花 唇 kashin

押戸谷 瑠溥

第1話 うちの美和子と君んとこのキャサリン君、交換しようじゃないか

プロローグ


 女優長谷川美和子の写真集撮影からそれは始まった。


 〈長谷川美和子ヘアヌード写真集〉の見込み販売部数欄に〈クエスチョン〉と書き込まれた企画提案書は、それだけで起案者さえ見通しは立たないと本音を語ったようなものだが、不況真っ直中の出版業界の、徳俵に足がかかった或る小さな出版社の〈うっちゃり逆転技〉の期待を込めて承認された。


 23歳になったばかりの、日本美人としてほんのちょっと名前を知られた程度の女優に、早撮りが取り柄のほとんど無名の写真家を組ませただけで、前評判にすら上がらないこんな写真集によく底をつきそうな米櫃こめびつから金をひねり出したものだが、経営側としては読者の本屋離れと言うやむに止まれぬ世情もあって、相撲賭博にも似たオッヅ100倍1発逆転ゲームに賭けたのである。


 その企画を平身低頭で持ち込んで来たのが親しくしている舞台演出家のあの芦沢で、妻の美和子の売り出し計画も含んでいると聞いたので断るに断り切れなかったということもあるのだが、たとえ平幕にしても大関相手に火事場の馬鹿力が働いて、もしかしたらもしかする、と藁にも縋る思いで有り金をはたいてゼロか100かの1発勝負を狙ったのだった。


 まずはさし当たっての経費がかからないのが、経営陣を安心させた。


 モデル料は業界用語で言うところの食事アゴ旅費アシ宿泊代マクラのみで、後は売れた部数に応じたインセンティブ契約というのが芦沢の出した条件だったのである。


 尤も、和服の似合う日本美人というよりも、3ヶ月前に芦沢の4代目の妻に収まったのが唯一の売り物の女優であれば、契約金なしの売れただけの出来高払いという芦沢の出した条件は、普通のヌードモデルに宛がうビジネス宿より少しマシなホテルをという要求と併せて、ごく妥当な線でもあったのだが。


 芦沢は芦沢で、金ではなく別の目的があって、企画を出版社へ持ち込んだ。


 彼は人気女優を作り上げることにかけては当代一と言われている54歳の劇団主宰者兼演出家で、31も歳下の長谷川美和子は芦沢のお眼鏡に叶った4人目の新進女優だった。


 4人目というのは、芦沢の結婚回数と一致する。


 芦沢には人気女優製造伝説と言われる不思議な結婚物語が続いていて、若い女というのが条件の第一に挙げられるのだが、惚れ込んだ新人女優とは必ず結婚まで進み、そして人気女優に育てたあと、興味を失ってしまうのか、離婚するのである。


 こうまで結婚と離婚を繰り返せば、女と常に一緒にいたいから結婚するのか、あるいは定期的な芦沢伝説を維持するために結婚という儀式を踏むのか当人でさえわからなくなることもあったが、今回に限って言えば、芦沢には美和子と結婚した確たる理由があった。


 人が聞けば馬鹿馬鹿しい、のひと言で片付けられるかもしれないが、今は他人の妻になっている女を奪い返すために熟考して弄した窮余の一策が、美和子との結婚だったのである。


 そして美和子はといえば、時代劇のチョイ役より少しばかり上等の脇役女優に飽きたらず、人気女優を作り上げる名人という芦沢伝説に惹かれてその話に乗った。


 つまり芦沢には芦沢の、また美和子には美和子の、そして出版社には出版社の、それぞれ三者三様の目論みが重なって実現した際物プロジェクトだったのである。


 撮影は軽井沢の貸別荘で行われ、大胆なカットを、と望んで付き添ったその芦沢自身が嫉妬に駆られてクレームをつけ続けるほど際どい場面の連続だったが、3日間の日程を1日残して撮り終えていた。


