第28話
老住職は、もはやこれまでとばかりに袈裟(けさ)の袖を払った。
顔は真っ赤で、握った数珠が引きちぎれんばかりに震えている。
「もうええ! こんな家、こっちから願い下げや!」
住職は祭壇に背を向け、出口へと大股で歩き出した。
慌てて追いすがる親族の男たち。
「ご、ご住職! お待ちください! 葬儀の途中ですよ!」
「お布施は弾みますから! どうか怒りを鎮めて……!」
住職はピタリと足を止め、親族たちをギロリと睨みつけた。
「金の問題やない! 人としての品性の問題や!」
そして、その視線を、なおも荒い息をついている茂子へと突き刺した。
「よう聞きなはれ。わしはな、この道何十年や。せやけど、こんな見苦しい葬式は初めてや!」
「なっ……!」
「二度と呼ばんでください! 呼ばれても来ん! 金輪際、お断りや!」
住職は履物を乱暴に突っ掛け、最後に言い放った。
「あんさんら、生きながらにして餓鬼道に落ちとるわ! 地獄へ堕ちろ!!」
僧侶にあるまじき、しかし万感の怒りがこもった捨て台詞。
それがトドメだった。
「なんやとコラァ!!」
茂子が跳ね起きた。
「誰に向かって地獄やて!? 貴様こそ地獄行きじゃボケ坊主!」
「お義母さん! もうやめて!」
嫁たちが必死で茂子の腰に抱きつくが、火事場の馬鹿力で振りほどこうとする。
「放せ! あのクソ坊主、シバいたる! 千早の葬式台無しにしやがって!」
「台無しにしたのはお義母さんでしょうが!」
「やかましい!」
住職はとっくに門を出て行ってしまったが、茂子は虚空に向かって拳を振り上げ、罵詈雑言を喚き散らしている。
厳粛であるはずの葬儀場は、完全に崩壊していた。
香炉はひっくり返り、花は踏まれ、読経の代わりに怒号が響く。
この修羅場の中で、棺の中の千早だけが、静かに、何も言わずに眠っていた。
その沈黙が、大人たちの醜さを何よりも雄弁に告発しているようだった。
去りゆくタクシーの中で、さゆりはふと耳を澄ませた気がした。
風に乗って微かに聞こえる、蝉の声以外の音。
(……千早、笑ってるか?)
こんな漫画みたいな大乱闘。
天国にいる千早が見ていたら、「おばあちゃんもお坊さんも、アホやな」と笑ってくれているかもしれない。
そう思うことでしか、さゆりはこの救いのない光景を消化できなかった。
「……地獄へ堕ちろ、か」
さゆりは住職の言葉を反芻し、自嘲気味に笑った。
「安心しぃ、ご住職。私らはとっくに地獄の中や」
タクシーは京都駅へと急ぐ。
さゆりは、二度と戻らない故郷を背に、東京という次の戦場へ向かう。
そこには、彼女を待つ「あかり」という光と、いよいよ本格化する世間との全面戦争が待っている。
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