勝者の法 ~文字が読めない俺が、現代刑法とハッタリだけで異種族を完全論破する話~
田邑 或
第1話『悪徳弁護士』
第1話『悪徳弁護士』
シン、と静まり返った法廷で、壁掛け時計の赤い秒針だけが、音もなく滑るように盤面を舐めていく。
証言台の少女は、涙を流しながらも、父親への想いを気丈に語りきった。その姿は悲劇のヒロインそのものであり、数名の女性裁判員は、ハンカチでそっと目頭を押さえている。
検察官が築き上げた『可哀想な娘が、勇気を振り絞って真実を語る』という物語は、完璧だった。もはや、誰もが被告人の有罪を確信していた。
被告人席で、大柄な男――翔一の依頼人である黒川が、苛立たしげに太い指で机を叩いた。その目には、涙を流す少女への同情など微塵もなく、ただ「早く終わらせろ」という焦りが浮かんでいる。
黒川は、隣に座る己の弁護人へと、鋭い視線を送った。
しかし、田中翔一は、その視線に気づく素振りも見せず、ただ静かに目を閉じていた。
まるで、これから始まる『解体作業』の、最後の手順を確認しているかのように。
(……見事な脚本だ。だが)
やがて、翔一はゆっくりと目を開き、心中で冷ややかに呟いた。
(どんな完璧な脚本にも、修正すべき『矛盾点』は存在する)
法廷とは、真実を暴く場所ではない。どちらの物語が、より説得力を持って法服を着た権威(ジャッジ)と、くじ引きで選ばれただけの素人(裁判員)たちの心を掴むか。真実の重さなど何の意味もなさない、ただの感情の多数決だ。
ゆっくりと、翔一は席を立った。背筋を伸ばし、被告人席の男に一度だけ無感情な視線を送る。――金は、既に前金で半分、振り込まれている。
彼は証言台の少女へと向き直り、作り物めいた、完璧なほどに穏やかな声で言った。
「証人。……お辛い中、誠にありがとうございます。いくつか、簡単なことからお伺いしてもよろしいでしょうか」
彼の穏やかな声は、しかし、静まり返った法廷に奇妙な不協和音となって響いた。
翔一は、手元の資料に一度も目を落とすことなく、ただ静かに少女を見つめて続けた。
「証言によれば、事件当夜、あなたは隣の自室で物音を聞いた、と。……大変なショックだったとお察しします。その時、あなたはテレビを見ていた、と証言されましたね。その番組は、何でしたか?」
一瞬、法廷の時間が止まった。
検察官の眉が、今度こそぴくりと動く。それは、質問の意図が読めないことへの、わずかな苛立ちの表れだった。
「異議あり!」
検察官が、鋭く、しかし抑えた声で立ち上がった。
「裁判長、弁護人の質問は、本件の核心とは全く無関係です!」
法廷中の誰もが、その通りだと思った。しかし、翔一は待ってましたとばかりに、ゆっくりと裁判長へと向き直る。
「裁判長、私は、証人が極度の緊張状態と精神的ショックの中で、どれだけ正確に物事を記憶できるのか、その『記憶の信頼性』の根幹を問うているのです。これは、後の核心的な証言の信憑性を判断する上で、極めて重要な尋問であると考えます」
裁判長が、短い沈黙の後に、乾いた声で告げた。
「異議を、却下します。弁護人、質問を続けなさい」
検察官が、苦虫を噛み潰したような顔で腰を下ろす。
少女は、戸惑ったように眉を寄せ、潤んだ瞳で宙を彷徨わせた。
「……えっと……たしか、ドラマ、だったと思います……」
「ほう。ドラマですか」
翔一は、医者が患者を診察するかのように、淡々と相槌を打った。
「そのドラマの主演俳優は、誰でしたか? 当時の放送の、あらすじは覚えていますか? あなたが印象に残った登場人物は?」
矢継ぎ早の、しかし静かな質問に、少女は完全に言葉を失った。彼女の顔からは血の気が引き、ただ首を横に振ることしかできない。
翔一は、それ以上彼女を追及することはしなかった。
代わりに、彼は裁判員たちの方へと、まるで講義でもするかのように、ゆっくりと視線を送った。
「お答えいただけないようです。……不思議なものですね。あれほど衝撃的な事件の記憶は鮮明だとおっしゃるのに、その直前の、ごくありふれた日常の記憶は、いともたやすく抜け落ちてしまう。人間の記憶とは、かくも偏向し、信用できないものなのですね」
その言葉は、誰に言うでもなく、しかし法廷にいる全ての者の鼓膜に、冷たい染みのように広がっていった。
完璧だった検察側の脚本に、最初の、そして致命的なヒビが入った瞬間だった。
法廷に、再び重い沈黙が落ちる。
翔一は、その変化を肌で感じながらも、表情一つ変えなかった。
これから行うのは、尋問ではない。一人の少女の人生を、論理というナイフで切り刻む、解剖(オペ)だ。
彼は再び、証言台の少女へと向き直った。
「さて、証人。少し、話を変えましょう。あなたのお父様、黒川氏の遺産についてです」
***
――これは、法を学ぶ全ての者が、最初に叩き込まれる皮肉な寓話。
あらゆる法に優先する、たった一つの条文が存在する。
それは、いかなる法典にも記されてはいない。
ただ、勝者が掲げた剣の、その切っ先にのみ輝いている。
『――勝者こそが、法である』
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