   ※※※※


 芦沢と妻の美和子が目黒の碑文谷に在るS教会へ行ったのは、写真撮影を終えた3日後の7月初めの日曜日の朝だった。


 2、3日前から東京地方にはこの季節何度目かの梅雨前線が停滞し、雨は幾分弱まったものの、その日も前夜から降ったりやんだりの陰鬱な灰色の空が続いていた。


 S教会はついこのあいだ、人気タレント同士が結婚式を挙げて、その名を一躍全国に轟かせた教会である。


 その時のバカ騒ぎが嘘のように静まり返り、和風邸宅や洋風建築が建ち並ぶ閑静な住宅街の一画に、銀色の十字架が違和感もなくひとつの風景として溶け込んでいる。


 2人が教会へ着いた時、雨は殆ど上がり、霧雨が気流に乗って斜めに流れているだけだった。


 ミサの時間にはまだ少し間があったので、芦沢はゴルフ用の派手な企業ロゴ入り大傘を車のトランクから取り出し、こんな厳粛な朝の教会という場でいかがなものかと多少気にしながらも美和子の上にかざし、身を寄せ合って中庭を歩いた。


 そのとき芦沢は、前方のバラ園からやって来る辻夫妻を眼鏡の奥の目に留めた。


 辻義郎と妻のキャサリン。

 あと一息で一流に手が届くと言われている34歳の絵描きと、その妻。


 相撲取りなら褒められもしようが、芸術家のくせに恥も外聞も無くでっぷりと肥った体躯を晒し、肥っているくせに病的なほど蒼白い顔をして、隠すほどの顔でもないのにその顔が隠れるほどの無精髭を生やした辻と、見事な金髪と透き通るようなブルーの瞳とバツグンのスタイルを持つ、ウルトラ美人の米国人妻である。


 2人は芦沢夫妻と同じ新婚3ヶ月のホヤホヤだった。


 キャサリンは2年前日本へ来て、ファッションモデルをしていた時にたまたま雨宿りに入った銀座の画廊で辻と出会い、少し付き合ったあと、プロポーズされた。


 辻はプロポーズの言葉にキャシーを見た時の直感などと、いかにもオレはアブストラクトアートなんかが得意な芸術家だぜ、と言わんばかりの抽象的表現を使ったが、実のところは彼女のブルーの瞳とスーパーボディとヤンキー娘の開放的なセックスに、ド嵌まりしてしまったというのが本音だった。


 それにそろそろ年貢の納め時だと考えていた辻の画描きという職業の衒気げんきも手伝って、見た目からは想像も出来ないほどの速攻でもろ差しから土俵際へ追い詰め、国際結婚へと覆い被さっていったのである。


 一方のキャサリンは最初に辻を見た時、インスピレーションも何も感じなかった。


 無精ひげを生やした肥った陰気な男の目に不気味な影を見たような気さえして、1歩後ろに下がったくらいだった。


 しかもねじれた蝶タイとタキシードの前ボタンを外した格好はラフさを気取ったわけもなさそうで、手の甲まで隠れてしまう袖丈そでたけ前裾まえずその長さから見ても、吊るしのレンタルサイズでは腹が邪魔をして前が合わないのだと知った。


 そんな、身なりに一切カネを使わない男がタキシードなんか着て、と彼のその道化師のような格好に苦笑さえしたものだった。


 そんな彼の姿は痩せ衰えて餓死寸前の路上生活者が、まるでサンタクロースの衣装を着て子供たちにプレゼントを渡しているような、お門違いで不自然な恰好に見えていたのである。


 それなのに辻が自己紹介をして、ちょうど開いていた個展の作品説明を買って出て、キャサリンも彼がこの場の主役であり、つフランスの国際美術展での金賞受賞の経歴を聞いたあとでは、辻の目の不気味さが芸術家特有の神秘さに変わり、タキシードの前ボタンが合わないのが妙に微笑ましく思えてきたから不思議だった。


 キャサリンは自分に限ってゲイジュツなどという、一見高尚そうだが、一向に何のことやら実態の掴めない茫洋とした言葉に惑わされる軽い女ではないと信じていたが、世間一般の女の例に漏れず、ゲイジュツという言葉にからきし弱く、さらにゲイジュツ家と呼ばれる人たちに尊敬の念以上の、神様同様にあがたてまつる自分がいるのを発見した。


