第6話 WILD HEARTS 復活戦(デモライブ当日)

土曜日の夜、下北沢の裏路地にある


 BAR『MIDNIGHT JIVE』は、吉岡聡が企画した「W.H. 復活戦」の初陣を迎えていた。


吉岡のマーケティング戦略通り、バーに集まったのは、仕事の疲れが滲み出た30代、40代の男女、わずか15人。彼らは、吉岡と同じように、「仕事に殺された時間」を取り戻しに来た、元「WILD HEARTS」の予備軍だった。


 BARの空気と舞台の熱


BARの中は、いつものように照明が極端に暗い。


壁には、色褪せた古いポスターが、まるで青春の亡霊のように貼られている。


カウンターの傷の深さは、夢を追い続けた者の生活感と、この場所が都会の喧騒から逃れた秘密基地であることを強調していた。


 吉岡は、受付と集客の確認を終え、バーの隅でウイスキーグラスを握りしめていた。


 いつものマチカフェのブレンドコーヒーではなく、アルコールの刺激が、彼の緊張感を高めていた。


(妻には「急な出張で、資料作成が長引く」とだけ伝えた。また生返事が増えたことへの、新しい言い訳だ)


 彼の脳裏には、スマホを手放せない妻・佳織の冷めた表情が浮かぶ。自分は情熱を取り戻したが、その代償として、家庭との間に、さらに大きな距離を生み出している。この罪悪感と、久々の熱狂が、吉岡の心の中で激しくせめぎ合っていた。


タケシの魂の演奏


タケシはステージに上がった。


 いつもの色落ちしたTシャツと皮ジャン姿。その手の指先の皮の厚さが、彼が長年ギターを弾き続けてきた証拠だった。


彼はマイクを握り、まず自嘲的なユーモアを見せた。


「ようこそ、負け犬どもの再集合場所へ。『MIDNIGHT JIVE』だ。俺たちは、あの頃世界を変えるとか思ってたバカなガキだった。現実は…ほら、こんなバーのマスターだ。お前らも、土曜日の夜に、家に帰らずこんな暗い店に来て、何をしたいんだ?」


観客から、小さく笑いが漏れる。


それは、「でも現実は」という諦めの言葉を、あえて口に出して笑い飛ばす、一種の共感だった。


だが、演奏が始まると、タケシの眼差しは一変した。


 それは、吉岡がオフィスで企画書を見つけたときと同じ、真剣な眼差し。夢を現実と折り合いをつけながら生きる、大人の「WILD HEARTS」像が、ギターの音色となって空間に響き渡る。


 タケシは、自分たちが1998年に作ろうとした曲を、今の感情で再構築して歌った。彼の歌声は、吉岡の心に刺さる。


(そうだ。俺たちが欲しかったのは、これだ。あの頃、ただの格好いい情景だった佐野元春の歌詞が、今は俺自身の現実だ。そして、タケシの音楽は、その現実をぶち壊そうとしている)


達成感と後ろめたさ


 ライブが終わったとき、吉岡の身体には、数年ぶりに、深く満たされた達成感が残っていた。


 観客の何人かは、涙ぐんでいた。彼らが求めていたのは、単なるノスタルジーではなく、「まだやれる」という、魂の再燃だった。


「やったな、タケシ」


タケシは汗だくの顔で、吉岡とグラスを合わせた。


「ああ。お前の企画、悪くなかったぜ。次はもっとでかいところでやるぞ」


吉岡は興奮のあまり、日付が変わるまでタケシと語り合った。


 家に帰り着いたのは、深夜の3時


リビングは真っ暗だった。


吉岡は、静かに寝室の扉を開ける。妻の佳織は、背を向けて寝ていた。枕元の充電器には、スマホが接続されている。


 自分のスマホを取り出し、娘のLINEの通知を開いた。またしても、デモライブの熱狂に夢中になり、既読スルーしてしまっていた。


(俺は、この情熱を、どこまで犠牲にして手に入れているんだろう?)


