灰色の世界に、君たちが五線譜を引いてくれた
@flameflame
第一話 不協和音のディストーション
蒼井依都(あおい いと)にとって、世界は灰色だった。
色の彩度を極限まで落としたモノクロームのフィルム。音はくぐもり、味はしない。ただ、痛みだけが生々しく感覚を刺す。それが、彼が生きる日常の全てだった。
チャイムが鳴り響き、教室が喧騒に包まれる。椅子を引く音、友達を呼ぶ声、明日への期待を孕んだ笑い声。それら全てが、分厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように、依都の耳には届いていた。彼はゆっくりと立ち上がり、自分の机の中に手を入れる。あるべきはずの数学の教科書とノートが、そこにはなかった。
またか、と心の中でため息が漏れる。感情ではない。ただの確認作業のようなものだ。探す手間を考え、諦めて鞄に他の教材を詰める。視界の端で、クラスの中心にいる数人がこちらを見て、嘲るように笑っているのが見えた。
彼らにとって、蒼井依都という存在は、格好の玩具だった。
いつも着古してサイズの合わない制服。栄養が足りていないことが明白な痩せた体。そして、何をされても決して反抗せず、ただ虚ろな瞳で相手を見返すだけの人形。
上履きがゴミ箱に捨てられていた日も、給食のパンに砂が混じっていた日も、依都は何も言わなかった。騒ぎを起こせば、家に連絡がいく。家に連絡がけば、父の機嫌を損ねる。世界で最も恐ろしいのは、父の不機嫌だった。それに比べれば、学校での嫌がらせなど、道端の小石につまずく程度のことに過ぎない。
昇降口の喧騒を背に、校門へと歩を進める。早く家に帰らなければ。いや、帰りたくなどない。矛盾した感情が胸の中で渦を巻くが、それを表情に出す術を、依都はとうの昔に失っていた。無表情という仮面は、彼が生き延びるために身につけた、唯一の鎧だった。
「依都!」
背後から掛けられた、よく通る快活な声。
その声を聞いた瞬間、灰色の世界に、ほんの僅か、亀裂が入る気がした。振り返ると、そこには三つの色彩が待っていた。
「おっせーぞ、依都。何してたんだよ」
夕陽を背負い、ニカッと笑うのは白瀬湊(しらせ みなと)。少し日に焼けた肌と、短く刈った髪が快活な印象を与える、サッカー部のエース。彼の存在は、燃えるような赤色を連想させた。
「湊、声が大きい。それに、依都にも都合がある」
湊の隣で、呆れたようにため息をついたのは月舘朱音(つきだて あかね)。艶やかな黒髪を一つに束ね、フレームの細い眼鏡の奥から、冷静な瞳でこちらを見つめている。彼女は、静謐な夜を思わせる深い藍色。
「いっくーん! お疲れ様ー! ねぇねぇ、今日の体育、湊くんがシュート外してすっごい顔してたんだよ!」
二人の間でぴょんぴょんと跳ねながら、屈託なく笑うのは星詠まひる(ほしよみ まひる)。ふわりとウェーブのかかった明るい茶色の髪が、彼女の動きに合わせて楽しげに揺れる。彼女は、ひまわりのような暖かな黄色だ。
赤と、藍と、黄色。
彼らと共にいる時間だけ、依都の灰色の世界に、淡い色彩が灯る。
「……別に。普通だよ」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。一日中、一言も発していなかったせいかもしれない。
「普通なわけあるか。また顔色悪いぞ。ちゃんと食ってるのか?」
湊がずかずかと近づいてきて、依都の顔を覗き込む。心配を隠さない真っ直ぐな視線が、少しだけ気恥ずかしい。
「……大丈夫」
「嘘つけ。ほら、うち来るぞ。母さんがクリームシチュー作って待ってるから」
そう言って、湊はごく自然に依都の腕を掴んだ。
その瞬間、依都の体は電気ショックを受けたかのように、ビクリと硬直した。肩が跳ね、全身の筋肉がこわばる。他人の体温が、皮膚を通してじわりと侵食してくる感覚。それは、恐怖の記憶を呼び覚ます引き金だった。
「あ……」
依都の反応に、湊はハッとしてすぐに手を離した。気まずそうな、申し訳なさそうな顔をしている。