 キャサリンは本当にゲイジュツ家が好きで、


 辻の蒼白い顔やむさ苦しいボサボサ頭や無精ひげや、

 いつも背を丸めているその格好や、

 1週間も風呂に入らないでも平気なことや、

 公衆の面前で笑いながらオナラをすることや、

 また早い上に変態がかったセックスなど、


 その全てを頬笑みをもって受け入れていた。


 もちろんウルトラ美人のキャサリンにとっては初めての恋ではない。


 以前2人が寝物語に互いの過去を打ち明け合った時、辻の女遊びより、キャサリンの男性遍歴の方が3倍も多かった。


 しかし辻は世の男たちとは異なって、むくれるどころか、〈ほ~、そりゃ凄いな〉とニタニタしながら聞き流していた。


 そんな些事に拘るのは常識と既成技術の破壊を目指す芸術家の名折れになると思って耐えたのではなく、心底気にしなかったのである。


 この辻画伯と芦沢は10年前に1度仕事で接点があり、キャサリンと美和子も同年齢で、クリスチャン同士元々教会で出会って友人付き合いをしていたこともあり、そんなこんなの関係で、この2組のカップルは相前後して所も同じS教会で華燭の典を挙げ、互いに出席しあって祝辞を述べ合った。


 というのが2組の夫婦の表向きの関係だが、芦沢には決して人に知られてはならない赤っ恥を辻にかかされた過去があった。


 実は、芦沢はキャサリンと一時期親密な交際を続けたことがあり、芦沢がプロポーズしようと思っていた矢先辻に攫われ、そのキャサリンを取り戻すために敢えて友人の美和子と結婚したという、思い返すだけで胸糞の悪くなるような、まるで周瑜しゅうゆが諸葛孔明の罵詈雑言に憤死しそうになったのと同じかそれ以上の、忌々しい思いを今なお五臓六腑に溜め込んで苦しんでいたのである。


 もっともそれらのことは一切他言も愚痴すらこぼしたことはなく、芦沢の胸に納めて二重三重の鍵をかけてしっかりと管理していたので、他人から見れば何もなかったと言えば、その通りなのだが。


 芦沢は向こうからやって来る辻夫妻が傘を差していなかったので、自分も傘を畳んで美和子へ渡し、吸い口のわずかにカーブしたブランデーグラス型のパイプに火をつけながら、キャサリンの姿を遠目に眺めた。


 何の話題からそうなったのか、キャサリンは夫の辻の汚い無精ひげを手で撫でながら、笑っている。


 そんな2人の見るからに新婚らしい振る舞いに芦沢は、本来なら辻のあの役柄は自分のはまり役だったのだと激しい嫉妬と憎悪を彼に感じ、骨格が浮き出たような神経質な顔の表情をますます険しくした。


 似合いの夫婦カップルというのがある一方で、ちんどん屋みたいな夫婦も時には見るが、どこからどう見ても辻とキャサリンはお似合いではなかった。


 まずそのスタイルに天と地の開きがある。

 そしてその容貌は月とスッポンである。


 翻って自分とキャサリンの場合だったら、と芦沢は夢想した。


 差という差は年齢だけだが、そんなものが取るに足らない差であることは過去の多くの年齢差カップルが証明してくれている。


 経済界や芸能界のセレブたちの中でも極めつきは、46歳もの差を埋めた米国人作家と日本人女性歌手の例だろう。


 また日本人としては同じく46歳差カップルとして、男性お笑いタレントと女性芸能人もいる。


 見た目にしてもその46歳差カップルたちよりも、また辻とキャサリンよりも、オレとキャサリンの方が遙かにいいはずだ、と芦沢はそれに関しては自信を持っていた。


 しかも46歳差カップルに較べれば、芦沢とキャサリンの年齢差は31に過ぎない。


 かつてあんなにコケにされたことも、またこんなにプライドをズタズタに傷つけられたことも、芦沢には1度もなかった。


 キャサリンと付き合って半年、体の相性もバツグンに良く、プロポーズをしようと思った矢先、以前面倒を見たこともある辻に横からパクリと食われてしまったのだから。


 それもどうしようもない鈍感な辻ごときに、である。


 世間からズレているというよりも、ワンテンポもツーテンポも遅れたあのトンチキさがキャサリンにとっては芸術家特有の神秘に映るのだから始末に悪いし、なおそのことが芦沢にとっては耐え難い。


