第25話「……上等やないの」
茂子の目が血走った。
娘の懺悔も、決意も、今の彼女には届かない。ただ「娘を見殺しにした女」が、勝手にけじめをつけて去ろうとしていることへの生理的な嫌悪と激怒だけが爆発した。
「待て! 逃げるんか!」
茂子が背後からさゆりの黒髪を鷲掴みにした。
「痛っ!?」
さゆりの首がのけぞる。ベールが引き剥がされ、帽子が床に転がる。
「千早に触るな! その汚い手で千早に触るな言うたやろ!」
茂子は狂乱していた。さゆりが棺に入れたユリの花束をひっ掴み、さゆりの顔に叩きつける。
「こんなもんいらん! 持って帰れ! 人殺し!」
「何すんねん!」
さゆりの中で何かが切れた。
「私が千早の母親や! あんたに指図される覚えはないわ!」
さゆりは茂子を突き飛ばした。
「きゃあっ!」
茂子がよろめき、焼香台にぶつかる。香炉が落ちて灰が舞い散る。
「お母さん!」
「やめんか! 何してんねん!」
親族の男たちが慌てて止めに入ろうとするが、二人の女の修羅場は止まらない。
「親に向かって手ぇ上げるんか! この鬼! 悪魔!」
茂子は着物の乱れも構わず、さゆりに飛びかかった。長い爪がさゆりの頬を引っ掻き、赤い筋が走る。
「離せ! 離さんかい!」
さゆりも応戦する。元アスリートの体幹で茂子の突進を受け止め、逆に腕をねじり上げる。
「千早が死んだんは私のせいや! それはわかっとる! でもな、私も苦しいんや! 誰よりも苦しいんや!」
「知るか! あんたの苦しみなんか知るか! 千早の方が何倍も苦しかったわ! ママ、ママ言うて死んでいったんやぞ!」
「ああそうや! だから私が背負うんや! あんたに何がわかる!」
バシンッ!
乾いた音が響く。
さゆりの平手打ちが、茂子の頬を捉えた。
「う……!」
茂子がよろけ、畳に膝をつく。
一瞬の静寂。
さゆりの黒いドレスはほつれ、髪は振り乱され、頬からは血が滲んでいる。
茂子もまた、髪はぐしゃぐしゃで、着物の襟元がはだけていた。
もはや葬儀ではない。
血を分けた母と娘による、感情の殴り合い。理屈も常識も吹き飛んだ、本能のぶつかり合いだった。
「……はぁ、はぁ……」
さゆりは肩で息をしながら、へたり込んだ母親を見下ろした。
そして、乱れたドレスの襟をただし、棺の中の千早に向かって、血のついた手で合掌した。
「……騒がしてごめん。これがママと、おばあちゃんや。よう覚えとき」
さゆりは落ちていた帽子を拾い上げ、砂を払うようにパンパンと叩くと、再び頭に乗せた。
「行くで」
誰に言うでもなく呟き、さゆりは呆然とする親族の壁を割って、出口へと歩き出した。
「さゆりぃぃぃッ!!」
背後で茂子が叫ぶ。怨嗟(えんさ)の声か、それとも、どうしようもない悲しみの叫びか。
「二度と帰ってくんな! 千早は私が守る! あんたなんか知らん! 知らんわぁぁッ!」
さゆりは足を止めなかった。
タクシーに乗り込み、ドアを閉める。
「運転手さん、出して」
車が動き出す。
バックミラー越しに見える実家では、まだ親族たちが慌てふためき、茂子が地面を叩いて泣き叫ぶ姿が見えた。
さゆりはシートに深く体を沈め、天井を見上げた。
頬の傷がヒリヒリと痛む。
しかし、不思議と心は晴れていた。
絶縁。
これで完全に切れた。
帰る場所はなくなった。
「……上等やないの」
さゆりはバッグからコンパクトを取り出し、崩れたメイクを直し始めた。
鏡に映る自分の顔は、傷だらけだが、妙に生き生きとしていた。
「千早。見ててや。ママ、これから本番やからな」
これから東京へ戻り、あかりを引き取り、世間のバッシングと戦いながら生きていく。
もう「被害者の遺族」として同情される道はない。「加害者」のような顔をして、茨の道を突き進むしかない。
壬生さゆり、32歳。
彼女の「第三の人生」が、この乱闘と共に幕を開けた。
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