8.「ポマンダー」
私は完成した薬をルドルフ様、アルブレヒト様へと持っていく。
直径二センチメートルも満たない金の球体。
この中には、アンバーグリスや薬草モカミールをはじめとした調合薬がぎっしりと詰め込まれています。
「「こ、これは!?」」
ルドルフ様、アルブレヒト様、兄弟そろって同じリアクションを見せます。
この小さい球体は、ルドルフ様やアルブレヒト様のような貴族の方にとってはお馴染みのアイテム。
「……これは“ポマンダー”か?」
「はい、ルドルフ様。アルブレヒト様の治療は、このポマンダーに包まれた薬の香りを嗅ぐことで行います」
これが、私とヴァスタの研究員たちと創り上げた
あの膨大な計算式を実現させるには、ポマンダーによる治療が最適だという結論に至ったのです。
「薬って……てっきり粉を飲むとか、注射するものだと思っていたよ」
ポマンダーをじっと見つめ、感想を述べるアルブレヒト様。
「それで、この香りを嗅ぐだけで、アルブレヒトの病は治るというのか?」
「はい。概ねその通りです。ですが――」
私はルドルフ様の疑問に答え、さらに薬の用法について説明を加える。
「この香りの効果を最大化するには……
アルブレヒト様のような末期症状の患者を治すためには、香りを強める必要があり……逆に私たちのように病にかかっていない者にとっては刺激が強すぎる可能性があるのです」
私の説明で、ルドルフ様、エリーザベト様、そして研究員の皆さんもアルブレヒト様から距離を取ってくださいました。
「皆さん、ありがとうございます」
私は一礼し、いよいよ治療を始めるためアルブレヒト様に顔を向ける。
「……準備はよろしいでしょうか? アルブレヒト様」
「うん、とっくに覚悟の準備はできているさ」
迷いなき目から放たれるその言葉――私は決意を固め、治療を開始する。
ポマンダーを掌に載せ、指をシュババっと印を結びながら、静かに演唱する。
「
「こちらを手に持っていてください……私も少し離れます」
アルブレヒト様にポマンダーを渡し、私も距離を取った。
――フワァ!
香りが、柔らかく、しかし確かにアルブレヒト様の周りを満たしていく。
「しかしこの香り結構強い……ミルクチョコレートのように甘く……治療のためとはいえ、大人の僕にとっては少しキツイ味かな」
茶化すように笑うアルブレヒト様に、私は少し離れた位置から説明を続ける。
「申し訳ございません。甘い香りは、時間とともに変化する仕様です。
香りは症状の段階に応じて変えておりまして――末期症状の場合は、生命素子と魔素媒介液の融合比を8:2、中期症状では7:3、6:4と経て、初期症状まで回復しましたら5:5と、自動で症状に合わせて融合比を変化させます」
「チョコレートで例えるなら、最初はミルクチョコレートのように激甘で、最後には大人が楽しめるビターチョコのようなほろ苦い香りへと変化する――ということです」
「なるほど、なるほど……」
アルブレヒト様は目を閉じ、香りを味わうように私の話を聞いていました。
とはいえ、言った通り、アルブレヒト様にとっては香りが少し強いのか、眉間にしわを寄せて、ほんのりしかめっ面になっている。
計算式の上では、この香りの特性は避けようがない――それは分かっていても、開発者のひとりとしては、どうしても胸が痛みます。
そして、香りの効果が身体に届いたその瞬間――
――ジュワワッ。
アルブレヒト様の身体から、白い湯気が立ちのぼった。
(始まった……!)
