禁忌魔法:ウイルス魔法について

 前皇歴一五年、前紀世界歴一九七四年。


 セレニティはリャン国とエヴィスィング国の領土を巡り、ヴィントラント、清中王国、ゼムルヤ・スネガと戦争を始めていた。



 羽音が、世界の静寂を縫い裂いてゆく。

 布を破るような細い音は、耳ではなく、皮膚を這う冷気となって忍び込む。

 だが、それを美しいと感じるのは彼ひとり。

 羽は一定の拍を刻む。魔力の流れと、詠唱の律動を。

 人々はもはや魔法を操れず、この世界は原初へと還った。

 もう歌えない。

 歌えば、その声を合図に、彼らが食むからだ。



 アロ・カンパニュラという青年は、セレニティの魔法研究所に所属する研究者だった。

 セレニティは世界で唯一、禁忌魔法である“放射線魔法”、“魔法刻印”、“生体ウイルス魔法”を軍事利用する国であった。

 しかしながら、その魔法も使用できるのは上位捜査官と金タグの中でも上位の者のみである。


 そのような貴重な魔法を研究できるという事実に、アロは歓喜した。

 そして、そこで生体実験に使われる少年に出会ったのだ。

 砂塵に負けぬ光を宿す空色の大きな瞳。栄養不足で華奢な体に似合わぬ、獣のような勝気さ。スナネズミ獣人の大きな耳。

 その矛盾が、アロの物欲を、知識欲を刺激するのは当然のことだった。

 彼が欲しい。手に入れたい。

 否、自らの手で、殺したい。

 そう考えたアロは、彼を最も美しく殺せるウイルス魔法を研究し始めた。


 セレニティは、その時すでに、人の脳を食い荒らす寄生虫魔法や、戦場に投じるための生物兵器を密かに育てている。そんな噂がまことしやかに流れていたのだ。

 アロは、その禁忌の扉を迷わず叩いた。


 研究所の研究員は露骨に顔を歪める。

 まだ年若い研究員が来訪したなど、あり得ない不審であった。嫌悪すら滲む表情にも、アロは怯むことすらない。

 それはそうだろう。後暗い研究をしている施設に、名前すら聞いた事のない研究員がやってくるのだ。

 万が一にも、不都合なものを見られたとして、物理的に消すこともできない。


 しかし、アロは彼らに、より一層の飛躍を与えに来たのだ。


「きっと、あなたたちは私の持つ知識を欲するだろう」


 アロのその言葉を、けれど研究員は鼻で笑った。


「学生の思い付きで、我々の研究が進むと思うか?」


 美しい亜麻色の髪を顎で切り揃えた彼は静かに、机にノートを置いた。

 ノートに並んだ数式は、ただの理論ではなかった。

 ウイルスと魔力の流れを幾何学のように結びつけ、まるで詩か譜面かのように描かれていた。

 研究員の顔色が揺らぐ。

 ノートに触れる研究員の指先が、僅かに震える。


「君……これは、どうやって」


 アロは微笑み、詠うように囁く。


「あなた方が夢見る兵器は、既にここにある。

 ウイルスの餌を、魔力にすれば良い。

 この世界に、一滴の魔力すら持たぬ者は……存在しないのだから」


 研究員は喉を鳴らし、その代価に気付かぬままノートを受け取った。

 その瞬間、彼らは、もう取り返しのつかない契約を結んでいたのだ。

 アロは、静かに告げた。


「私は、世界が沈黙してもいい。私の願いが叶うのならば」


 研究員の沈黙は、ひどく長かった。

 一〇分。一五分。

 ……ようやく色の悪い唇が開き、嗄れた声が研究所の清潔な床に落ちる。

 その吐息は、まるで死体の呼気のように重く、敗北の匂いを帯びていた。


「分かった……君に、協力してもらおう。君の知識が本物ならば、世界は変わる」


 アロは微笑んだ。その微笑みは、聖人のもののように、研究員は錯覚した。


「世界が変わる? いいや、変えるのさ。

 私と彼だけが残る、美しい世界へ。

 あなた方にとっては研究。

 しかし、私にとってこれは……愛の証明なのだから」


 アロの脳裏にはただ一人、少年の笑顔。

 苦境にあっても弱音を吐かず、懸命に生きる小さな獣。


“ああ、レニー。私のレニー。

 もうすぐ君の絶望が訪れる。

 その泣き声も、歪む瞳も、すべて私だけのものになる。

 ……それこそが、私の愛の証明だ”


