第8話 時の止まった森 第8.5話 水面の奥

「さて、君の目的は今無事に達成されたわけだけど、改めて、どうしたい?」

 手を後ろに組んで立ちながら俺を捉える彼の目は、やはり人間とは言い難い色と模様で、ここが普通の空間でないことを突き付けられる。

「さっき言ったように、君自身が檻を作って自分でそこに入ればいい。望むなら、やり方を教えるよ。そうすれば君は元通り、檻の中で退屈に過ごすことになるだろう。そしてその生活に飽きて、行動、思考の順に止めていくと、いずれ元の場所に戻れるよ」

 迷うことは無かった。

「俺はまだ何も知らないぞ。この靴の作り方だって教わってない。光源も、ただ一瞬目にしただけだ。ヌシのことだって気になる。知りたいことが多すぎる」

 何の目的も無く歩いてきただけだったのに、今は目的ばかりだ。

「どうやって手伝えるかは俺にも分からねえけど、できることは何でもしてやる。だから、全部教えてくれ。それに、きっと俺は戻ってもまた出てくるだろうからな」

 モクはしばらく動かずに俺を見下ろしていた。やがて後ろの腕を下ろし、友人と呼んだ木に近づいていく。

「ありがとう、コウ。大それたことを言ったけれど、私はね、ただこの子をどうにかしてあげたいだけだ。それだけなんだ」

「……お前は、いつから外にいるんだ」

「いつからかも忘れるくらい前。強いて言えば、光源がここに来る前からかな。その頃、まだこれほど木は多くなかったんだ。何度も仲間が外に出てきて、どうしようもなくなった者から時が止まり、こうしてここに――壁の根本に森ができた」

「壁だって?」

「そうだよ」

 モクは岩山を見上げて言った。

「君は山と呼ぶけれど、これは壁なんだ。昔、光源が来た時に多くの仲間が死滅した。その騒動を食い止めたのがスイだったけれど、彼も彼で私たちにとって脅威であることに変わりなかった。スイが光源を止めた後、私がスイをこうして囲っている」

 スイ――ヌシが脅威。俺は岩の檻だから檻だとモクは言った。ならばヌシは、水ということになる。

「水が、脅威なのか?」

 モクは何だ。彼は植物だと言った。植物が水を脅威だと言い、隔離するほど恐れている。

「スイは、ただの水じゃないんだ」

 モクはヌシの檻があった部分を見た。

「あそこだけ、異様に植物が無いだろう。まるで避けているようだけど、実際、避けているんだ。彼を囲っているあの場所に、私たち植物の多くは生きられないから。彼は――スイは、海なんだ」


     *


 モトちゃんが居なくなった。

 あの青年が連れ出したのか。

 コウから話しかけられることが無くなってから、話し相手はモトちゃんだけだった。その彼女も、居なくなってしまった。


 ……一人。独り。……寂しい。


 もう足とは言えない足を何とか動かして、転がっていた陶器に近づいた。原型を留めている手を使って、コウの声が聞こえることを願って陶器を耳に近づけた。

 何も聞こえない。

 せっかく起き上がったから水でも飲もう。必要は無いと分かっているが、なんとなく生活らしいことをしたくなった。

 水は陶器から勝手に湧き出てきた。そうできると思えば何でもできるこの檻の中は、実に便利で退屈だ。

 今更コウの言っていたことが分かった。確かに、つまらない。

 陶器にできた小さな水面を見つめると、人の顔が映っていた。

「あれ、僕ってこんな顔だっけ」

 水を飲むという行為自体、もうずっと前に止めたことだ。自分の顔なんてとっくに忘れていたが、なんだかしっくりこない。

 水面に映る人影は揺らめいていた。

「――ああ、久しぶり」

 人影はこっちを見ていた。久しぶりに聞く他人の声は耳に響いた。耳を使うことも、思えば久しぶりだ。音。声。そういうものから、ずっと隔離されている。ふとそう思った。

「どうしたの?」

 揺らめく人影の声は高く、モトちゃんよりは大人びた声。これも、聞き覚えはある。

「君は、誰だっけ」

「私を忘れたの? ……まあ仕方ないか。随分この身体とも離れていた。あなたも、もうそろそろ戻る頃だろう。意識が保たれていること自体、奇跡と言っていい」

 だんだん陶器が熱くなってきた。

 ――ああ、思い出した。いつか、僕から話しかけていた相手。そうだった。水を張ればいいんだった。

「もうすぐ水も蒸発する頃かな? まあ、この通り私は戻ったから、意識があるならいつでも話しかけてよ。まあ戻ったと言うより、新しい身体を作ることができたんだ。見て――……」

 水は湯気を出し、そのうち蒸発して消えてしまった。水面が無くなると同時に、人影の話し声も途絶えた。

 彼女は確か、カコと名乗っていた。

 もう一度水を張った。

「――お、また来たの?」

 かつて何度話しかけても応答が無くなった彼女が、戻ってきた。

「カコ、だよね?」

「そうだよ。おまたせ」

 目から涙が出ていた。乾ききっていたはずの身体が熱くなった。

「……どうやらガスでも良かったみたいだな」

「何か言った?」

「いいや、何も」

 黒く揺らめく人影の正体は、カコだ。随分長い間居なくなっていたが、こちらに戻ってきたのか。

 一人じゃない。それがどれだけ嬉しいことか、今初めて理解した。

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