【鍵】ショートショート集

浅見カフカ

敬愛する星新一先生へのオマージュ


鍵は開いていた。

差し込んだ鍵は何の抵抗もなく回り、薄っすらと抱いていた不安を増殖させる。

その不安を振り払うように強くドアを開けた先には絶望があった。

いや、正確には何も無かった。

昨日まであったオフィス家具も電話も、そして何より信頼していた友人の姿も全て無くなっていた。


取引先で偶然再会したのは学生時代の友人だった。

仕事に行き詰まっていた僕は彼の話す独立の話に乗って共同経営で事業を起す決意をした。

1ヶ月の準備期間。

いよいよ来週から開業の予定だった。

資本金として1千万円。

僕は貯蓄の全てを彼に預けた。

それが昨日の話。

その晩に開業の前祝いをしたいと思い、彼に電話をしたが繋がらなかった。


そして今、僕は全てを失っていた。

抑えようの無い怒りに鍵を持つ手を握り締めた。

手のひらに食い込んだ鍵から血が伝い落ちる。

力の限りに投げつけた鍵は乾いた金属音を部屋に残して床に跳ねるだけだった。


我を忘れる程の怒りを抱いていた時は良かった。

怒りの次に来た感情は不安と後悔。

仕事も辞め、蓄えも失い、友人も失った。

何も無い部屋にあった唯一が絶望だった。


何処をどう歩いたのだろうか。

真夏の陽射しの照り返すアスファルト。

夢遊病者のようにゆらゆらと歩く僕の姿はきっと陽炎のように映っただろう。

僕が今、この街をゆく人達の群れや建ち並ぶビルが蜃気楼のように見えているのと同じく。

だが時おり疼く手のひらの傷が「全て現実なのだ」と僕に囁いていた。


そうして現実に引き戻された時、視線の先にホームレスの姿が映った。

暑さを避けるようにビルとビルの隙間の日陰に腰をおろしていた。

伸びきった髪と髭。

服なのか布なのか分からないものを着て、露出した腕と脚は細く痩せこけて汚れて黒ずんでいた。


どうしてか分からない。

いや、本当は分かっている。

僕はそのホームレスの前に立った。

ホームレスは何も言わず黙って僕を見上げている。

僕も何も言わずに財布を取り出すと、それごとホームレスの前に置いた。

数千円の中身しか無いが、このホームレスのしばらくの糧になるだろう。

僕には必要の無いものだ。

僕はそのまま目の前のビルに入ると階段を登った。


幸か不幸か屋上へのドアは開いていた。

「ここの鍵も開いているんだ」

自嘲するように独り言を言うとまっすぐに屋上の縁へ向かった。

背の低い柵に手を掛けた時、背中で声がした。


振り向くとさっきのホームレスだった。

「これは何のつもりだ?」

僕は一瞬何を言われているか分からなかった。

こういう時は「バカな真似はよせ」とか「早まるな」とか「悩みがあるなら相談に乗る」とか言われるのが普通な筈だ。

いや、それもドラマとかの話だから、初めての飛び降りをする僕が普通とか言うのはおかしいのかもしれない。


僕が何をどう答えて良いか言葉を見つけられずに戸惑っている間にホームレスは目の前に詰めていた。

そして財布を差し出し「これは何のつもりだ?」と再び言った。

「俺はホームレスだが乞食ではない。アンタに金を恵んで貰ういわれはない」

怒気を含んだ言葉に僕は思わず謝ってしまった。

そして差し出された財布を受け取ろうと手を出すと、今度は財布を引っ込められた。

僕の腕は宙で空回りすると、そのままバランスを崩してホームレスの前に倒れ込んだ。


僕はホームレスを見上げた。

先ほどとは真逆の光景だ。

ホームレスは僕の前にしゃがみ込むと鍵を差し出した。

「俺は乞食ではない。だからアンタにこれを売る」

僕は勢いに押されて鍵を受け取ってしまった。

「これは?」

「鍵だ」

鍵なのは分かる。

「何の鍵でしょうか?」

間の抜けた質問だった。