 彼の囁きは、夢見る聖句のように甘く、研究室の冷気を震わせた。

 だが誰一人、その言葉を理解する者はいなかった。



 白衣を着て革手袋を着けた研究員たちが、万が一にもウイルスを粘膜から摂取しないよう、ゴーグルとマスクを取り付けて慎重に実験を行おうとしている。

 アロから渡されたノートの記述を元に、魔力を染み込ませた培養液を試験管の中へと注ぐ。

 試験管の中で蠢くウイルスが、骨を削るような不快な音を立てた。


 ラットの体に注入されたウイルスは、数分も経たぬうちに反応を示した。

 ラットは痙攣し、喉から黒い液体を吐き出す。液体は血よりも濃く、油のように床にべったりと広がる。

 まるで、コールタールそのもののようだった。


「こ、個体痙攣! 血液の吐出確認しました」


 実験を記録している研究員の言葉が響く。

 瞳孔は大きく開き、呼吸は異様に早くなったかと思えば、突然水槽の壁に何度も頭を打ちつける。


「瞳孔拡大、呼吸異常、異常自傷行動有り」


 やがて、狂ったように水槽を駆け回り、次の瞬間、ラットは仲間のラットに噛みつき、骨の砕ける音が水槽に響いた。


「行動が攻撃的になり、他個体に咬傷。個体に感染確認しました」


 血液が飛び散り、他のラットも次々に苦鳴を上げながら倒れ込む。


「制御できないぞ!」


 研究員たちの声は、恐慌に満ちていた。

 研究員たちは顔を背け、吐き気を堪えながら記録を取る。

 しかし、その中心でただ一人、アロだけが恍惚の笑みを浮かべる。


「ああ……なんと美しい。

 死と生が調和し、生きているのに、死の静寂に支配されていく姿……まさに調和だ」


 囁くようなアロの声に反応する者は、誰もいなかった。

 研究員たちは、この実験結果に「戦場に投じれば素晴らしい兵器になる」と判断をしたらしい。すぐに人体実験を行えるよう、セレニティへ死刑囚を寄越すように申請をしていた。

