第17話 ティム・ローヴァンの追跡
蒸気装甲車の隊列が、夜のスラム外縁をゆっくりと進んでいた。
白い蒸気が路地の石畳に落ち、薄い霧のように漂う。
その中を、正規軍治安維持小隊の兵士たちが黙って歩いた。
誰も喋らない。
理由は一つ。
――敵が DOLL だから――
不規則に揺れる蒸気灯の下へ、後方車両から一人の男が降り立った。
アルブレア連邦正規軍、ティム・ローヴァン少佐。
かつて、自由連合のDOLL部隊で、戦術教官として名を馳せた男。
粗い顔立ちに深い影が刻まれ、鋭い眼光が獣のように暗闇を裂いていた。
その視線の先には、工房の残骸から上がる微かな煙があった。
「……間に合わなかったな」
そう呟く声は、苛立ちではなく、もっと別の何か――
“思い出したくない記憶に触れた男の声音” だった。
副官が駆け寄る。
「少佐、内部の確認を終えました。逃走の形跡があります。蒸気車のタイヤ痕が裏手に……」
ティムは煙を眺めたまま、低く問う。
「……敵影は特定できたか」
副官は端末を抱えて報告する。
「工房内部の残骸ですが、動作パターンが……DOLL型の反応と一致します。Fシリーズ特有の機動です」
副官の声が震える。
ティムの瞼がわずかに動いた。
「……F、だと?」
副官は唾を飲み、続けた。
「断定はできません。しかし……突入した部隊が“反応できずに死んでいる”点──加えて、短時間での弾痕の密度が異常です。F01の可能性が高いと」
その瞬間、ティムの呼吸がわずかに乱れた。
ほんの僅か。
彼の胸の奥で、押し込めていた何かが動いた。
(……やはり。戦後の亡霊だったか……まだ消えていなかった)
工房跡を調査していた別の兵士が走ってくる。
「少佐! 協力者の名前が判明しました!“ヘルマン・クリューガー”。元・統制局管理監と思われます!」
ティムは舌打ちした。
「……あの裏切り者か」
副官が怪訝そうに問う。
「ご存じなのですか?」
ティムは短く答える。
「大戦中、俺と同じ部署にいた。DOLL計画の“制御系”を担当していた技官だ……完成した兵器を恐れて逃げた男だ」
それ以上の説明はしなかった。
だが、その目には複雑な色が浮かんでいた。
憎しみとも違う。
軽蔑とも違う。
“後悔”の匂いが、わずかに混じっていた。
ティムの中にある“断絶”の記憶が甦る。
――自由連合軍・研究局地下フロア
濃い油の匂いが満ちる部屋。
白い照明だけが等間隔に床を照らし、そこに立つ若いヘルマンと、無精髭のティム。
ティムは平然と言い放った。
「判断を残すから兵士は苦しむんだ。感情なんざ削ればいい。考える前に動く兵器……それこそが最適化だ」
ヘルマンは鋭く言い返す。
「機械ではない。人間だ。人間であることを削ってはいけない。これは“兵器”じゃない。……“加工された子ども”だぞ」
ティムは鼻で笑った。
「戦いに勝つために作る。それだけの話だ。お前は甘い。他人の命を守るために戦争をしているつもりか?」
ヘルマンの握りしめた拳が震える。
二人の間にあった断絶は、
その時すでに取り返しのつかないものになっていた。
別の兵士が恐る恐る口を開く。
「……少佐。やはり“F01”とは……?」
ティムは短く息を吸い、言葉を選ぶように答えた。
「知っている……俺は“F01の試験部隊”の戦術教官だった」
そこから先は、彼自身の意思では止められない記憶があふれた。
――大戦末期の廃村。
夜明け前の霧が、砕けた家屋の残骸の間をゆっくりと流れていた。
その静寂の中を、F01は一人で進んでいた。
歩幅は狂わず、呼吸は乱れない。
胸に抱えたブレイカーⅡ型が、彼女の動きに合わせてわずかに金属音を響かせていた。
