6.「恋」

 弟との面会を終え、私は、塔の窓辺から外を眺めていた。

 淡い夕陽が帝都を赤く染める時間――その光景は美しいのに、なぜか胸の奥が締めつけられる。

 この時の私は弟との面会を振り返っていた。


(アルブレヒトは元気そうに振る舞っていた。笑顔も見せていた。表向きは大丈夫そうに見えたが……クローナペストの病は確実に弟の身体を蝕んでいる……)

(もう……いつが起きてもおかしくない段階……そうなったら私は……)

「……アルブレヒト……」


 考えたくもないその最悪なことがどうしても頭によぎってしまう。

 気づいたら、涙が自然に頬を伝うのを感じた。

 泣きたいのはむしろ弟だ。本当につらいのは弟のはずだ。

 それなのに、面会中の弟は自分のことより私のことを思い――元気づけようとしていた。

 弟を思うほど、胸の苦しみは増していく。


「……ルドルフ様」


 背後から、聞き慣れた声がした。振り返ると――


「マリー……」


 桃髪翠眼の女性――やはりマリーがそこに立っていた。


「あっ……」


 泣いている私を見て、マリーは気まずそうに表情を曇らせる。


「これはこれは……見苦しいものを見せてしまったな」


 私は精一杯、茶化すように笑みを浮かべ、指で涙を拭った。


「いえ……見苦しいなんて、そんなこと……」


 マリーはハンカチを差し出そうとするが、私は手で「大丈夫」と伝える。

 ちょうど涙も止まってくれたところだった。

 マリーはしどろもどろになり、唾を飲み込みながら、ゆっくりと口を開く。


「ロベルト様から聞きました……その、弟のアルブレヒト様が病にかかったことを」

「ああ……」


 いずれは知られるとは思っていた。だから特に驚きはしない。

 私は、弟のことをマリーに隠していた理由を告げる。


「すまない……弟のことを……黙っていたのは、君に無駄なプレッシャーをかけたくなかったからだ」

「いえ、無駄なプレッシャーなんて……弟様のこと、心中察します」


 しばらくの沈黙の時間が流れた。私は思い切ってマリーに打ち明ける。


「マリー……今の私の正直な気持ちを君に伝えてもいいかな?」

「……正直な気持ちですか?」


 マリーは問い返す。


「ああ。弟のことを君に知られてしまった以上、もう君の中ではプレッシャーはかかっているかもしれない。

 なら、ここからは隠し事をせず、正直に話したい。……君にとっては少し重い話になるが」


 私は真っ直ぐとマリーの目を見つめた。

 マリーは私の目を見ると、なぜか一瞬だけ視線を逸らしてしまう。顔も、ほんのり赤く見えた。


(……そんなに、私の顔は怖いのだろうか)


 だが、やがてマリーは私の目をしっかりと見返した。


「……わかりました。ルドルフ様の気持ち……お聞かせください」


 そう答えて、私の話を受け入れてくれた。


「マリー、私は、ヴァスタの第一皇子として、クローナペストの病を克服したい。民がこれ以上苦しまないように……この気持ちは本当だ」

「……」


 マリーは静かに、私の言葉を受け止めてくれる。


「だが、一方で――」

「兄として、弟を救いたい。弟が亡くなる前に、なんとしても治療薬が完成してほしい。正直、この気持ちの方がずっと強いのだ」

「……」

「私情が強すぎるのは――指導者として失格かもしれない。私は人の上に立つ資格がないのかもしれない……それでも、自分の気持ちに嘘はつけない」


 すると、マリーは勢いよく首を振った。


「いえ、そんな……私は立派だと思います! 家族を大事に思うことに、何が悪いのでしょうか!