「わりぃ……つい」
「湊。無理強いは駄目だって、いつも言ってるでしょう」
朱音が冷静な声で湊を窘める。その声には、依都を気遣う響きがあった。
「でも、このままじゃ依都が……!」
食い下がる湊の言葉を遮るように、まひるが依都の隣にそっと寄り添った。彼女は決して依都の体に触れない。絶妙な距離感を保ちながら、太陽みたいな笑顔を向けてくる。
「大丈夫だよ、いっくん! 今日は白瀬おばさんの特製シチューだし、すっごく美味しいんだから! それにね、そのあとウチの店で、お父さんの新作ケーキの試食会があるの! だから、ね? 行こ?」
まひるの言葉に含まれた「白瀬おばさんのシチュー」と「新作ケーキ」という単語が、依都の腹をぐぅ、と鳴らした。昨日の夜から、口にしたのは水道水だけだ。家に帰っても、夕食が用意されている保証はない。父・悠弦の機嫌が悪ければ、母・美園は食事の支度を放棄する。今夜は、昨夜よりも父の帰りが早い日だったはずだ。
「……うん」
依都は、小さく頷いた。
空腹には勝てなかった。そして何より、彼らの優しさを、この温かい色彩を、拒絶することは、今の依都にはできなかった。
白瀬家は、いつも温かい匂いに満ちている。
リビングに通されると、湊の母である渚(なぎさ)が「依都くん、いらっしゃい!」とエプロン姿で出迎えてくれた。
「あら、また痩せた? ちゃんと食べなきゃ駄目よ。ほら、たくさん作ったからね」
渚は、依都の体のことに深くは踏み込まない。ただ、当たり前のように、湊と同じ量か、それ以上のシチューを皿によそってくれる。具材がごろごろと入った、湯気の立つクリームシチュー。スプーンですくって口に運ぶと、優しいミルクの味が口いっぱいに広がった。冷え切った体の芯から、じんわりと温まっていくのがわかる。
「依都、おかわりあるからな」
「湊、あなたも食べなさい。依都くんのばっかり見てないで」
「うっせ、わかってるよ!」
食卓を囲む他愛のない会話。テレビから流れるバラエティ番組の笑い声。依都の家にはない、ごく当たり前の「家族」の風景が、そこにはあった。朱音とまひるも、まるで自分の家のようにくつろいでいる。
これが、彼らの日常だった。依都の腹が空いているだろう日を予測して、誰かの家に集まる。それは、彼らが依都を守るために編み出した、暗黙のルールだった。
渚は、依都が着ていた制服のシャツの袖口が少しほつれているのを見つけると、「あら、ちょっと貸してごらん」と言って、慣れた手つきで裁縫箱を取り出し、あっという間に縫い直してくれた。
「ついでだから、洗濯もしとくわね。乾いたら湊に届けさせるから」
そのさりげない優しさが、依都の胸を締め付ける。感謝と同時に、強い罪悪感が鎌首をもたげる。
自分のような、価値のない人間が、こんな優しさを受け取っていいのだろうか。彼らの大切な時間を、自分なんかのために使わせてしまっていいのだろうか。
シチューの味も、温かさも、罪悪感というフィルターを通すと、どこか遠いものに感じられた。
白瀬家を出た後、四人はまひるの家が経営するパティスリー『Étoile filante(エトワール・フィラント)』に向かった。星が流れる、という意味の店名。甘く香ばしい匂いが、店の外まで漂っている。
「おー、来たか。依都くん、元気か?」
厨房から顔を出したのは、まひるの父である光軌(こうき)だった。優しい目元がまひるとそっくりだ。彼は依都たちのために、ショーケースには並んでいない、試作品のモンブランタルトを用意してくれていた。
「美味い!」
「栗の風味が濃厚ですね。下のタルト生地もサクサクです」
「んふふ、お父さん、また腕を上げたね!」
三人が口々に感想を言う中、依都は黙々とフォークを進めた。上品な甘さのクリームと、ラム酒の芳醇な香りが鼻に抜ける。美味しい。その感情は確かにあるはずなのに、それを素直に言葉にすることができない。
自分が楽しむことを、心が拒絶しているようだった。
帰り道。街灯がぽつりぽつりと灯り始め、四人の影が長く伸びる。
