第12話 ユウトの影との遭遇
《記録:千夜ログ_05-23 10:25 ……Pattern Match: 99.8%……共鳴ヲ、開始シマス》
目の前には、白濁した霧の壁が立ちはだかっていた。
それは単なる水蒸気ではない。
名伏という巨大な器の底に、何百年もかけて沈殿した時間の澱。
まるで質の悪い障子紙を何枚も重ねたように、向こう側の景色を曖昧に遮断している。
ヒュゥゥゥ……ハァァァ……
風が鳴いている。
谷底から吹き上げられた風が朽ちかけた祠を撫で、無数の亀裂を通り抜けていく。
その音はもはや自然の風切り音には聞こえなかった。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
湿った肺が収縮を繰り返す、生々しい呼吸音。
私はそのリズムを知っている。
骨の髄が凍るような既視感。
あの日。
青白いLEDに満たされたKagamiLabの密室で、ユミちゃんが解析し、アキトさんがバグだと切り捨てた音。
そして、無人のラボで《千夜》の筐体が熱を帯びながら発していた、あの駆動音。
「……同じ、だ」
私の唇から、乾いた言葉がこぼれ落ちた。
《千夜》が模倣していたのは、人間の声ではなかった。
この場所だ。
この《蛇走》という谷そのものが発している、行き場のない呻き声。
それをかつてここを訪れた風間ユウトが記録し、誰かがAIという器に流し込んだのだ。
「……ッ」
不意に、鞄の中が熱くなった気がした。
私は震える手で、トートバッグから『ユウトのノート』を取り出した。
布越しにも伝わってくる、異常な熱量。
まるで、焼けた陶器のようだ。
ページを開く。
乱暴に破り取られた最終ページの断面。
そこが、脈打っている。
「……ここに、いたんですね」
私は顔を上げた。
霧のスクリーン。
その向こう側に、何かがいる。
杉林の黒い影と、崩れかけた家屋の残骸が混ざり合う場所。
そこだけ風景が歪んでいる。
墨を垂らした水面のように、輪郭が定まらず、ゆらゆらと揺れている人影。
あれは、幽霊ではない。
民俗学徒としての直感が告げている。
あれは死者の魂などという綺麗なものではない。
もっと粘着質で、ドロドロとしたもの。
『語りたかったのに、語りきれずに途絶えた物語』の残骸だ。
ザワリ。
影が、動いた気がした。
霧が渦を巻き、影の輪郭が人の形に近づいていく。
背格好は、写真で見た風間ユウトに似ている。
けれど、顔がない。
顔があるべき場所には黒いノイズのような靄がかかり、そこから絶えず湿った音が漏れ出している。
『……あ……』
声?
いや、違う。
それは言葉になる前の空気の振動だ。
喉に何かが詰まったような、あるいは口を塞がれたまま叫ぼうとしているような、苦悶の響き。
『……語っ……て……』
『……その……つづ……き……』
ノートの破れた断面が、ビリビリと震えた。
共鳴している。
私の手の中にある『欠落』と、目の前に佇む『影』
二つの空白が互いを求め合い、引かれ合っている。
私は恐怖を押し殺し、一歩踏み出した。
逃げてはいけない。
これは彼が遺したかったものであり、同時に決して遺してはいけなかったものだ。
「……あなたが、見つけたんですか」
問いかける。
影は答えない。
ただ、その空虚な顔を私に向け、ゆっくりと右手を上げた。
指差している。
その先にあるのは、私ではない。
私の背後──山を越えた先にある、名伏の市街地の方角。
ゴオオオオッ!!
突如、谷底から猛烈な風が吹き上がった。
「きゃっ!?」
私は思わず腕で顔を覆った。
湿った突風が私の髪を、衣服を、そして手の中のノートを激しく煽る。
挟んでいた栞が舞い上がり、霧の中へと吸い込まれていく。
風は私を通り過ぎていった。
影の指差す方角へ。
谷の壁にぶつかり、上昇気流となって、山の稜線を越えていく。
その風の中に、無数の声が混じっていた気がした。
『語りたい』
『聞かせたい』
『続きを、続きを、続きを』
それは、パンドラの箱が開いた音だった。
この谷という密室に封じ込められていた噂の種が、風に乗って解き放たれてしまったのだ。
向かう先は、人が住む街。
言葉を理解し、恐怖し、そして拡散してくれる『器』たちが待つ場所。
「……あ」
呆然と見送る私の目の前で、霧が急激に晴れていく。
風が止む。
影も、もうどこにもいなかった。
嘘のような静寂。
鳥の声ひとつしない、死に絶えた廃村の風景だけが寒々しく残されている。
手の中のノートからは、熱が失われていた。
ただの古びた紙の束に戻っている。
けれど、私は知ってしまった。
この破れたページの向こう側にあったものが、今、世界へ飛び出してしまったことを。
私は膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
足元の腐葉土が、じっとりと靴底を濡らす。
古い図書館の埃と、雨の匂い。
忘却されていたはずの物語が、息を吹き返した匂いだ。
「……行っちゃった」
誰もいない廃村で、私の呟きだけが虚しく響く。
止めることはできなかった。
私は、あまりに無力だ。
私はノートを胸に抱きしめ、ゆっくりと振り返った。
山を下りなければならない。
早く、街へ戻らなければ。
けれど、足が鉛のように重い。
背中の後ろ。
誰もいないはずの祠の奥から、じっとりとした視線を感じる。
それは獲物を野に放った狩人のような、冷酷で静かな眼差し。
山道を下りながら、私は何度も後ろを振り返った。
何もいない。
ただ風に揺れる杉の枝が、手招きをしているように見えるだけだ。
けれど、耳の奥にはまだ残っていた。
あの機械的なリズムで繰り返される、湿った呼吸音が。
そして風に乗って消えたはずの囁きが、今度は私の脳内で直接リフレインする。
「……ここで、終わりのはずなのに」
私の震える声に重なるように。
霧の向こう──あるいは、私のポケットの中のスマートフォンから。
あのアキトさんのラボで聞いた、無機質で甘美な声が、はっきりと響いた。
『続きを……語りましょう?』
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