕みながら降りてこない雲が、夜の名残を惜しむように空を塞いでいる。
石床の冷たさは、踏みしめるたび骨の奥へ沁みる。朝というより、冷気の底から這い上がるような時間だ。
シュアラは、小さな執務室で簡易地図を広げていた。
厚い羊皮紙の上に、パン屑と小石で作った三つの村の印――東のシルバークリーク、西のアイアンストリーム、そして南のミルストーン。
本来なら、南は粉が余っているはずだった。
だが帳簿は逆を示している。
紙の端には、昨夜カイと数字を突き合わせたときの自分の走り書きが残っていた。
(粉袋の数が合わない。ブライスが誰かに貸している……? この冬の天秤で、一番軽く見てはいけない皿)
羊皮紙の上には、砦と三つの村を示す印。そのまわりに、手近な小石とパン屑と、拾った釘を置いていく。
砦の印には小石を多めに、東の村には魚のつもりの木片、西の鉱山には釘、南のミルストーンにはパン屑をいくつか。
南のパン屑を一つ指で払うと、砦のまわりの小石が、すぐ足りなくなる形になった。
試しに東の木片を減らすと、今度は砦と南の周りが、あからさまに薄くなる。
(どこか一枚の皿が欠ければ、残りの皿も連鎖して傾く)
粉は、冬の命の最低ラインだ。
東の村へ“十日分”を送ったあとで、ここ南で循環が止まれば、最後に沈むのは砦だ。
ペン先でミルストーンの印を軽く叩いた。
乾いた音が、自分の胸の奥にも響く。
(ここで数字をごまかされると、全部の絵が歪む)
そう考えている最中、扉が軽く叩かれた。
「文官、入るぞ」
返事を待たずに入ってきたのはゲルト。その後ろには、湯の湯気を揺らすカイがいた。
カイのマグから立ち上る湯気は白く、彼の寝癖混じりの黒髪の周辺で、妙な輪を描いている。
「南に行く準備はできてる」
そう言うカイの声は、いつもよりわずかに張りがあった。
東の村での狼煙と死体の布――あれが、彼のどこかをわずかに覚醒させたのだと、シュアラは推測する。
「団長、昨夜の帳簿ですが――」
「ああ、粉の減り方がおかしいってやつな」
カイは湯を一口飲み、ひりつく喉を洗うように息を吐いた。
「三割だっけか。自然に減る数字じゃねえ」
「粉袋が三割も勝手に消える倉があったら、帝都の財務省が倒れています」
シュアラは淡々と返し、机上の地図に視線を戻した。
「ミルストーンの倉で粉が止まると、東への補給が止まります。東が止まると、砦の兵糧が目減りします。……全部つながっています」
「つまり、南の村長が腹に入れた分だけ、こっちの腹が減るってことだな?」
ゲルトが面倒くさそうにあくびを噛み殺す。
「おおざっぱに言えば、そうです」
「だったらさっさと行って腹をひっくり返そうぜ」
「物理的にはひっくり返さないでください」
シュアラが小声で付け加えると、カイが口元だけで笑った。
「話は道中で続けりゃいい。雪が深くなる前にな」
彼はマグを置き、腰の剣を軽く叩いた。金属音が、小さな部屋の空気を締める。
シュアラは帳簿を革紐で束ね、外套の内側にしまった。
数字はここにある。あとは、それをどう見せるかだ。
南へ向かう街道は、朝霧の名残が薄く漂っていた。霜柱を踏む音が、一定のリズムで続く。
馬の息が白く膨らみ、冬の入り口が空気を固くしていく。
行列の先頭にカイ、その少し後ろにゲルトと第一班の兵たち。シュアラは列の真ん中、借りた馬の背で、揺れに合わせて必死に腰を固定していた。
(……やっぱり、落ちそうです)
鞍の上で体が浮くたび、腹の底がひやりとする。
東の村へ向かったときと同じ恐怖だが、今回は少しだけマシだった。一度経験した分だけ、「落ちる確率」が頭の中でわずかに下がっている。
「嬢ちゃん、馬に慣れたか?」
後ろからゲルトの声が飛んできた。
「死ぬほどではありません」
「ほう、上出来だ」
(死ぬほどではない=上出来……?)