「そういや依都、さっきの体育で膝すりむいてただろ。ちょっと見せてみろ」
公園のそばで、湊がふと思い出したように言った。依都が制服のズボンの裾を少しめくると、赤黒く血が滲んだ擦り傷が現れた。
「うわ、結構派手にやったな。ちゃんと消毒しないと」
そう言った湊は、ポケットからスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきでカメラを起動し、依都の傷を数枚、撮影した。
「湊……何してるの?」
依都の声に、非難の色が混じったのは無意識だった。自分の怪我を、面白がって撮られているような気がしたからだ。
「あ……いや、これは……その、記録っていうか……」
湊は慌ててスマホをポケットにしまった。その瞳には、いつもの快活さとは違う、険しく、硬質な光が宿っていた。何か目的がある。でも、それを自分には教えてくれない。その事実が、依都の胸に小さな棘のように刺さった。
「湊」
朱音の静かな声が、気まずい空気を断ち切る。それ以上の追及はなく、四人は再び無言で歩き出した。
まひると別れ、湊と別れ、最後に朱音とも家の近くで別れる。
「じゃあ、また明日」
「……うん。また明日」
朱音の姿が見えなくなるまで見送ってから、依都は自分の家へと足を向けた。
朱音の家の前を通り過ぎようとした、その時だった。
カーテンの隙間から漏れるリビングの明かりの中に、二つの人影が見えた。朱音と、彼女の父親である奏(かなで)だ。奏は、街で有名な弁護士だと聞いたことがある。
二人はテーブルを挟んで向かい合い、何やら分厚い本を広げて、神妙な面持ちで話し込んでいる。遠くてよくは見えないが、その本の背表紙には、難しい漢字が並んでいるように見えた。まるで、法律書のようだ。
昼間、湊が撮っていた傷の写真。
そして今、朱音と彼女の父が熱心に読み込んでいる、あの分ATARIMAE。
彼らは、一体何をしようとしているんだろう。
自分に関係があることなのだろうか。
依都の胸に、これまで感じたことのない、小さな、本当に小さな感情の蕾が芽生えた。それは、疑念と、そしてほんの僅かな期待が混じり合った、不思議な感覚だった。
ガチャリ、と自宅のドアを開ける。
シンと静まり返った暗い玄関。リビングから漏れ聞こえてくる、テレビの音と、両親の潜めた話し声。空気が、重い。
灰色の世界に、逆戻りだ。
「……ただいま」
誰に言うでもなく呟いた声は、冷たい空気に吸い込まれて消えた。
返事はない。
靴を脱いでいると、リビングから母・美園が顔を出した。その目は笑っていない。
「依都。どこをほっつき歩いていたの。お父様がお帰りになる前に、夕食の支度くらいしておきなさいって、いつも言ってるでしょう」
やはり、夕食はなかった。
「……ごめんなさい」
「謝って済むことじゃないのよ。本当に、あなたは誰に似たのかしら……使えない子」
吐き捨てるような言葉が、鋭いナイフとなって依都の心を抉る。痛みには慣れている。だから、何も感じない。何も感じないはずだった。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。頭の中に、湊の険しい顔と、朱音の真剣な横顔が交互に浮かんで消える。
彼らが自分のために何かをしてくれているのかもしれない。そんな淡い期待。
だが、その蕾は、すぐに分厚い氷の壁に覆われていく。
期待なんてしてはいけない。希望なんて持てば、それが打ち砕かれた時の絶望が、もっと深くなるだけだ。自分は、この灰色の世界で、息を潜めて生きていくしかないのだ。価値のない、失敗作なのだから。
そう自分に言い聞かせる。
しかし、心の奥底で芽生えた小さな蕾は、消えることなく、確かな存在感を放っていた。
それは、これから始まる長い闘争の、始まりを告げる小さなファンファーレだったのかもしれない。
まだ、その音色に気づく者は、依都本人を含め、誰もいなかった。
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