第6話 静白に落ちる影(しろにおちるかげ)

 夕の光が白い屋敷の壁を淡く染めていた。

 昼間の眩しさはすでに引き、庭に長い影が伸びている。


 カレンはクラリスの呼び出しを受け、読書室へ向かった。

 白い廊下は静かで、足音が整った間隔で響く。


 扉をノックすると、クラリスの声が返る。


「入ってよろしくてよ」


 カレンは無音で扉を開け、中に入った。


 小さな読書室。

 白い棚と机、中央にはランプ。

 その淡い光の中で、クラリスは一冊の記録書を開いていた。


「来ましたわね、カレン」


「はい」


 いつもの短く淡々とした声。

 クラリスは手元の本をそっと閉じ、微笑んだ。


「今夜は、あなたに伝えておくべきことがありますの」


 椅子に座るよう促され、カレンは静かに従った。

 座った瞬間、カレンの視線がほとんど気づかれないほどわずかに動く。


 書棚の配置。

 窓の位置。

 扉までの距離。

 家具の並び。


 旧連合の訓練所で叩き込まれた“環境把握”が、無意識に動作していた。


 命令ではなく、必要でもない――

 それでも、身体が自然に確認してしまう。


 クラリスが軽く息をついたとき、読書室の空気が変わり、カレンの背筋がわずかに強張った。

 クラリスはランプの揺らぎを見つめながら話し始めた。


「貴族議会の黒系派……ここ最近、動きが活発になっていますの。大戦後の利権を巡り、白系派――わたくしたちアストレア家と対立しておりまして」


 声は淡々としているのに、わずかに緊張を帯びていた。


「戦争が終わっても、争いは形を変えて続きますわ。あちらは“白”を排除しようとしているのです。アストレア家そのものを」


 クラリスの指先が本の背表紙を押さえ、静かに続ける。


「黒系派は議会の席を増やすために、他家を押しのけようとしています。最近では“白寄り”の家の周囲で、不審者が現れたという報告もあるほどですわ」


 ランプの光が揺れ、クラリスの横顔に薄い影が落ちる。


「アストレア家の周りにも……見慣れぬ者が増えているようです。わたくしたちの動きを探っているのでしょうね」


 静かな声なのに、その意味は重い。


 カレンは短く答える。


「……脅威がある」


「ええ」


 クラリスは静かにうなずいた。


「だからあなたに護衛を頼んだのです。あなたはわたくしにとって、ただの元DOLLではありませんもの」


 カレンは理解できないまま返す。


「……護衛の任務は承知しています」


 その言葉に、クラリスは安心したように微笑んだ。


「ええ。そうでしたわね」




 二日後の昼。

 白い庭には穏やかな陽光が差し、テラス席には茶器が並んでいた。


 クラリスは紅茶を口にしていた。

 カレンはそのすぐ後ろに控え、静止している。

 

 風が花々を揺らし、クラリスの金色の髪を淡くなびかせた。

 

