記憶喪失の彼女は、僕を「運命の恋人」だと信じている。
トムさんとナナ
第1話:世界は慧吾(けいご)でできている
まぶたの裏側で、白い光がぼんやりと揺れていた。
消毒液のツンとした匂いが鼻をくすぐる。
ゆっくりと目を開けると、そこには見知らぬ天井があった。
「……あ」
喉が渇いていて、声がうまく出ない。
頭の中は真っ白で、自分が誰なのか、ここがどこなのか、まるで霧がかかったように思い出せなかった。
名前も、年齢も、昨日まで何をしていたのかも。
恐怖で胸がキュッと縮こまりそうになった、その時だ。
視界の端に、誰かが座っているのが見えた。
パイプ椅子に窮屈そうに座り、窓の外を眺めている男性。
黒髪は少し長めで、整った横顔はどこか寂しげに見える。
切れ長の目は涼しげで、窓から差し込む陽の光を受けて、ガラス細工のように綺麗だった。
(だれ……?)
知らない人のはずなのに、不思議と怖くなかった。
それどころか、彼の姿を見た瞬間、凍りついていた心臓がドクン、と大きく跳ねたのだ。
まるで、迷子がようやくお母さんを見つけた時のような、あるいは、待ちわびていたパズルの最後のピースを見つけた時のような、絶対的な安堵感。
私の視線に気づいたのか、彼がゆっくりとこちらを向く。
「……目が、覚めたか」
低くて、落ち着いた声。
彼は少し驚いたように目を見開き、それから困ったように眉尻を下げた。
どうしてそんな顔をするの? そんなに心配してくれていたの?
私は重たい体を起こそうとして、シーツの上でふらついた。
世界がぐらりと回る。
「おい、無理するな」
彼が慌てて立ち上がり、私の肩を支えてくれた。
その瞬間だった。
彼の手のひらから伝わる熱が、私の冷え切った肌に染み込んでいく。
とぷん。
温かい。
すごく、温かい。
その熱に触れただけで、空白だった私の世界に「色」がついた気がした。
彼の手が触れている場所から、安心感が全身に広がっていく。
「あったかい……」
無意識に、私は彼のシャツの裾をギュッと握りしめていた。
この手を離したら、私はまたあの真っ白な虚無に飲み込まれてしまう気がする。
絶対に離したくない。
私は上目遣いで、彼を見つめた。
こんなに素敵で、こんなに温かい人。
記憶はないけれど、私の心だけが答えを知っていた。
「あなたは……私の、恋人、ですか?」
彼は一瞬、息を止めたように見えた。
黒い瞳が揺れて、視線が泳ぐ。
頬がほんのりと赤くなっているのは、私の唐突な質問に照れているからだろうか。
なんてシャイな人なんだろう。
沈黙が落ちる。
数秒が永遠のように感じられた後、彼は覚悟を決めたように、一つだけ大きく息を吐いた。
そして、私の頭にポンと手を乗せる。
大きくて、ゴツゴツとした、優しい手。
「……ああ、そうだ。俺は工藤慧吾(くどう けいご)。君の……恋人だ」
やっぱり。
私の勘は間違っていなかった。
名前を聞いただけで、胸の奥が甘く痺れる。
慧吾。
ケイゴ。
口の中で転がすと、砂糖菓子みたいに甘い響き。
「ケイゴ……」
嬉しくて、私は点滴の管が絡まないように気をつけながら、彼の体に思い切り抱きついた。
硬い胸板に顔を埋めると、トクトクと少し早い鼓動が聞こえる。
彼もドキドキしてくれているんだ。
私と同じなんだ。
「ちょ、おい……ハグミ、苦しくないか?」
「ううん、ここが一番息がしやすいの」
彼は戸惑いながらも、私を拒絶することはしなかった。
むしろ、おそるおそる、私の背中に腕を回してくれた。
そのぎこちない動作さえも、私を大切に扱おうとしてくれている証拠みたいで愛おしい。
私はこの時、確信した。
記憶なんてなくてもいい。
この温もりさえあれば、私は生きていける。
世界には、私と慧吾、二人しかいないんだって。
***
退院の手続きを終え、私たちは慧吾の車で「家」に向かうことになった。
医師からは『精神的なショックによる記憶喪失』と説明されたけれど、難しいことはよくわからなかった。
ただ一つわかったのは、私が極度の不安を感じると発熱してしまうこと。
そして、その特効薬は慧吾のそばにいることだけ。
車窓から流れる景色は、灰色のビルばかりで味気なかったけれど、助手席から見る慧吾の横顔はずっと見ていても飽きなかった。
信号待ちのたびに、私が彼のシャツの袖をちょんちょんと引っ張ると、彼は「なんだ?」と言いながら、面倒くさがらずにこちらを見てくれる。
その無愛想な優しさがたまらない。
「着いたぞ」
車が停まったのは、都心にある背の高いマンションだった。
オートロックのガラス扉を抜けて、エレベーターで最上階へ。
金属的な冷たい廊下を歩く間も、私は慧吾のジャケットの裾を小指で掴んだまま離さない。
「ここが……私たちの家?」
彼が重厚な扉の鍵を開け、私を中へと招き入れる。
玄関に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を刺した。
生活感があまりない、静かな空間。
廊下の先にあるリビングには、大きな机と、壁一面を埋め尽くすような黒い画面(モニターというらしい)がいくつも並んでいた。
青や緑の小さなランプが点滅していて、まるで宇宙船のコックピットみたい。
「散らかってて悪いな。仕事柄、機材が多くて」
慧吾が申し訳なさそうに頭をかく。
「ううん、すごい! 慧吾って魔法使いみたい!」
「……エンジニアだ」
彼は短く訂正して、荷物をソファに置いた。
初めて見る部屋。
初めての匂い。
ここが私たちの愛の巣。
そう思った瞬間、急に足元の力が抜けた。
慣れない外出と緊張のせいか、視界がぐらりと揺らぐ。
「……っ」
膝から崩れ落ちそうになった私の体を、強い力が掬(すく)い上げた。
「ハグミ!」
気がつくと、私は宙に浮いていた。
慧吾が、私をお姫様抱っこしてくれていたのだ。
至近距離にある彼の顔。
真剣な眼差し。
私の心臓が爆発しそうなほど高鳴る。
やっぱり慧吾は、いざという時にすごく男らしい。
「顔色が悪い。……やっぱり、無理させすぎたか」
彼は自分を責めるように呟くと、私を抱えたまま、ゆっくりと部屋の奥にあるベッドへと歩き出した。
歩くたびに伝わる振動と、彼の胸の温もり。
私は彼の首に腕を回して、その首筋に顔を埋める。
石鹸と、微かなコーヒーの香りがした。
「慧吾、ぎゅーして?」
「……今、してるだろ」
「もっと」
彼は呆れたようにため息をついたけれど、私を抱く腕の力を少しだけ強めてくれた。
ベッドに私を降ろすその瞬間まで、彼は壊れ物を扱うように慎重だった。
ふかふかの布団に包まれながら、私は彼を見上げる。
彼はすぐに立ち去ったりせず、ベッドの脇に膝をついて、私の前髪を不器用な手つきで直してくれた。
「少し眠れ。俺はすぐそこのデスクにいるから」
「うん……いなくならない?」
「ああ。どこにも行かない」
その言葉は、どんな約束よりも頼もしく響いた。
慧吾がいる。
それだけで、私の世界は完全だ。
私は安心して目を閉じる。
遠くで聞こえるキーボードを叩くカチャカチャという音が、まるで優しい子守唄のように聞こえた。
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