星降る夜のカルテ
彩花 咲
第1話 研究者の朝
大学病院のリハビリテーション科のスタッフルームは、朝八時を過ぎると活気に満ちる。白衣を着た理学療法士や作業療法士、言語聴覚士たちが、電子カルテを確認しながら一日の予定を組み立てていく。
橋本蓮は、その喧騒の中で一人、ノートパソコンに向かっていた。画面には統計ソフトのウィンドウがいくつも開かれ、階層ベイズモデルの解析結果が複雑な数式とグラフで表示されている。
「橋本さん、また研究?」
同僚の男性理学療法士、田所が声をかけてきた。
「ああ。昨日データを追加したから、再解析してるんだ」
「相変わらずだなぁ。大学院の修士論文、もう提出したんじゃなかったっけ?」
「提出したけど、査読論文にするために改訂してる。腫瘍循環器患者のリハビリテーション効果を予測するモデルなんだけど、まだ精度が足りなくて」
蓮は視線をパソコンから離さずに答えた。田所は肩をすくめる。
「真面目だよな。俺なんて、論文終わったら二度と統計なんて見たくないって思ったけど」
「まあ、性分だから」
蓮は短く答えて、再びデータに目を戻した。田所は何か言いかけたが、結局何も言わずに自分の席に戻っていった。
周囲からは「研究バカ」「女に興味がない」などと陰口を叩かれることもある。事実、蓮は恋愛には興味がなかった。正確には、興味を持たないようにしていた。
一年前の失恋が、まだ心に引っかかっていた。
看護師の中村彩乃。同じ病院で働く、明るくて優しい女性だった。蓮が研究に没頭しすぎて、デートの約束を何度も忘れ、記念日も祝えなかった。最後には「もういい。あなたには研究しかないのね」と言われて、別れを告げられた。
あれから一年。蓮は恋愛から意識的に距離を置いていた。研究に集中していれば、傷つくこともない。
「橋本先生」
凛とした声が、蓮の思考を遮った。
顔を上げると、白衣を着た女性医師が立っていた。水瀬凛。リハビリテーション科の医師で、蓮より二歳年上の二十七歳。切れ長の目と、きりりとした表情が印象的な女性だ。
「おはようございます、水瀬先生」
蓮は慌ててパソコンから目を離し、立ち上がった。
「座っていて結構です。307号室の患者さんですが、今日からリハビリ開始の指示を出しました。肺がん術後で、心機能にも注意が必要です。カルテを確認してください」
「はい、承知しました」
水瀬凛は常にこんな調子だ。無駄のない言葉、的確な指示。感情を表に出すことはほとんどない。だが、患者のことを第一に考える姿勢は、スタッフ全員が認めていた。
「それから」
凛は一瞬、蓮のパソコン画面に視線を向けた。
「研究、順調ですか?」
「え? ああ、はい。まあ、少しずつですが」
「そうですか。頑張ってください」
そう言って、凛は踵を返して去っていった。
蓮は首を傾げた。水瀬先生が研究のことを気にかけるなんて、珍しい。いつもは業務のことしか話さないのに。
「おはようございまーす!」
明るい声がスタッフルームに響いた。
言語聴覚士の早川陽菜が、両手にコーヒーカップを持って入ってきた。ポニーテールが揺れて、いつもの笑顔が周囲を和ませる。
「橋本先生、コーヒーどうぞ! また朝からパソコンとにらめっこですか?」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
陽菜は人懐っこい性格で、スタッフ間の潤滑油のような存在だ。嚥下障害の専門家として、患者からの信頼も厚い。
「今日、201号室の患者さん、一緒に診ますよね? 嚥下機能も評価したいので、橋本先生の意見も聞きたいんです」
「もちろん。十時頃でいいかな?」
「完璧です! じゃあ、よろしくお願いします!」
陽菜は笑顔で手を振って、自分の席に向かった。
蓮はコーヒーを一口飲んで、ふうと息をついた。
研究、臨床、そして日々の業務。忙しいが、充実している。恋愛なんて考える暇もない。それでいい。
