第23話 白の記録、黒の設計図
地下第5層の区画は、音を持たなかった。
扉が開いても反響は返らず、空気が動く気配もない。
照明だけが自動的に切り替わり、人の侵入を感知したというより、稼働条件を満たした装置が、順番に起動していくように見えた。
通路の先には、円形に近い空間が広がっている。
床に刻まれたラインは用途を示すものだったはずだが、今は意味を失い、中央と壁面に配置された端末群だけが残されていた。
配置は整然としている。
だが、ここは人が腰を据えて作業する場所ではない。
椅子はなく、操作位置も定められていない。
必要とされているのは、人の判断ではなく、あらかじめ設定された条件を満たす存在だけだった。
カレンが足を止める。
「……中枢区域です」
クラリスは一歩前に出て、端末を見た。
画面は暗転しているが、電源は落ちていない。
待機状態。
停止ではない。
「閲覧権限は?」
「一部、制限があります」
カレンは即座に答える。
理解している者の口調だった。
ヘルマンは少し距離を取った位置で、空間全体を見回していた。
視線は端末ではなく、壁の配線や床のラインに向けられている。
「……変わってねぇな」
小さな声だった。
「考え方だけは」
クラリスが端末に触れる。
起動音は鳴らない。
画面に表示されたのは、単純なログ一覧だった。
日付、識別番号、稼働記録。
そこに感情を示す言葉はない。
評価も、結果もない。
事実だけが、同じ形式で並んでいる。
「旧DOLL計画の中枢ログのようですわ」
クラリスは淡々と読み上げる。
「成功率、安定稼働時間、命令遵守率……」
数値はいずれも高く、異常値は見当たらない。
ただ、その一覧のどこにも、測定対象そのものを示す項目はなかった。
反応。
稼働。
遵守。
そこに記録されているのは結果だけで、過程や、変化は含まれていない。
何を失ったのかは、最初から数える対象にされていなかった。
「……成功、ですか」
声の調子は変わらない。
「記録上は、そうなってる……」
ヘルマンが答える。
そこに肯定も否定も含まれていなかった。
ヘルマンは、画面から視線を逸らした。
「数字だけ見りゃな」
それ以上は続けない。
ログは淡々と続いている。
改善提案。
運用効率。
人的負荷の軽減。
どこにも、
「人格」という言葉は使われていなかった。
クラリスは次のフォルダを開いた。
構造補足。
運用最適化。
関連資料。
一見すると、旧計画の延長に過ぎない。
だが、ページを進めるにつれて、
使われている言葉の性質が変わっていく。
「……記憶構造の分割」
クラリスの読み上げが、わずかに止まる。
「行動傾向の抽出……不要部分の切除?」
ヘルマンが、顔を上げた。
「……それが、俺たちが進めていた計画だ」
一拍置いて、続ける。
「ただ、俺が去った後に、形だけ整えて使い回してるログがある」
ヘルマンは画面から視線を逸らした。
この並び方は、自分が知っている記録の形とは違う。
クラリスは、画面から目を離さない。
「改良、ではありませんね」
「歪ませてる」
ヘルマンは短く言い切り、間を置かずに続けた。
「人を、人として扱わねぇ考え方だ。腐ってやがる」
そのとき、画面の隅に、ひとつのフォルダ名が一瞬だけ表示された。
旧計画番号とは異なる識別子。
読み込みは途中で止まり、中身は開かれない。
だが、名前だけは表示された。
――第2次DOLL計画。
クラリスは、何も言わずに端末を閉じた。
この場で初めて、明確な意思を伴った動作。
端末を閉じたあとも、空間は何も変わらなかった。
部外者の操作にもかかわらず、警告音は鳴らず、照明の明度も変わらない。
記録に触れたこと自体が、異常として扱われていない。
それが、かえって不穏な空気を生み出した。
クラリスは端末から一歩離れ、空間全体を見渡す。
ここに残されているのは、人ではなく、作業の痕跡だけだ。
「……この記録」
クラリスが静かに口を開く。
「終わったものとして、保存されているようですわね」
「終わった、というより」
ヘルマンが言葉を継いだ。
「“成功した”ものとして、置かれてる」
どちらも否定ではなかった。
事実の確認に近い。
旧DOLL計画は、失敗として処理されていない。
それが、この記録の前提だった。
ヘルマンが、別の端末を開く。
今度は、閲覧のみの制限がかかっている。