角の向こうで兵士が飛び出した瞬間、F01はすでに引き金を引いていた。
照準は行われていない。
反射が判断より先に動き、散弾が霧を裂いて敵兵二名の胸部をまとめて抉り取る。
血は霧の中で形を保たず、音だけが残った。
倒れた体が地面へ沈むより早く、背後から三名の足音。
F01は振り向かず、半身の角度だけ銃口を滑らせ、至近距離で撃ち抜く。
散弾は壁へ散り、崩れる影が泥に沈んだ。
死角は存在しなかった。
悲鳴を上げた兵士が膝をついたが、F01は見向きもしない。
“生死の判断”は任務に含まれていない。
散弾の薬室が空になり、金属音が霧の中で短く響く。
次の動きに移るまでの間隔は、人間のそれではなかった。
落ちた
血に濡れた土を踏み越え、目標地へ向かう最短経路を選ぶ。
建物の角を蹴り、身体の角度を変えて走る。
動きは途切れず、疲労も揺らぎも見えない。
突撃してきた敵兵へ、散弾が最適距離で叩き込まれる。
砕けた
霧の奥で最後の敵影が崩れ落ち、村に静寂が戻る。
死体が層を作り、その中央にF01だけが立っていた。
前を向いたまま、次の命令をただ待っていた。
息は乱れず、姿勢も変わらない。
その光景を、ティムは忘れたことがなかった。
副官が絞り出すように言った。
「……ば、化物ですね……」
ティムはゆっくりと答えた。
「違う。“化物にした”んだよ、俺たちが」
そこに感情はなかった。
ただ、深い底に沈んだ音だけがあった。
副官が震える声で言う。
「……自由連合は、F01を最高傑作と……」
ティムは短く笑った。
それは喜びの色とは違う笑い。
「そうだ。最高傑作だった。俺たちが“戦争に勝つために作った怪物”だ。止められる者など……いない」
そして狂気にゆらめく声で叫ぶ。
「あのDOLL、F01は! 俺たちが作った地獄そのものだ!!」
周りにいた兵士たちは、ティムの異様な空気に気圧され、言葉を失う。
工房の裏手に残った走行痕を見ながら、ティムは言う。
「ヘルマン……お前はその子と心中でもする気なのか……」
副官が問う。
「少佐。どうしてヘルマンはF01と……?」
ティムは煙を払うように手を振った。
「理由なんざ一つだ。“自分が作った地獄から目を逸らしたかった”。あいつはあの頃からずっと怯えていた」
そして、工房跡の残骸から拾った白い布片を広げる。
副官が目を細める。
「これは……?」
「アストレア家の紋章だ。あの家の娘が同行している」
副官は意味が分からず首を傾げた。
ティムは乾いた声で続ける。
「“白の理念”と“DOLL計画の闇”が結びついたら……アルブレア連邦はひっくり返る」
ティムは背筋を伸ばし、蒸気車の方へ向き直った。
その手袋の内側で、指がわずかに震えていた。
彼は低い声で言う。
「全隊に通達だ。逃走した三名――クラリス・アストレア、ヘルマン・クリューガー、そしてF01……絶対に逃がすな」
副官は躊躇いがちに問う。
「少佐……もし本当にF01なら、我々で止められるのですか」
ティムは一度だけ目を閉じ、そして呟く。
「止められる者……? そんなもの、この国のどこにもいないさ。逃げられれば国が終わる。捕らえ損ねれば……俺たちが殺される。あれは、亡霊などではない“特級厄災”だ」
ティムは蒸気装甲車の扉に手をかけ、静かに乗り込んだ。
「追うぞ。行き先は分かっている――ゼロタワーだ」
エンジンが吠え、蒸気が夜気を押しのける。
装甲車の列が動き出す。
その後ろで、ティムの声にならない独白が闇に沈んでいった。
(……戦場の影は、まだ消えていなかったか。F01)
蒸気装甲車の列が追跡を開始した
(つづく)
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