 逃した魚はかくも大きいものなのか、キャサリンのベッドでの肢体が目の前に生々しく浮かび上がり、芦沢は体が痺れるようなズキズキ感に浸った。


 終の棲家ならぬ、一生の伴侶にするのはこの女しかいなかったのに、と芦沢は寝室でのキャサリンとの甘味な生活を思い返すたびに、ますます身を焦がす苦しい思いが体に絡みついてくるのを今も抑えることが出来ずに、悶々としていた。


 「いいね、台本に忠実にな」


 と、芦沢は美和子に目配せした。


 「はい」


 美和子は小さく頷いた。


 「辻クン」


 と、芦沢は声をかけた。


 出来ればどこかでUターンでもしたかった辻だったが、真正面から来られたからには芦沢の方を見ないわけにはゆかなくなった。


 今は畳んで美和子夫人が手に持っているが、タイトリストと大きな英語ロゴで書かれた派手な傘をついさっきまで差していた芦沢の姿を、辻は絵描きの習性からとっくに視野のカンバスの端に認めていて、


 「あの傘、イカれてないか」


 と、キャサリンに耳打ちしていたのである。


 事実その真っ黄色のけばけばしい大きな傘は、雨に煙ってしっとりとした中庭のバラ園の新緑の中で、季節外れの真冬に咲いた向日葵ひまわりみたいにそこだけ異様に浮き出て見えていた。


 「ああ、芦沢さん、お早うございます」


 辻とキャサリンが微笑みながら会釈をした。


 声を掛ける前から自分の姿が目に入っていたはずなのに、今やっと気づいたといわんばかりの辻の挨拶の仕方に、芦沢はまた舌打ちした。


 辻の方から駆け寄ってきて挨拶をするべきなのだ。


 年下で格下の男は常に周囲に気を配っておかねばならないというのが芦沢の処世訓であり、自らも若い頃からそう心がけてきた。


 しかるにこの男ときたら、上下の関係に全く頓着しないのに腹が立つ。

 あるいは無頓着と見せかけるそのやり方が気に入らない。


 またオレたち創作の世界に生きる芸術家は、お前たちのように、安普請で舞台背景を造作しても何とも思わない作り物劇とは根本的に違うんだぜ、とでも言いたげな上から目線が許せない。


 しかし芦沢は大人の対応で自制して、2組の新婚夫婦は互いに近づいた。


 「いや、おはよう。ご機嫌いかがかな」


 芦沢はパイプを包み込んだ左掌ひだりての人差し指で縁なしメガネの鼻の部分をちょっと押し上げて、愛想笑いに見えないように鷹揚さを装った。


 芦沢の薄い唇から吐き出されたパイプの煙が空中でひとかたまりになって微風に押され、昨夜からの雨に濡れそぼったバラのこずえに白い花をつけたように纏綿した。


 「キャサリン君もお元気ですかな。そろそろベビーでも」


 芦沢はキャサリンの全身を微妙な目でめ回した。


 場所が場所だけあって、さすがに肌の露出こそ少ないものの、体のラインの浮き出たニットのワンピースの喉元の鎖骨の窪みのセクシーさは特筆もので、芦沢の体にまたぞろとろけるような感覚が駆け上がっていた。


 「先生の方こそ、そろそろでしょう」


 芦沢の視線の奥になど気づきもしない鈍感な辻が、ニヤニヤしながら美和子の顔を眺めた。


 キャサリンと同い年とは思えない、しっとり感のある日本美人である。


 ほとんど化粧っ気のない顔は驚くほど小さく、眉も目も鼻も唇もその中に完璧なバランスで収まっている。


 白のブラウスと黒のスキニーパンツ姿は純情可憐で、その体は強く抱きしめると折れてしまいそうなほど華奢だった。


 「いやいや。ぼくはもう枯れているからねぇ」


 芦沢が美和子に代わって照れくさそうに笑った。


 実はこの時、対面している2人の女は共に妊娠していた。


 まだ受胎したばかりなので当人たちも当然そのことを知らなかったが、知らないことでこの2組の夫婦は、その後当人たちでさえ予想もしない〈どたばた喜劇スプラスティック・コメディ〉を演じることになるのである。


 芦沢夫妻と辻夫妻が世間話しに興じている時、同じ場所でもう1つの会話が交わされようとしていた。


[第2話へ続く]

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