第23話 燻製小屋の煙(1)

 リナは、その日いつもより早く目を覚ました。


 寝床の上で膝を抱えたまま、しばらく天井を見つめる。


 家の梁には、昔干していた肉を吊るしていた紐の跡が残っている。今は何もぶら下がっていない。


 それでも、昨日より胸が軽かった。


 かすかに、パンの焼ける匂いがする。


「……パンだ」


 布団を跳ねのけて、納屋代わりの部屋から居間に飛び出す。


 小さな竈の前で、父が丸い背中を丸めていた。


 灰の中に押し込んで焼いた黒パンを、木の板の上に出している。


「おはよ」


「おう」


 父は振り向きもせずに返事をする。


「今日はちゃんと一人分だ。団長殿が『まずガキに食わせろ』ってうるさくてな」


 木皿の上で、黒パンが一つだけ、ぽつんと転がった。


 いつもより、ほんの少しだけ厚い気がする。


 リナはごくりと喉を鳴らした。


「……トマスの分は?」


「朝っぱらからそれか」


 父は鼻を鳴らし、それでも奥の寝台を顎で示した。


「熱はまだあるが、昨日よりはましだ。後でスープを少し持ってってやる。お前はまず、それ食え」


「うん」


 黒パンを両手で抱える。


 手のひらに、焼きたての温かさがじんわりと移ってきた。


(昨日、文官のねえちゃんが言ってた)