入力は受け付けない。
だが、記録の閲覧は遮られていない。
「……終戦後の記録は、見られますの?」
クラリスが、端末から視線を離さずに言った。
ヘルマンは一瞬、答えを探すように黙り、やがて低く息を吐く。
「公式には、全部凍結だ。計画も、設備も、人もな」
だが、と続ける。
「その割に、ここは生きてる」
クラリスは小さく頷いた。
終戦後の時刻が記されたログは、確かに存在している。
だが、それらは“運用”ではなく、更新や整理といった形で残されていた。
誰かが、ここを管理している。
少なくとも、放置はしていない。
「……第二次、という言葉が使われている理由も」
クラリスは、慎重に言葉を選ぶ。
「終わった計画を、もう一度始めたわけではない。そういうことですわね」
ヘルマンは、はっきりとは答えなかった。
「確かに、始めるってのはおかしいかもしれねぇな」
視線を伏せたまま、続ける。
「終わったことにして、裏で動かしてる。そんな感じがする……」
その言葉に、カレンは何も反応を示さなかったが、端末に向けられた視線だけが、わずかに鋭くなっていた。
閲覧可能な画面に並ぶのは、補足資料だった。
旧計画を前提にした、構造的な整理。
運用上の改善案。
「……言葉が変わっています」
クラリスが言う。
「ここでは、“制御”という表現が使われていない」
ヘルマンが、画面に顔を近づける。
「“再配置”だな」
短い言葉だったが、意味ははっきりしていた。
制御でも、管理でもない。
人を部品として扱い、並べ直す発想だった。
「人格、という概念が」
クラリスは言葉を選ぶ。
「前提から、外されています」
ヘルマンは答えなかった。
代わりに、端末の表示を睨む。
そこにあるのは、分解された構造図だった。
記憶や行動傾向、反応速度といった要素が、それぞれ独立した項目として整理されている。
「……人を」
ヘルマンが、途中で言葉を切る。
「使う前提じゃねぇな」
カレンは、端末から少し距離を取って立っていた。
画面を見ていない。
だが、情報から切り離されてもいない。
「再利用、という表現が多いです」
淡々とした声だった。
「旧計画の成果を、基礎資源として扱っています」
「資源、ね」
ヘルマンが短く息を吐く。
「兵器ですらねぇ」
その言葉は、皮肉にもなっていなかった。
ヘルマンが、最後のフォルダにカーソルを寄せる。
閲覧権限は、さらに制限されている。
構造図の大半は伏せられ、数行の概要だけが表示されていた。
そこに、明確な計画名はない。
だが、旧計画番号とは異なる体系が使われている。
「……続いている、のですね」
クラリスの声は低かった。
「形を変えて」
「続いてる、って言い方は違う」
ヘルマンが言う。
「これは、旧計画の続きを作ってるんじゃねぇ」
一拍置く。
「使えるところだけ拾って、全然違うものにしている」
クラリスは、しばらく画面を見つめていた。
視線は揺れないまま、読み上げることをやめ、そのまま数秒、画面に留めていた。
空間には、再び沈黙が戻る。
「……人を」
クラリスは言葉を選ぶように、一度だけ間を置いた。
「ここまで壊しておいて」
言葉は、そこで一度止まる。
「それでも、使うつもりなのですね」
クラリスは言葉を飲み込み、両手を強く握りしめた。
その仕草だけが、この場で唯一、人の感情を示していた。
ヘルマンは、何も返さなかった。
否定も、同意もしない。
その沈黙自体が、答えだった。
そのとき、床の奥で、かすかな振動が伝わった。
音とも、空気の揺れとも違う。
「……動いた」
カレンが言う。
視線が、通路の先に向けられる。
まだ、何があるのかは見えない。
だが、ここが「記録だけの場所」でないことは、はっきりした。
クラリスは、端末から完全に手を離した。
「……行きましょう」
静かな声。そこに迷いはなかった。
「これ以上、読む必要はありません」
理由は、誰も聞かない。
カレンが先に動き、通路へ向かう。
ヘルマンは、最後に一度だけ端末を振り返った。
「……俺たちにとっては正義だった。白い記録だ」
誰に向けた言葉でもなかった。
「だが、設計図は黒い」
三人は中枢区画を離れたが、この場所に沈む静寂は、まだ終わっていなかった。
(つづく)
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