 わ、私としては……家族を大事にできない人に、民を大事にできる政治なんて行えるはずがありません!」

「マリー……」


 マリーの声は震えていた。けれど、その瞳はまっすぐで、曇りがなかった。

 その言葉が、胸の苦しみを少しずつ和らげ、心を温める。

 だが、マリーは急に顔を赤くして、慌てるように言った。


「あっ、申し訳ございません。私ごときが生意気なことを……!」

「ハハハ。構わん。いや、むしろ気持ちが少し楽になった。感謝しているよ」


 急に慌てる彼女と、誠実な姿勢――その姿に、自然と笑みがこぼれる。

 温かいものが胸に満たされるのを感じながら、私は再び真剣な表情へと戻った。


「……マリー、私は弟を救いたい」

「……はい」

「だが、私では薬を作ることはできない。だから、私の想いを君に託したい」


 私は頭を下げ、さらに続ける。


「頼む……クローナペストの薬を完成させてくれ」


 再び、沈黙の時間が流れた。

 先ほど、“プレッシャーをかけたくない”と言っておきながら――今の私は、その言葉を自ら裏切っている。

 けれど、それでも、この想いだけは、どうしても伝えずにはいられなかった。

 そして――


「……はい」


 彼女は答えた。小さな声だったが、その響きには確かな強さがあった。

 その言葉に、思わず頭を上げる。


「私、作ってみせます。ルドルフ様がくれたチャンス……無駄にしないためにも、私、治療薬を絶対に完成させてみせます!」


 彼女は確かにそう答えた。

 その緑の瞳には迷いがなく、まるでエメラルドのような神秘的な光を宿している。

 さらに、窓の外から差し込む夕陽が彼女の全身を包み込み――その姿を、美しく、そして神々しく照らしていた。


「ですから、ルドルフ様……待っていてください。そして、アルブレヒト様も必ず――」


 ――ガシッ!

 なぜ、そうしたのか、自分でもわからなかった。考えるよりも先に身体が勝手に動いていた。

 気づいたら、私はマリーを抱きしめていた。

 肌の柔らかさと、ほのかに混じる薬品と彼女自身の香りが胸を満たす。

 その瞬間、胸の奥が静かに洗われていくような、不思議な感覚に包まれた。


「……ありがとう」


 その言葉が、自然と口からこぼれた。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。


「あ、あのう……ル、ルドルフ様?」


 マリーの戸惑う声が耳に届く。その瞬間、私は我に返った。


(……はっ! わ、私はなんてことを……! 年頃の女性をいきなり抱きしめるなど……これでは変態ではないか! いや、それよりもマリーに大変失礼なことを――!)

「す、すま――」


 私は慌てて腕を離し、距離を取ろうとした。

 一刻も早く謝罪しなければ。そう思った、その瞬間――


 ――ガシッ。

 今度はマリーが私を抱きしめた。

 その手は、私を包み込むように優しく、そして温かく添えられていた。


「……大丈夫です」


 マリーはそれだけ言って、受け入れてくれた。

 私はその言葉に甘え、離した腕をもう一度、彼女を抱きしめる。

 心地よい時間。

 胸が癒されていくはずなのに、ドキ……ドキと段々と落ち着かない感覚が胸を満たす。


(そうか……私は……)


 私は自分の気持ちを理解した。


(マリーに恋したのだな……)


 自分でも驚くほど冷静だった。

 恋をするとは、もっと激しく、落ち着かない感覚だと思っていたが、現実はあっさりと受け入れた……これは私が特殊なのだろうか。


 ――それはそれとして……マリーさんが独り身なら、兄さんが“結婚相手”としてアタックしてみたら? そういう自由恋愛として、“新しい時代”を兄さん自身から作ってみるとか――


 私をからかった弟の言動を思い出す。


(……フッ、お前には負けたよ、アルブレヒト)


 私は弟の凄さを再確認した。

 心地よい抱きしめ合う時間、本当はもっとこのまま浸りたい――だが、いつまでもこうしてはいられない。


(私もマリーも、そろそろやるべきことに戻らねば……)


 そう思い、私が腕を離すと、不思議とマリーも同時に腕を離した。そして、お互いに距離を取ったのも同時だった。

 ……もしかしたら、マリーも私と同じことを考えていたかもしれない。


 私とマリーは目を合わせた。

 そして、お互いに語ることなく、小さく頷き合い、それぞれ背中を向き合うようにして通路を歩く。

 マリーは薬を完成させるために研究室へ。私は政治のために王宮廷へ。


(私は、マリーは恋している……)

(だが、今はよそう。この恋慕はまだ伝える時ではない)

(クローナペストの治療薬が完成し、弟と民を救い、すべてが終わったら――伝えよう)


 そう胸に誓い、私は振り返ることなく歩み続けた。


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