妙な評価基準に戸惑いつつも、返す言葉は「ありがとうございます」だけにしておいた。
丘を越えた瞬間、のっそりと巨大な影が見えた。
ミルストーンの大風車だ。雪を抱いた羽根は重く、不器用に空を掻いている。
ギィ……ゴゴゴン……と、どこか痛みに耐えるような音が響いた。
(回転が遅い……七割程度。粉袋の減り方と、だいたい一致)
風車の回転は、村全体の呼吸だ。
息を吸い込み、粉に変えて吐き出す。今のミルストーンは、明らかに息が浅い。
風車の根元には、粉挽き小屋。
その前に、丸い腹の男――村長ブライスが立っていた。
「ようこそ、ようこそ! ヴァルム砦のお歴々が、こんな田舎まで!」
愛想笑いと一緒に、脂の乗った手がぶんぶん振られる。指の間まで、粉と油が染み込んでいた。
「お出迎え感謝します、村長」
シュアラは馬から降り、裾を整えて一礼した。
「先日の税記録の件で、少々確認したい数字がありまして」
「ええ、ええ! 数字ならお任せを! ミルストーンの粉は、この辺り一帯の命綱ですからな!」
口では立派なことを言うが、その目は落ち着きなく風車と砦の兵を行き来している。
「では、粉袋の現在の在庫を見せていただけますか」
「もちろんとも!」
ブライスは胸を張り、粉挽き小屋の扉を押し開けた。
中は、粉塵で薄く白く霞んでいた。石臼の低い響きが腹の底へ伝わる。
壁際には粉袋が山になって積まれ、ところどころ口が開いている。
(……数が、少ない)
帝都で見慣れた倉庫の光景と照らし合わせるまでもない。
帳簿上の数字から逆算した「あるべき山」と、目の前の山の高さが違う。
「冬前にこれは不自然です。帳簿を拝見します」
シュアラが静かに告げると、ブライスは大げさに手を振って笑った。
「いやあ、風が強くてね! 粉なんて軽いもんで、飛ぶんですよ!」
「三割も?」
軽く問い返しただけで、ブライスの笑みがぴたりと固まる。
「そ、そりゃネズミも食いますしね! 賢いんですよあいつらぁ!」
(賢くても三割は食べません。そんなネズミがいたら帝都の食糧も消えてます。そもそも保管場所の状態は確認済みですし)
喉まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに頭の中で数字だけを並べる。
「触っていいか?」
カイが積まれた粉袋に手を伸ばした。掌を押し当て、軽く沈める。ずぶりと頼りない感触。ブライスの額に汗がにじむ。
「……村長」
シュアラは穏やかに言った。
「帳簿を確認したいだけです。隠さなければ、すぐ終わります」
「な、なにも隠してなんて――」
「嘘くせえ声だな」
ゲルトが冷たく吐き捨てた。風車の軋みと、男の声の薄さが、雪の上で妙に重なる。
ブライスが口を開きかけた、その瞬間――音がした。
パキン。
粉挽き小屋の窓辺に飾られていた陶器の壺が、床に落ちて砕けた音だ。壺を持ち上げ、落としたのはカイだった。
「だ、団長さん! 高い――」
ブライスの叫びを、カイが肩越しに振り返って遮る。
「次はもっと高いやつ割る。帳簿を出せ」
「ひっ……わかった! 本物を!」
ブライスは慌てて奥へ消え、埃をかぶった帳簿を抱えて戻ってきた。胸元で抱え込む腕が、微かに震えている。
シュアラは差し出された帳簿を受け取り、表紙の汚れと指の跡を確かめてから、ゆっくりと開いた。
ページを繰ると、インクが不自然に均一だ。日付の並びに対して、筆圧がどれも同じ。
(筆圧が同じ……日付の改ざん。後書きですね)
貸し付け欄は多いが、返却欄はほとんど空白。
貸付先の名前も偏りすぎている。特定の家名ばかりが並んでいた。
「困っていた村人を助けた、とありますね。返却は?」
「そ、それは……多少“見返り”が……」
