第1話 闇市に眠るDOLL

 くすんだ布を垂らした屋根から、濁った水滴が落ちていく。

 油と鉄の匂いが湿気と混ざり、薄暗い倉庫の奥へ沈んでいった。

 低くざらついた声が断続的に響き、時折、商品番号だけが読み上げられる。


 旧市街の闇市。

 戦後の混乱で生まれた歪んだ市場。

 廃棄された戦用品と“人”として扱われなくなった者が取引きされていく場所。

 値段がつくかより、“処分よりは安い”ことだけが価値の基準になっている。


 三番倉庫の最奥。

 朽ちた木箱と黒ずんだ鉄格子に囲まれた檻の中で、F01は動かず座っていた。


 頭はわずかに垂れ、視線は固定。

 両手首と足首にはかせ

 足元の鉄球は濁った水を撫でるように沈んでいる。


 檻の前には湿気で丸まった札が吊るされていた。

 文字はほとんど擦れ、読める部分の方が少ない。

 三年間、雨も湿気も汚れも浴び続けていた。


 奴隷商のひとりが鼻で笑う。


「見てみろよ。誰が買うんだ、こんな無反応のガラクタ。返事もしねぇし、労働にも使えねぇ。女の形してても値がつくわけねぇだろ」


「っていうかよ、これ本当に動くのか? 噂じゃDOLLドールは暴走するだの、夜中に勝手に歩くだの……」


「やめろって言ってんだろ、そういう話。縁起が悪ぃ」


 声は届いていたが、F01ファントム・ワンは反応しなかった。

 返すべき言葉も、動く理由もなかった。


 その時。


 倉庫の入口で、空気が変わった。


 色の抜けた布越しに外光が差し、静かな足音が規則正しく近づいてくる。

 ざわり――と、闇市に不釣り合いな緊張が走った。


 若い貴族女性が一人、倉庫の奥へ進んでくる。


 クラリス・アストレア。


 淡い金色のロングヘアは光を受けて柔らかく揺れ、薄いサファイアブルーの瞳は冷静な光を宿していた。

 純白のワンピースは控えめながら品を漂わせ、歩くたびに周囲のざらついた空気が整っていくように感じられる。


 アルブレア連邦“最古の白系統しろけいとう貴族”、アストレア家の次女。

 彼女が現れたその瞬間、奴隷商たちは息を呑み、動きを止めた。


 外に控えていたアストレア家の護衛二名が、すぐにクラリスの前へ出た。


「お嬢様、ここは危険です。中は……その、素行の悪い者ばかりで――」


「あなた方はここで待機なさい」


 クラリスは一歩も引かず、淡い声で告げた。

 護衛たちは焦ったように顔を見合わせる。


「ですが、お嬢様! DOLLが眠っている倉庫でございます。何かあれば――」


「心配はいりませんわ。必要があれば、わたくしが声をかけます」


 静かで、揺らぎのない声音こわね

 二人の護衛は言葉を詰まらせる。


「しかし、お嬢様……! こんな場所、お一人では――」


 クラリスは振り返らないまま、柔らかく、しかし一切の拒絶を許さぬ口調で告げた。


「――“アストレア”の名を持つ者が、自ら決めたことから退くべきではありませんわ」


 護衛たちは一瞬にして沈黙した。

 その表情には、不安と畏怖いふと、止められないという諦念けねんが入り混じっている。


「……承知いたしました。ですが、合図があればすぐに――」


「もちろんです。では、お待ちなさい」


 そう言ってクラリスは、乱れのない足取りで倉庫の暗がりへ足を進めた。

 その背を、護衛たちは固く口を閉ざしたまま見送るしかなかった。


 倉庫内の澱んだ空気が、クラリスの歩みとともに大きく揺れた。

 一歩、また一歩、奥へ進む。


「……アストレア家……?」


「嘘だろ……なんで貴族のお嬢様がこんな所に……」


「下がれ! 無礼のないようにしろ!」


 かすかなざわつきは、すぐに重い沈黙へ変わった。

 