そう自分に言い聞かせながら、蓮は電子カルテを開いた。水瀬先生が指示を出した307号室の患者、62歳男性。肺がんの手術を終えて、今日からリハビリテーション開始。カルテには「術後3日目、心機能EF45%、軽度の心不全あり」と記載されている。
EF、つまり心臓の左心室駆出率が45パーセント。正常値は50から70パーセントだから、やや低下している。つまり、心臓のポンプ機能が弱っているということだ。リハビリの負荷量を慎重に設定しなければならない。
蓮はカルテの情報を頭に入れながら、今日の訪問予定を組み立てていく。午前中に5人、午後に4人。その合間に、陽菜と一緒に201号室の嚥下評価。さらに大学院のゼミの資料も準備しなければならない。
「橋本、10時から病棟カンファレンスあるから、忘れないでな」
先輩の理学療法士、佐藤が声をかけてきた。
「了解です」
大学病院のリハビリテーション科は、常に時間との戦いだ。一人の患者に割ける時間は限られている。その中で、いかに効果的なリハビリを提供するか。それが蓮たちの仕事だった。
窓の外を見ると、6月の朝の光が病院の中庭を照らしている。梅雨入り前の、爽やかな空気。まだ暑さも本格的ではない、過ごしやすい季節だ。
蓮は白衣のポケットに聴診器とペンライトを入れて、立ち上がった。
「じゃあ、行ってきます」
誰に言うでもなく呟いて、病棟へ向かおうとしたとき、後ろから声がかかった。
「おい、橋本」
振り返ると、同期入職の理学療法士、森川と吉田が並んで立っていた。二人とも蓮と同じ25歳。森川はがっしりとした体格で、学生時代はラグビーをやっていた。吉田は細身で、いつも穏やかな笑顔を浮かべている。
「今日の昼、一緒に食堂行こうぜ。久しぶりに三人で」
森川が言った。
「ああ、いいよ。何時頃?」
「12時半くらいでどう? 俺、午後イチで訪問リハビリ入ってるから、それまでには戻らないと」
「了解。じゃあ、食堂で」
吉田が付け加えた。
「橋本、相変わらず研究ばっかりだな。たまには息抜きしろよ」
「してるよ、一応」
「嘘つけ。この前の飲み会も断っただろ」
「あれは、データ解析の締め切りがあったから」
森川が肩を叩いた。
「まあ、お前らしいけどな。でも、たまには遊ぼうぜ。同期で集まるのも悪くないだろ」
「そうだな」
蓮は小さく笑った。確かに、最近は研究と臨床ばかりで、同期と話す時間も減っていた。
「じゃあ、昼飯楽しみにしてるわ」
森川と吉田は手を振って、病棟へ向かっていった。
蓮もノートパソコンを閉じて、カルテの入ったタブレットを持って、スタッフルームを出た。廊下には、看護師や医師、検査技師たちが行き交っている。大学病院の朝は、いつもこんなふうに慌ただしい。
エレベーターホールで待っていると、隣に陽菜が立った。
「あ、橋本先生。これから病棟ですか?」
「うん。307号室の新患から回る予定」
「私も3階に用事があるんです。一緒に行きましょう」
エレベーターが到着し、二人は乗り込んだ。陽菜は相変わらず明るい表情で、何か楽しそうだ。
「橋本先生って、いつも朝早くから研究してますよね。すごいなあ」
「まあ、習慣みたいなものだから」
「私、統計とか全然ダメで。尊敬します」
「陽菜さんは臨床の感覚が鋭いじゃないか。それも才能だよ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
陽菜は嬉しそうに笑った。
エレベーターが3階に到着し、ドアが開いた。病棟の空気が流れ込んでくる。消毒液の匂いと、かすかな食事の匂いが混ざっている。
「じゃあ、また後で」
「はい、10時に201号室で!」
陽菜は軽く手を振って、ナースステーションへ向かった。
蓮は307号室へ向かって歩き出した。廊下の窓からは、病院の中庭が見える。木々の緑が、朝の光を受けて鮮やかに輝いていた。
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