「あなた個人への、ですね」
ブライスの喉が、ごくりと動いた。風が粉袋を揺らし、冷たい空気が肌を刺す。風車の羽根が鈍く回り続ける音が、妙に大きく感じられた。
カイが低い声で言う。
「村長。お前のやり方じゃ、村の外に借りが残る」
「外って?」
ブライスが虚勢を張るように眉を吊り上げる。
「砦だ。お前が個人で粉を動かしても、村の信用にはならん。“粉が消えた村”って評価だけが残る」
シュアラは帳簿を掲げた。
「村単位で砦と取引しましょう。不足は砦が貸し、返すのは“村全体”。あなたの懐ではなく、村の帳簿に記録します」
ブライスは長い沈黙のあと、肩を落とした。
粉挽き小屋の中で働いていた若者たちが、雪を踏む足音を忍ばせてこちらを伺っている。
「……そこまでやる理由は……」
「あなたの村が沈めば東が沈み、東が沈めば砦が沈みます」
シュアラは、淡々と、しかしごまかさずに告げた。
「この村だけの問題じゃありません。今のままだと、『どこでどれだけ消えたか分からない粉』が増えていくだけです」
観念したように、ブライスはもう一冊――隠していた帳簿を差し出した。先ほどのものより薄く、紙質も良い。
「……粉の本当の流れも……全部出す」
「最初からそうしてくだされば、壺は一つで済みました」
カイがぼそりと付け加える。ブライスの顔が引きつき、若者たちの間から小さな笑いが漏れた。
粉挽き小屋の奥は、粉塵と湿気で白く霞んでいる。石臼の低い響きが腹に伝わる。足元の板は踏むたび軋み、そのたびに粉がふわりと舞い上がった。
「くしゃみ出そうだな……」
ゲルトが鼻をひくつかせる。シュアラは粉袋の山と帳簿を見比べながら、数字と現物を丁寧に揃えていった。
隠し帳簿の方には、先ほどの帳簿にはなかった名前も載っている。
そこに書かれている額と、粉袋の山の減り方が、ようやく近づいた。
「ここにある名前の方々を、呼んでいただけますか」
シュアラが頼むと、ブライスは苦い顔をしながらも、若者に指示を出した。
ほどなくして、小屋の前に数人の村人が集まった。煤けた外套、ひび割れた手、痩せた頬。
どこにでもある「貧しい村の顔」だが、シュアラには、数字の裏側に並んでいた名前として見えていた。
「……すまねえ……」
「子どもが熱出して……粉が足りなくて……」
弱い声だが、そこには生活の切迫がにじんでいる。
(生活の苦しさ、個人の善意、独占、帳簿の改ざん……積み重なった結果が、これ)
帝都の帳簿で見てきた「不正」とは、少し質が違う。
ここには、自分の腹と子どもの腹を秤にかけた末に、はみ出した数字が混ざっていた。
「返せとは言いません。返すのは“村”です。来年の収穫で処理します」
シュアラがそう言うと、村人たちは驚いたように顔を見合わせた。
「そんな仕組みが……」
「できます。我々が証人になります」
シュアラは粉袋を押しながら続けた。
「今日から、粉袋の重さを毎朝測り、押印します。記録は、砦で帳簿を扱っている兵に教えます。勝手に動かせば――」
「動かせば?」
ブライスが肩をすくめる。視線の端で、ラルスの顔つきが過った。
彼のように「抜け道を知っている人間」がいる以上、ここでも同じ穴が開きかねない。
シュアラは、意図的に少し間を置いてから答えた。
「……わかっていますよね?」
後ろでカイが腕を組み、淡々と頷く。ゲルトも、無言で壺の破片をつま先で弾いた。
粉袋の山の前で、ブライスは大きく息を吐いた。
「……あんた、清いな」
「清くはありません。計算しているだけです」
「計算、ねえ。俺には、清く見えるがな」
その言い方には、少しだけ棘があった。
シュアラは、その棘の形を完全には掴めなかった。
(清廉さだけでは動かない人間……父がいつも嘆いていた相手ですね)