 初めて自分の情熱と向き合い、自分に戻れる時間を見つけた喜びと、家庭への言いようのない後ろめたさが、吉岡の胸で同時に膨らんでいた。


深まる軋轢と亀裂


デモライブ「W.H. 復活戦」の成功後、吉岡聡の日常は一変した。彼の情熱は、古い企画書WILD_HEARTS_PROJ_98.docのように、再び熱を持ち始めた。


「自分に戻れる時間」の代償


吉岡は、次のライブに向けて、仕事のスキルをプロジェクトに注ぎ込んだ。


昼間のオフィスでは、隣の同僚の私物(家族写真など)を横目に、本業の資料制作をこなしつつ、タケシとの連絡やマーケティングデータを仕込む。

夜は、家族が寝静まった後にリビングで、企画書を磨き込んだり、タケシと電話で熱い議論を交わしたりした。これが、彼にとって唯一の「自分に戻れる時間」だった。

この新しい熱意は、会社では「最近、吉岡は調子がいい」と評価され始めたが、家庭内では決定的な軋轢を生んでいた。


  佳織との決定的な衝突

ある週末の午後


 吉岡は、タケシと次のライブの会場候補を回るため、急いで身支度をしていた。リビングでは、妻の佳織が、小学生の娘に宿題を教えている。佳織の手元には、やはりスマートフォンが置かれていた。


「聡、今日、娘と約束してたわよね? 公園に行くって」


佳織は、スマホから目を離さず、淡々とした口調で言った。


「ああ、悪い。急に会社から連絡が入って。重要な取引先の接待だ。生返事するつもりはないが、今回はどうしても外せない」


吉岡の言葉は、以前の「ATM化」した無気力な言い訳とは違い、明確な目的と熱を帯びていた。しかし、その「熱意」は、佳織にとって、自分たちへの「無関心」でしかなかった。


 佳織は、静かにスマホをテーブルに置いた。その冷めた表情が、吉岡の心に刺さる。


「接待? 土曜日の午後に、そんな急に入る接待が、この数週間で何度あったの?」佳織の声は、静かすぎて逆に恐ろしかった。「あなたの『重要な仕事』は、私たちとの約束よりも優先されるのね」


「佳織、違う!これは…」


「違うって何が? 私たちは、あなたの『うん』『わかった』と、毎月の入金データだけがあればいいんでしょう?」


 佳織の言葉は、吉岡が抱えていた「ATM化している」という内面の葛藤を、最も鋭利な形で突きつけた。


「私はあなたの感情や苦労を知りたいと思った。でも、あなたは私たちとの会話を『生返事』で打ち消し、自分の時間がないと無気力になって、そして今、やっと熱中できるものを見つけた。…でも、その『熱中』も、また私たちから時間を奪うものなのね」


 佳織の瞳には、家族なのに他人に感じてしまう憤り、そして深い諦めが滲んでいた。

娘は、二人の間に漂う重い空気を察し、静かに目を伏せていた。


 吉岡は、その娘の表情を見て、LINEを既読スルーする罪悪感以上の、決定的な罪を犯したことを悟った。


 家族崩壊の危機


結局、吉岡はタケシとの約束を優先し、家を出た。社用車に乗り込み、首都高速に向かう。


土曜日の午後


 高層ビルの間に沈む夕日が、テールランプを赤く照らし出す光景は、以前と同じ都会の「美しさ」と「孤独」だったが、今は吉岡自身の家庭の亀裂を映しているように見えた。


(俺は、自分の人生を取り戻そうとして、家族の人生を壊しているんじゃないのか?)


 新しい情熱と、家族を失うかもしれないという恐怖。吉岡の心の中で、情熱と現実のバランスが崩壊した。


このままでは、彼は


「仕事に殺された時間」を取り戻すどころか、


「家族に殺された時間」を、永遠に後悔として背負うことになる。


タケシのBARへ向かう道すがら、擦り切れたカセットテープを連想した。

ノスタルジーと現在の効率のギャップ。今の彼は、過去の熱狂を取り戻そうと必死だが、それは、現在の家族という最も大切なものを、音質が悪すぎるからとすぐに止めてしまうように、捨て去ろうとしているのではないか。


ハンドルを握る手を固く握りしめた。


今、「WILD HEARTS PROJECT」の成功か、家庭の修復か、という究極の選択を迫られていた。



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