『子どもが倒れているのを見るのは、見張りの人には一番こたえます』


 よく分からない言い回しだったが、「ちゃんと食べろ」という意味だということだけは理解している。


 パンにかじりつこうとした、そのときだった。


 外から、軋むような車輪の音と、蹄の音が重なって聞こえてきた。


 父が顔を上げる。


「……荷車か?」


「砦の人?」


 二人は顔を見合わせた。


 リナは黒パンを布でくるむと、慌てて外套を羽織る。


「リナ、転ぶなよ」


「分かってる!」


 返事だけは威勢よくして、雪の外へ飛び出した。


 冷たい空気が頬を刺す。


 村の入り口の方から、何人もの声がする。


 見張り台のあたりに人だかりができていた。


 リナは黒パンを胸に抱えたまま、人の隙間をすり抜ける。


 見慣れた黒い外套が目に入った。


「団長さん!」


 自分の声が雪の上で跳ねた。


 馬から降りたカイが振り向く。


 その向こうで、馬の列と、材木を積んだ荷車が並んでいた。


 砦から来た男たちの背中からは、汗の匂いと鉄の匂いがした。


「おう」


 カイはリナを一瞥し、口の端を僅かに上げる。


「……腹は、減ってないか」


「へってるけど、ちゃんと食べた!」


 リナは慌てて布を開いてみせた。


 中には、かじりかけの黒パンが一つ。


「ほら、今日の分。ちゃんと」


 その様子に、近くにいた村長が苦笑する。


「一口残すと、こいつ、トマスの枕元に置きに行こうとするんでな。今日は見張ってた」


「それは、とても良いことです」


 そう言ったのは、カイの後ろから歩いてきた、フード姿のシュアラだった。


 昨日よりも少し厚い外套を着ているが、顔色は相変わらず雪のように白い。


 けれど、目だけはよく通った光を宿していた。


「トマスさんの熱と指先、後で見させてください」


「約束しよう」


 村長は短く頷き、すぐに目つきを変えた。


「で、今日は何の用だ。今度は、どんな条件を聞かされる」


 周りの男たちの視線が、一斉に砦の一団へ向かう。


 感謝と不安と、言葉にならない苛立ちが混ざり合った目だ。


 カイは腕を組み、顎でシュアラを示した。


「こいつが言い出した。お前らの村を、『腹の貯蔵庫』にするってな」


「……貯蔵庫?」


 村長の額に皺が寄る。


「寒い倉だか何だか知らねえが、うちはこれ以上冷やされるのはごめんだぞ」


「今より寒くはしません」


 シュアラは慌てて首を振り、馬の側帯から布の袋を外した。


 丸めた羊皮紙を取り出し、雪の上に広げて見せる。


「ただ、ここを冬のあいだの『食べ物の置き場』に変えたいのです」


 簡略図の上で、川の線と村の四角い印が並ぶ。


 その川脇に描かれた小さな四角――燻製小屋の予定地を指した。


「この川、森、その周りの獣と魚。全部を『長く残る形』にする小屋を建てます」


「干し肉なら前からやってる!」


 髭面の男が、たまらず声を荒げた。


「紐で吊って、外の風に当てりゃいい。寒さは勝手にあるんだ」


「紐で吊るのも良い方法です。ですが、欠点が一つあります」


 シュアラは村人たちを見渡した。


「襲ってくる側から見ても、一番先に目に入るのは、外にぶら下がった肉だということです」


 男たちの顔が強張る。


 こじ開けられた納屋。散らばった藁。もしそこに干し肉があったら――想像は容易かった。


「小屋の中に煙を閉じ込めて、肉と魚を隠します。外から見えないぶん、略奪のリスクは減る。煙の匂いは残りますが、それは――」


 一度、息を整える。


「この村に『まだ食べ物が残っている』って印にもなってしまいます」


「だから狙われるんじゃねえか!」


 誰かが叫んだ。


「他の村の分まで預かるなんざ、的になれって言ってるのと同じだろ!」


 口々に不安があふれ出す。


 カイが前に出ようとしたのを、シュアラは片手で制した。


「団長。先に、私に話させてください」


「……三分だ」


 カイが一歩下がる。


 雪の上で靴底がきしり、輪になった視線がシュアラ一人に集まった。


 視線の重さに、喉がひゅっと狭くなる。


(怖いのは、私も同じです)


 それでも、目は逸らさなかった。


「皆さんの言う通りです。この村は、きっとまた狙われます」


 肯定すると、ざわめきが止まった。


「川があり、魚がいて、森がある。そのこと自体が、『襲う側にとって都合のいい村』の条件ですから」


「んなことは分かってる。だから怖ぇんだよ!」


「私も、怖いです」


 シュアラは、昨日の光景を思い出した。


 雪の上の布。布の下からのぞく、もう動かない足。


「昨日、布の下で冷たくなっていた足を見ました。ああいう足を、『仕方がない』と書類に書いて終わらせるやり方を、私は知っています。でも」


 胸の奥で、何かがきしむ。


「ここでそれを使ったら、私は帝都にいたときと同じ人間になります。それは嫌です」


 自分で口にして、初めてはっきりと自覚する。


 村長が目を細めた。


「じゃあ、どうする」


「この村を変えたいんです。『刈られるだけの場所』から、『落とされたら皆が困る場所』に」


「何が違う」


「『ただ狙われる村』は、砦から見て守る理由が薄い村です。襲われても、『仕方がない』で終わる。そう扱われている村は、帝都の地図の上に、いくらでもあります」


 言いながら、自分の言葉に腹が立った。


「けれど、『落とされたら皆が困る村』は違う。『あそこだけは死守しろ』と言われる村です。砦にとっても、他の村にとっても、『頼むから持ちこたえてくれ』と祈られる場所」


 川の音が、妙に大きく聞こえた。


「冷蔵庫にする、というのはそういう意味です。冬の食料を一手に預かる村は、この一帯の『胃袋』を握る村になります」


「……そんなふうに、俺たちを見てくれるのか」


 村長の声は、わずかに震えていた。


「はい。少なくとも、ヴァルム砦の天秤ではそう扱います」


 シュアラは淡々と言い添えた。


「帝都の帳簿が何と言うかは……あまり気にしていません」


「おい」


 カイが苦い顔をする。


「そこまで言うと、あとで俺まで怒られる」


「では、『さほど気にしていません』に訂正します」


 すました返しに、村人の何人かが噴き出した。


 重くこわばっていた空気に、小さなひびが入る。


 カイはその隙間に踏み込むように前へ出た。


「俺はな、『守れねえかもしれねえ』と思った場所を守るとは言わねえ」


 低い声が、村の広場に落ちる。


「無理なもんは無理だと言う。俺も人間だ」


「団長、それはそれでどうかと思います」


「黙ってろ文官。今は格好つけてんだ」

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