 そんな彼らに、アロは言う。


「戦場ではない。私の愛のために」


 訂正されたそれに、研究員は「ああ、それでいい」と言うのだ。


 死刑囚は翌週、すぐに研究所へ届いた。彼らは、この実験に協力すれば死刑ではなく、終身刑へと減刑されると言われてやって来たのだ。

 囚人三人は実験台に縛り付けられた。白い蛍光灯の下、顔は死人のように蒼白だった。


「……助かるんだろう。俺は終身刑に、なるんだろ……」


 誰かが掠れた声で呟く。他の二人は答えず、ただ震えながら唇を噛んでいた。

 換気ダクトは目張りされ、逃げ道はない。実験室に解き放たれたウイルスが、魔力を持つ体を察知して蠢き、粘膜から潜り込む。

 ほんの数分で最初の一人が黒い血を吐き出し、縛り付けられた実験台の上に崩れ落ちた。

 五分も経たない内に体が痙攣し、骨が軋む音が実験台を通して響く。筋肉が異様なほど硬直し、縛められた手足が跳ねるたびに革の拘束具が悲鳴を上げた。


「四分五〇秒、体の痙攣確認」


 実験室の外に立っている研究員が淡々と告げる。


「おい! コイツおかしいんだ、診てやってくれ! おい!」


 必死に叫ぶ死刑囚の言葉を聞く者は誰もいない。そこで、彼らは気が付くのだ。これこそが実験の中のひとつであることに。

 体が作り替えられていく苦痛に、断末魔の絶叫が響く。

 魔力が餌となり、コールタール状となった血液が吐き出される。


「五分二二秒、吐血確認」


 その凄惨な光景の中、アロだけが微笑んでいる。


「ああ……美しい。

 生者が死へと変わる、その苦悶すら調和の旋律だ」


 実験台に縛り付けていた拘束具すら引きちぎって、口からボタボタと血液を吐き出した囚人が、床の上でのたうち回っている。

 「助けてくれ!」「ほどいてくれ!」と残された二人の囚人が絶叫する。

 声は恐怖に引き裂かれ、喉は泡を噴き、拘束具を軋ませながら必死に身をよじった。

 だが、革の帯は彼らを冷酷に実験台へ縫い止めていた。


 研究員は、この後に起こるだろう事象を想像し、記録を取りながらも顔を背ける。吐き気を堪える手が震えている。

 強化ガラスの向こうで、三人の死刑囚は黒い血を吐きながらウイルスの苗床となり果てた。


 三人の死刑囚は、黒い血液を吐き出し、目から、耳から、鼻から黒い血液を吹き出し赤黒い便を垂れ流しながら、それでも死ぬことすらできず両手で喉を押さえて苦しみ藻掻いている。

 それに、アロは満足気な笑みを浮かべている。

 実験室の中からは、ただ囚人たちが苦しみ藻掻く音が聞こえてくる。

 ただ、それだけだった。


 研究員は顔を青ざめさせながらも、震える声で記録した。


「……成功、だ」


 実験は成功だったと、このあまりにも非人道的な結果に、恐怖したのだ。

 その中でただ、アロだけが「もうすぐだよ、レニー」と微笑んでいる。


「羽音が歌っている。君の絶望のために」


 甘やかなアロの言葉は、誰にも受け取られることなく、リノリウムの床の上へと転がっていた。

 隙間なく塞いでいるはずの実験室からは、濃い鉄錆のような臭いが溢れ出し、喉を焼くようにまとわりついた。

 研究員たちは吐き気を堪えて目を逸らす。

 だがアロは、床に散った血の飛沫を額縁のように眺めていた。

 苦痛と断末魔は、彼にとって絵画を完成させるための絵の具にすぎない。

 ウイルスの羽音は、不気味な旋律を奏でるかのように響く。

 ウイルスの羽音は、不気味な旋律を奏で、世界を破滅へと誘う前奏曲となる。


 このウイルスを作り上げるまでに、アロは丸一年を費やした。

 春を過ぎ、夏を越え、葉が散るたびに少しずつ、彼の計画は輪郭を持ちはじめる。

 その一年は無駄ではない。

 むしろ、他者と笑顔を交わし、信頼を重ね、彼の欺瞞は磨かれ、もう誰も彼を疑う人なんているはずがないほどに。


 アロは安堵していた。これならば無事にレニーは終わりを迎えるだろうと。


 アロは微笑む。

 すべては整っている。レニーが沈黙する日は、必ず無事に訪れる。

 アロ・カンパニュラは、セレニティ各地にウイルス魔法の生成方法、利用方法を贈り続けていた。

 研究員たちも協力した。戦争の助けにになるのなら、と。

 研究所名義で「新たな禁忌魔法です」と告げれば、国軍も傭兵も疑わずに生体実験までもを行った。


 アロの口元に浮かぶ微笑は、観客であり演者である者のものだった。

 舞台は整い、喝采を浴びるのは自分だけ。アロはその瞬間、喝采を浴びる演者のように立ち上がり、両腕を広げて目を閉じた。

 次の瞬間、国全体を揺るがすかのような絶叫が響いた。結界魔法で包まれウイルスを注入されたレニーの、哀れな叫び声だった。


 このウイルスは空気に極端に弱く、結界魔法内でしか生きることができないのだ。だからこそ、アロはレニーを大切に、守るように結界魔法で包んだのだ。


 窓ガラスが震え、空気が裂け、世界が軋む。

 その前奏曲(プレリュード)は、体を蝕む羽音と溶け合いながら、彼にとって世界で最も美しい音楽となった。

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