 そこへ、ワークスの若い技師が庭へ駆け込んだ。

 息を整えながら深く頭を下げる。


「お嬢様! 修理していた M-77 の作業が、先ほど完了いたしました!」


 クラリスはゆっくりカップを置いた。


「もう出来たのですね。思ったより早かったですわ」


「はい。技師長バルトを中心に、総出で対応いたしました。砲身の補強、内部洗浄、機構再調整……できる限りの工程を施しております」


 クラリスは軽く頷く。


「ご苦労さま。では――取りに伺いますわ」


「はい、お待ちしております!」


 技師は再び頭を下げ、足早に庭を去った。


 クラリスは立ち上がり、カレンの方へ向き直る。


「行きますわよ、カレン。あなたの装備が戻りましたわ」


「承知しました」


 二人は石畳を歩き、ワークスへ向かう。

 カレンの歩調は乱れず、視線も動かない。


 ただ、任務のために必要な装備が戻る――

 その事実だけを認識して、静かにクラリスの後に続いた。



 クラリスが扉を押し開けると、内部の技師たちが一斉に動きを止めた。

 カレンの姿を見たときの緊張は、まだ解けていない。


 だが、クラリスはまっすぐ奥へ進む。

 カレンは一定の距離を保って続いた。


 最奥の作業台で、技師長バルトが待っていた。

 いつもの大柄な体をやや前に傾け、布に包まれた長いケースを抱えている。


「お嬢様。修理が完了いたしました」


 クラリスは軽く頷き、微笑む。


「ご苦労さま。見せていただけますか?」


 バルトは布をめくり、ケースの蓋をゆっくり開けた。

 内部には、黒く沈んだ金属が静かに収まっていた。


 ブレイカーⅡ型(M-77)。

 砲身は補強され、旧式の部品は丁寧に磨かれ、全体が安定した質量を取り戻していた。


 バルトは説明を続ける。


「砲身の割れは内部から補強を入れました。作動機構は全分解して洗浄済みです。反動制御も可能な範囲で最適化しています」


 クラリスは銃を手に取り、細部を確認した。


「きれいに仕上がっていますわね。ありがとうございます、バルト」


 バルトは丁寧に頭を下げ、低い声で答える。


「お嬢様の信頼に応えるのが、自分の仕事ですから」


 クラリスはカレンを振り返った。


「カレン。受け取りなさい」


 カレンは一歩前に進み、銃を両手で丁寧に受け取った。

 その重量を腕へ乗せると、ゆっくりと――ほんの数センチだけ――持ち上げた。


 静かに下ろす。


 もう一度、同じ高さまで持ち上げる。


 動きはわずかだが、確かに“感触”を確かめている。

 手首の角度、重量の偏り、重心の位置。

 訓練で叩き込まれた“確認の手順”を、そのまま正確に繰り返していた。


 クラリスが静かに見守る中、カレンは短く言った。


「……問題ありません」


 その動きを見たバルトは、息を止めたように固まった。


「……さまになってるじゃねぇか……」


 低く押し出すような声。


 驚きというより、職人としての本能に近い反応だった。


「さすがは、DOLLでも最凶と言われたファントム・ワンだな……」


 思わず漏らしたその声を、バルト自身が驚いて飲み込む。


 カレンは反応せず、ただ銃を両手に保持したまま静止していた。

 クラリスはケースを閉じ、バルトに伝える。


「本当に助かりました。引き続き、お願いすることもあるでしょう」


「お任せください」


 二人が工房を出ようとしたとき、バルトが声を潜めて言った。


「……お嬢様。お伝えすべきことが、ひとつ」


 クラリスは振り返る。


「なにかしら?」


「ここ数日、工房の周りに見慣れない連中がうろついています。黒系の議会筋……だと思います。お気をつけください」


 クラリスの瞳が微かに細くなった。


「……承知しました。警告、感謝いたします」


 工房を出ると、風が白い庭へ流れ込んだ。

 カレンはケースを抱えたまま、クラリスの横に立つ。


「戻りますわよ、カレン」


「はい」


 二人は白い屋敷へ向かって歩き出した。

 背後に、工房の重い扉が静かに閉まる音が続いた。




 工房を出ると、白い庭を渡る風がふたりの間を抜けた。

 クラリスは歩き出そうとしたが――


 カレンが突然、一歩だけ前に出た。


 動きに迷いはない。

 クラリスを庇う位置をはっきりと取っている。


「……どうしましたの、カレン?」


 クラリスの静かな問いに、カレンは僅かに顔だけを動かし、周囲へ視線を送った。


「……気配が……」


 声は淡々としているのに、その立ち位置は明らかに“護衛”のそれだった。


 庭の外れ。

 白い塀の影。

 整った植え込みの奥。


 目には映らない。

 音もしない。


 だが、風の流れのわずかな乱れだけが、確かに“誰かの存在”を示していた。

 カレンはクラリスの前を歩きながら、周囲を警戒するように視線を巡らせる。


「……脅威未確認。警戒継続」


「そう……。では急ぎ屋敷に戻りましょう。カレン、気を付けてください」


 クラリスは声を荒げず、淡々と応じた。

 カレンは短く答える。


「了解」


 ふたりは並ばず、カレンが“盾”となる位置のまま白い道を戻った。


 背中に刺さるような視線は、屋敷へ近づくほど“薄れる”のではなく、むしろ“深く刻まれる”ように感じられた。


 扉の前でクラリスが立ち止まる。

 カレンは最後まで周囲を確認し、視線を庭へ向けたまま告げた。


 扉が閉まる直前、カレンは白い庭を一度だけ振り返った。

 そこには誰もいない。

 風も、鳥の影も、音すらなかった。


 けれど――

 “見られていた”という感覚だけが、深く沈んで消えなかった。


 扉が静かに閉まり、外界の気配がひとまず隔たれる。


 カレンが階段を上がっていくのを見送りながら、クラリスは誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「……白の家に、黒い影が落ち始めましたわね」


 視線は扉越しの庭――

 なにも映らないはずの闇の方向へ向けられている。


「急がなければなりませんわ。何かが……確実に迫っています」


 その声は、夜の白い廊下へ静かに沈んでいった。



(つづく)

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