「知らん。古雑誌を集めるのにゴミ箱を漁っていたら挟まっていた鍵だ。アンタにそれを売る。そしてこれは釣りだ」

ホームレスは再び財布を差し出した。


財布と鍵を受け取って明らかに困っている僕を置いてホームレスは去って行った。

去り際に「合うドアを見つけたら幸せになるかもな」と言葉を残して。

財布を開けると中身は空だった。

僕は鍵を手に屋上を後にした。

もうすっかり死ぬ気は無くなっていた。


試しに屋上のドアに鍵を差してみた。

当たり前だが回らなかった。

我ながらバカだと思ったが、なんだか可笑しくなってきた。


騙されてサラリーマン人生全ての貯金を失って鍵を投げ捨てて、財布の中身の全てを渡して何の鍵か分からない鍵を手にして回るわけ無いのに差し込んでいる。

あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いが込み上げて来た。

笑うとなんだか力が湧いてくる気がした。


この日から僕は鍵穴を見掛ける度に回し始めた。

町中の鍵を回したが結局合う鍵穴は無かった。

様々な町や国へ行って鍵を回す為に新たな職に就いた。

旅費や生活費が無くては鍵穴探しは出来ないからだ。

休日や終業後は鍵穴探しに没頭した。

無用な残業をしないよう、日中は昼休みすら惜しんで働いた。

全てはこの鍵でドアを開ける為だ。


そうしてもう何年も探して来た。

鍵とはなんと奥深いものか。

あのギザギザの山ひとつ違うだけで全く別のもの。

いまだに僕は鍵を開けられずにいた。

会社ではMr.定時のあだ名までついていた。


ある日、僕は社長に呼び出された。

残業をしないことを咎められるのだろうか?

毎年毎年、有給休暇を全て消化して(鍵穴探しの)旅行をしている事を叱られるのだろうか?

クビになってしまうと鍵穴探しは困難になるかもしれない。

僕は暗い気持ちで社長室のドアを叩いた。


結果、ここでの話は僕の鍵穴探しを終了するきっかけとなった。

社長からの話。

これを受けるなら鍵穴探しは諦めなくてはならなかった。


社長室での話に戻そう。


社長は僕を見るなり来客用の応接ソファーに座らせた。

畏まる僕の向かいに腰を下ろした社長はMr.定時のあだ名について口にした。

「君はMr.定時と呼ばれているそうだね」

「はい。お恥ずかしい話、そう呼ばれているようです」

「どうして残業をしないのかね」

社長の口調は至って穏やかだ。

「絶対に残業をしないわけではありませんが、可能な限りは定時の就業時間で全ての仕事を終えるように配分しています」

「なるほど・・・」

社長はそう呟いて少し黙った。

時間にして1、2秒。

『クビだ』

きっとそう言われると思い身を固くして言葉を待った。

「気に入った!」

社長は膝をポンと叩いて笑顔で僕を見ていた。

「残業をしないで全ての業務を終えている君はとても勤勉で有能だ。実は私の娘が君を気に入っているんだ。Mr.定時。どんな奴かと思ってしばらく様子を見ていたんだよ。仕事嫌いなのかと思えばそうではない。定時で帰る為に一生懸命仕事をしている姿を見せてもらった。どうだ、君さえ良ければ娘を貰ってやってはくれんか?」

深々と頭を下げる社長に僕は戸惑いながらも「よろしくお願いします」と答えていた。


結局この鍵に合うドアを見つける事の出来なかった僕は、この鍵に合うドアを作ることにした。

そしてこのドアを玄関のドアにして小さな家を建てた。


【合うドアを見つけたら幸せになるかもな】


あれから数年。

僕は毎日この鍵でドアを開けている。

幸せかだって?


「ただいま」

「おかえりなさい、あなた」

「パパおかえり!」


幸せだよ。



          -了-

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