これは“強制再活性化”の現象。
クローナペストによって停止していた臓器や呼吸機能を、まるで命を吹き返すように再生させていく。
体温が急激に上昇し、湯気が上がるのはその影響であります。
私は唾を飲み込み、できる限り冷静を装いながら、その様子を見守った。
(さて――ここまでは想定通り。本当の勝負はここから……)
(強制再活性化で蘇った肉体。問題は、この後の“安定性”だ)
(再生力が強すぎれば、身体を逆に焼き尽くしてしまう。それを防ぐため、香りはここから7:3、6:4と少しずつ変化していく……理論上では、香りの変化と共に身体の機能も安定していくはず)
(そして安定すれば、活性化した身体の防衛機能によって――風邪が自然に治るように、クローナペストも完治へと向かう)
私はこの時、完成した計算式と、成功した試験管の実験を思い出した。
(『焦らず、少しずつ進めればいいんだ』――ルドルフ様のあの言葉から、あの計算式を導き出せた)
(以前の私は、完璧な融合比を一度で求めようとしていた。それが間違いだったのです)
何事も、最初の一歩が一番大変で、一番大切。
だからこそ、その後は――少しずつ、確実に進めるようにしていく。
あの時の試験管の泡――確かに安定して、継続的に発生していた。
(大丈夫……! 治療は絶対に成功する!!)
私は胸の奥でそう強く言い聞かせ、アルブレヒト様の姿を見つめ続けた。
「ぐっ……うがあ! あっ、熱い、熱いよ!」
「アルブレヒト様!?」
薬の効果によって、アルブレヒト様の身体が激しく反応する。
その様子を見たエリーザベト様は、驚愕と恐怖の入り混じった表情で立ち尽くした。
誤解を解くため、私はすぐに声を張る。
「大丈夫です! 急激な活性化によって、反射的に苦しく感じているだけです!
つまり錯覚です! 身体には何の問題もありません――いや、むしろ、確実に健康へと向かっています!」
説明をしても、アルブレヒト様がのたうち回る姿を前に、エリーザベト様の表情はどんどん青ざめていく。
(私の声が届いていない!?)
嫌な予感が走る。そして、その予感は見事に的中した。
「ああ――このままでは、アルブレヒト様が……ハンバーグのように蒸し焼きにされてしまう……!
私、もう見ていられません!!」
アルブレヒト様を思うがゆえの行動だったのでしょう。
エリーザベト様は、激しい剣幕で駆け寄ろうとしました。
(しまった……! これは完全に私のミスだ!)
(治療の前に、もっと丁寧に説明しておくべきだった。アルブレヒト様の身体に何が起こるのかを……!)
(けれど今ここで、
私は咄嗟に手を伸ばすが、距離が遠く、到底間に合いそうにない。
せっかくの治療が、滅茶苦茶になってしまう――そう思った、その瞬間。
――ガシッ!
ルドルフ様が、エリーザベト様の肩を掴み、その動きを止めた。
ゆっくりとルドルフ様の方へ顔を向けるエリーザベト様。ルドルフ様は静かな声で告げた。
「大丈夫だ……マリーとヴァスタの研究員たちを信じろ」
その言葉に、エリーザベト様の顔が「ハッ」と正気を取り戻したように和らぐ。
「あっ……申し訳ございません。私はなんてことを……」
彼女はそう言って、その場で立ち止まってくれました。
(ありがとうございます……ルドルフ様)
私は目で感謝を伝え、ルドルフ様は私の目を見て、小さく頷いた。
ルドルフ様のおかげで――間一髪の事態は避けられた。
そして、アルブレヒト様の治療は続いていく。
湯気は少しずつ薄れていき、それに伴ってアルブレヒト様の表情も、次第に穏やかさを取り戻していった。
やがて、数分後。
アルブレヒト様は目を開けた。
そして、自分の身体をところどころ見つめる。その姿は、まるで自分の身体が信じられないかのようだった。
「弟よ……」
「アルブレヒト様……」
ルドルフ様とエリーザベト様は、戸惑いの表情を浮かべる。けれど私は、アルブレヒト様の様子を見て確信した。
「治療は成功です」
その言葉に、アルブレヒト様の顔が少しずつ、しかし確かに笑みを浮かべていく。
そして――
「治ったよ……治ったよ、兄さん、エリーザベト……僕治ったよ――っ!!」
その声とともに、アルブレヒト様は車椅子から立ち上がり、ルドルフ様とエリーザベト様のもとへ駆け寄った。
同じく、ルドルフ様とエリーザベト様もアルブレヒト様に駆け寄り、三人は抱きしめ合う。
大切な人の命が無事だった――その喜びに、三人は涙を流しながら抱き合った。
その姿を見て、胸の奥がじんと熱くなる。気づけば、私の頬を伝う涙も、止まらなかった。
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