 名門アストレア家。

 “白の家系”。

 政治の汚泥おでいには決して染まらないとされる象徴。


 その娘が、ここにいる。


 クラリスは周囲の気配に目もくれず、

 暗がりの奥へまっすぐ視線を向けた。


「その奥を見せて。案内なさい」


 その声は穏やかだが、拒絶を許さない。

 奴隷商は慌てて背筋を伸ばし、道を開いた。


「も、もちろんでございます……! こちらへ……!」


 クラリスは迷いなく進み、最奥さいおくの檻の前で足を止めた。

 F01の檻。


 暗い倉庫の中で、クラリスの白が浮かび上がる。


「お、お嬢様……そ、その個体は……三年の間、まったく……反応がなく……処分品のようなもので……」


 クラリスは札へ一度だけ視線を落とし、淡々と告げた。


「この個体を見せて」


 奴隷商が怯えながら首を振る。


「いや、その、壊れているというか……」


「欠陥かどうかは、わたくしが判断いたします。開けなさい」


 柔らかな声だが、反論の余地はなかった。


 鍵が外される金属音。

 湿気を吸った鉄格子が軋む音。


 檻の扉が半ばまで開いたところで、クラリスはそっと手袋を外した。


 白い布が闇の中で淡く揺れる。


「お嬢様……! そんな、素手で触れるなど――」


 奴隷商の声が震えを帯びる。


 クラリスは答えなかった。

 ただ、檻の奥のF01をまっすぐ見つめる。


――この子には、手袋越しでは失礼ですもの。


 その仕草には、高貴さでも虚栄でもない――たった一つの敬意。

 クラリスは、F01へ一歩踏み出した。


 周囲の奴隷商たちはさらに距離を取る。


「まさか……反応するはずが……」


「黙れ。見てろ」


 クラリスはF01の前に立ち、優しく声をかけた。


「……わたくしの声が聞こえていますか。あなた」


 F01は動かない。

 奴隷商が肩をすくめる。


「ムリでございます、お嬢様……誰が呼んでも――」


 奴隷商の言葉の途中で、クラリスは一歩前へ出た。

 白い靴が、湿った床に小さな水音を落とす。


 F01は微動だにしない。

 焦点のない淡いグレーの瞳は、ただ俯いたまま固定されていた。


 クラリスは静かに息を吸い、迷いのない声で命じた。


「――立ちなさい」


 その声音は鋭さではなく、揺るぎのない“確信”だけを含んでいた。


 倉庫の空気がわずかに張りつめる。

 奴隷商は思わず声を呑む。


 次の瞬間――

 F01の指先が、わずかに動いた。


 それは反射ではなく、命令を受け取った兵器特有の“起動の兆候”。


 膝がゆっくりと持ち上がり、硬い床を押すようにして姿勢が変わる。

 背筋がまっすぐに伸びる。

 頭部が角度を調整し、視線がクラリスへ向く。


 まるで、壊れた人形に命が再び通ったように――

 静まり返った倉庫にその動きだけが浮かび上がった。


 奴隷商は蒼白になり、後ずさる。


「……お、お嬢様……そんな命令をした者は、いませんでしたのに……!」


 クラリスは答えなかった。

 ただ、まっすぐにF01を見つめ続ける。


 F01は立ち上がりきると、その場で静止した。


「……起立命令、確認。行動可能」


 抑揚のない声。

 けれど、クラリスの命令だけを正確に受け取った証。


 クラリスは瞳を細くして微笑んだ。


「ええ。あなたはわたくしの声に“応える”ことができますわ」


 その言葉は、兵器に対してではなかった。

 番号でも、商品でもない。

 “ひとりの存在”として語りかける声。


 その瞬間、F01の瞳の奥で、気づかれないほど小さな揺れが生まれた。


 ごく微弱な反応。

 クラリスだけが、それに気づいた。


 周囲の空気が凍りつく。


「……立った……?」


「三年……ずっと動かなかったのに……」


 奴隷商たちが驚きを隠せない中、クラリスだけが動揺を見せず、淡々と尋ねた。


「あなた。名前は?」


 F01の喉がゆっくり震え、記憶の中に残された情報を読み上げる。


「……コードネーム。ファントム・ワン。自由連合アルブレア軍DOLL部隊所属」


 倉庫中がざわついた。


「返事した……!」


「まともに動くのかよ……!」


 クラリスは静かに告げる。


「その名は今日で終わりです」


 ざわり、と空気が動いた。


 クラリスのまとう“白”だけが、倉庫の闇の中で変わらず揺らめいている。


「檻から出なさい。歩けますわね?」


 F01の身体が命令を解析し、動作へ移行する。

 枷の音が引きずられ、倉庫に乾いた音が響いた。


 奴隷商が慌てて叫ぶ。


「お、お嬢様! その鉄球じゃ動けませんって! 鍵を……!」


「持ってきなさい」


 金属が軋む音。

 ひとつ、またひとつと古い鍵が回されていく。


 最後の枷に手を伸ばしたとき、奴隷商たちは息を呑んだ。


「お、お嬢様……! 危険でございます、わたくしめが――」


「結構ですわ。これは、わたくしが開けます」


 静かだが、強い意志を感じる声音。


 錠前が外れる音が、倉庫の奥に乾いて響いた。

 重い枷が床へ落ち、鈍い音を立てる。


 F01は自由になった四肢を確認する素振りすらない。


「……ついて来なさい」


 F01は一度だけクラリスを見て、前へ歩いた。

 店主も奴隷商も誰も声を出せないまま、二人の通り道を空ける。

 闇市の中、白が黒を連れて歩くような光景。


 外の空気は薄く、静かで、わずかに冷たかった。

 クラリスは馬車の扉を開け、F01へ命じた。


「乗りなさい」


 F01は従い、無駄のない動きで乗り込む。

 姿勢は整っていたが、硬さはなく、視線はただ前を見ていた。

 呼吸のリズムだけが、静かにそこに“せい”を示していた。


 クラリスが向かいに座り、扉が閉ざされると同時に馬車が動き出した。

 車輪の音が一定のリズムを刻む中、クラリスはF01を見つめ、静かに言った。


「あなたは“ファントム・ワン”ではありません。それは記号にすぎません」


 F01は動かず答える。


「呼称認識、なし」


 クラリスは一度目を伏せ、やわらかく告げた。


「……“カレン”。今日から、あなたはカレンです」


 F01――カレンはその名を解析し、“識別”として上書きする。


「……カレン。呼称確認」


 クラリスは微笑んだ。


「ええ。あなたはわたくしが選んだ“人”です。捨てられた兵器ではありません」


 カレンの視線が、ほんのわずかに揺れた。


 馬車は闇市を離れ、白い屋敷へゆっくりと向かった。



(つづく)

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