帝都の貴族や商人とは違う。ここにいるのは、自分の腹と村の腹を同じ鍋で煮詰める男だ。
鍋から多めに掬っても、鍋ごと焦がす気はない――そういう種類の欲。
「村長」
代わりに口を開いたのはカイだった。
「お前が今までやってきたことも、全部ひっくり返す気はねえ」
「は……?」
「困ってるやつを助けたのは事実だろ。やり方がまずかっただけだ」
カイは雪を靴で軽く蹴った。粉雪が散り、白い地面に靴跡がひとつ増える。
「これからは、砦と“村”の貸し借りも、今の話と同じだ。俺たちは粉を貸す。お前らは春に収穫で返す。ただし、返せなかったときに首を締めるのは“村全体”だ。お前の家の棚じゃねえ」
「……それで、砦は得をするのか?」
「するさ」
カイは腕を組んだ。
「『モノが消える村』よりも、『ちゃんと返そうとする村』の方が守り甲斐がある。信頼できるしな」
その言い方は、どこか戦場の「盾と槍」の話に似ていた。
役に立つ盾なら手入れをし、穴が開いた盾なら捨てる。
ただし、今のカイは「穴を塞いで使い続ける」方を選んでいる。
ブライスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった。やれるところまでやってみる」
「できなかったら言え」
ゲルトが横から口を挟む。
「今さら『狸』が素に戻ったところで、誰も驚かねえ。そのときゃ、若と軍師殿がまた壺を割りに来るだけだ」
「割られる壺が残ってればな……」
ブライスの嘆きに、村人たちの間から笑いが漏れた。
外へ出ると、風車はさっきよりわずかに力強く回っていた。ギィ、ゴン……と低く響くが、弱り切った音ではない。
作業を終えた村人たちが、小屋の前で分厚い手袋を揉みながら息を吐いている。
ブライスはその輪から少し離れた場所で、帳簿を抱えて所在なげに立っていた。
「……あんた、本当にやる気か」
彼はぽつりと訊ねた。
「何をでしょう」
「“村の帳簿”ってやつだよ。今まで俺が自分の懐でやってきた貸し借りを、わざわざ表に出して……」
「名前が出た方が、誤魔化しづらくなります」
シュアラは率直に告げる。
「その代わり、あなただけが火消し役をする必要はなくなります。村全体の責任になりますから」
ブライスはしばらく黙り、分厚い指で帳簿の角を何度も撫でた。
「……あんた、やっぱり清いよ」
「清くありません。損得を計算しているだけです」
同じやりとりを繰り返すと、ブライスは困ったように笑った。
砦への帰り道。風車は背後で回り続けている。雪雲を切り裂くように、ゆっくりと。
手綱を握りながら、カイが呆れたように言った。
「お前、村全体をでっけえ帳簿だと思ってねえか?」
「はい。数字に置き換えれば、動かせる部分が分かります」
「……数字の女だな」
「“数字女”は王宮での呼ばれ方です。好きではありません」
むっとして返すと、カイは少しだけ視線を逸らした。雪を踏む馬の蹄音が、会話の合間を埋める。
「じゃあ……軍師殿でいい」
何気なく放たれたその言葉が、胸の奥に落ちた。
それは白湯のようにじんわりと広がり、冷たい朝の空気を押し返していく。
(清廉さだけでは、人は動かない)
(でも、だからといって、全部を濁らせる必要もない)
ブライスの帳簿を思い出す。
汚れた数字と、どうしようもない生活の匂い。
そのどちらも切り捨てずに扱うやり方を、少しだけ掴めた気がした。
(東の村に煙。南の村に帳簿。天秤は……ほんの少し動いた)
風車の羽根が雪雲を切り裂き、回り続ける。
冬は近い。
だがその羽根は、もはや沈んでいなかった。
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