第2話 有象無象のFクラス
練習室のドアを開けた瞬間、俺の鼻腔をついたのは、澱んだ空気と若者たちの汗、そして絶望の匂いだった。
Fクラス。
そこは、オーディションにおける最下層。
才能がない、やる気がない、あるいは性格に致命的な欠陥のある者が落とされる、掃き溜めだ。
「……なんだ、この動物園は」
俺、元社畜の田中洸希こと西園寺ルキは、呆然と立ち尽くした。
十畳ほどの狭いレッスンスタジオには、俺を含めて八人の落ちこぼれが詰め込まれている。
一週間後に迫った、チームパフォーマンスの課題曲は『IGNITE』。
激しいビートと複雑なフォーメーション移動が売りの、難易度S級のダンスナンバーだ。Fクラスの俺たちには、当然難易度が高い。
(気合を入れて取り掛からないとな)
しかし、意気込む俺とは裏腹に、練習開始から三日目にして、俺たちのチームは解散の危機に瀕していた。いや、すでに崩壊していると言っていい。
俺の目の前では、地獄絵図のような3つの事件が同時進行していたのだ。
■事件その1:鏡の前のナルシスト vs 暴君
「おい、そこどけよ。邪魔なんだよ」
スタジオの空気を切り裂くような怒号が響く。
声の主は、竹ノ内孔明。鋭い切れ長の目で、長身のモデル体型。ダンスの実力だけならAクラスでもトップを張れる逸材だ。だが、彼は常に不機嫌というオーラを纏っている。
彼が睨みつけているのは、鏡の前で延々と前髪を直している金髪の少年、レオンだ。
「えー? ちょっと待ってよ孔明くん。今、前髪の角度がキマらなくてさぁ。アイドルは顔が命でしょ?」
「テメェ、練習開始から一時間、一度も踊ってねえだろ」
孔明が苛立ちを隠そうともせず、レオンが置いていた化粧ポーチを蹴り飛ばした。 ガシャン、と中身がぶちまけられる。
「あーっ! 俺の限定コスメ!」
「『あーっ』じゃねえんだよ。踊らねえくせに鏡の前に立つな、ゴミが。消えろ」
孔明の目は、チームメイトを見る目ではない。道端の石ころを見る目だ。
レオンは「もう、やってらんないんだけど!」と叫んで、スタジオの隅に逃げていった。
■事件その2:筋肉バカと脱落者の不協和音
部屋の反対側では、別のカオスが生まれていた。
「うおおおお! 振りが覚えられないなら、筋肉でカバーするしかねえ!」
筋骨隆々のメンバー、ゴウタが、なぜかダンスではなく腕立て伏せを始めている。やめてくれ。狭いスタジオで巨体が上下するたびに、床が揺れ、熱気が充満する。暑苦しいことこの上ない。
その横で、体育座りをして死んだ魚のような目をしているのは、気弱そうな少年のレンジだ。
「もう無理だよ……あんな速い振り付け、人間業じゃない……帰りたい……」
「おいレンジ! 筋肉だ! 筋肉は裏切らないぞ!」
「うるさいよゴウタ君、……てか、暑い……」
熱血とネガティブの二人はダンスの練習など1ミリもしていない。
ただ騒音と二酸化炭素を撒き散らすだけだ。
■事件その3:天才と暴君の衝突、そして沈黙
だが、最も深刻な問題は、チームの核となるべき二人の間に起きていた。
「……♪~~♪」
スタジオの隅、カーテンの陰で、蚊の鳴くような歌声が聞こえていた。
パーカーのフードを目深にかぶり、膝を抱えてうずくまっている少年、湊ハルカだ。
その声は小さいが、透き通るような美しさを持っている。ダイヤモンドの原石。彼が歌えば、この腐った空気すら浄化されるはずだ。
しかし――。
「おい、ネクラ」
孔明が、ズカズカとハルカの方へ歩み寄る。
その足音だけで、ハルカの細い肩がビクッと跳ねた。
「歌うならデカい声で歌え。ボソボソやってんじゃねえよ。リズムが狂うんだよ」
「ひっ、ご、ごめんなさい」
「謝る前に声出せよ。お前のその態度が一番ムカつくんだよ!」
孔明が壁をドンと叩く。
ハルカは完全に萎縮し、フードをさらに深くかぶり、口を閉ざしてしまった。
歌声が消える。
スタジオに残ったのは、孔明の舌打ちの音と、重苦しい沈黙だけだった。
***
「……終わったな」
俺は、配られたペットボトルのぬるい水を一口飲んだ。
ダンス未経験、歌唱力ゼロの俺には、彼らの争いに入り込む隙すらない。
(まとまるわけがない。個性が強すぎる上に、方向性がバラバラだ)
孔明は「俺が一番」という独裁者。他人はただの背景。
ハルカは才能があるのに、対人恐怖症で機能不全。
他のメンバーは、現実逃避か能力不足。
一週間後のテスト?
無理だ。
絶対不可能だ。
このままでは、俺たちはステージに立つことすらできず、全員まとめてクビになる。
俺の脳裏に、前世の記憶がフラッシュバックした。
『田中ァ、なんだこの進捗は! 納期明日だぞ!』
『すみません、デザイナーが飛んでしまって』
『仕様変更? 今からですか?!』
『エンジニアと営業が喧嘩して、開発が止まってます!』
胃が痛む。
キリキリと痛む。
この空気は、あの時と同じだ。
プロジェクトが炎上し、誰も責任を取ろうとせず、ただ時間だけが過ぎていく、あのデスマーチの匂い。
俺は、西園寺ルキとしての美しい顔を両手で覆い、深くため息をついた。
誰もリーダーシップを取らない。
誰もスケジュールを管理しない。
誰もメンバーのメンタルケアをしない。
(……やるしかないのか。俺が)
俺は、よれよれのTシャツの裾をギュッと握りしめた。
俺は歌もダンスも教えられない。この世界では「無能」だ。
だが。
崩壊した現場を、泥水をすすってでも納期に間に合わせることだけは、プロフェッショナルだ。
俺はゆっくりと立ち上がった。
その目にはもう、怯えはない。
あるのは、残業確定の金曜日の夜に覚悟を決めた社畜の、据わった目だけだ。
(よし……まずは定例会議のセットからだ)
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