5.これは喧嘩なのか、新手のイチャイチャなのか
マコトは対面に座る女性へ顔を向けながらも肩越しに後ろの風景を見ていた。対面に座る女性は自分の性格だとか自分の趣味とかを話題に盛んに口をうごかしていたが、その内容はマコトの耳に入ってこないでいた。
古参の看護師からしつこく勧められていたお見合いの席。彼には結婚する気など毛頭なかったが、リエと一週間の共同作業をすることによって、他人とコミュニケーションをとる自分自身の拒否感が薄らいでいるのではと考えていた。もしかしたら自分にも普通の人生を送るチャンスがあるのかもしれない。そう思えるくらいリエとの共同作業はマコトの心に変化をもたらしたのだ。
そんな背景もあったのか今回は断り切れず、自分へのテストの意味でこのお見合いを承諾した。古参の看護師は喜んでいたが、マコトはその席へ座った瞬間に後悔した。やはり無理だ。相手が話している内容に興味もないし理解もできない。極端に言えば、相手が同じ種の生物と思えないでいた。リエとはまともに話せたのになぜなのだろうか。
佐久平から帰京したマコトは東京駅でリエと別れた。彼女は警視庁へと叫びながらタクシーに飛び乗るとマコトを振り返りもせず行ってしまった。その晩彼女から電話があり、彼女の説得で小規模ながら捜査チームが編成され本格的な捜査が始まることを知った。
『でもね……マコト先生。これから正式な本庁の捜査になるから、以後は一般人を捜査に巻き込むことはできないみたいなの……』
そうなのか……。マコトが熱くなっていた狂気を繰り返す犯人捜しが、いきなり幕を下ろすことになってしまった。普通に考えればもっともな話なのだが、本音のところではリエに突き放されたような気分だった。
そもそも自分はなんでこんな犯人探しに夢中になっっていたのだろうか。子どもを守る正義感?いやいやそんなはずはない。今まで何のスポーツや芸術、そして趣味に情熱を燃やしても自分の狂気性を決して忘れることはできないでいた人生だった。だがこの犯人探しでは、犯人に近づき彼の狂気の影がリアルになる従い自分の狂気が薄らいでいくような錯覚を覚えることができた。子どもを守りたいという偽りの正義感のマントで自分を覆うことで、彼はしばらくの間は脆弱ながらもちょっとした安心感を抱くことができていた。
だがリエがマコトの家から捜査資料を引き揚げてから2週間が経った今、マコトはそれ以前となんの変わりもない自分を自覚せざるを得なかった。結局自分の狂気性におびえながら過ごす日々。何も起きないように、無気力にただ自分の性欲と命の時間が尽きるのを待つ人生。
「市原さん……市原さん」
「えっ?」
彼は目の前に座る女性から問いかけられて今の状況を思い出した。そうだった、古参の看護師のお節介でお見合いをしているのだった。
「嫌ですわ、聞いてらっしゃらなかったんですか?」
「す、すみません」
「市原さんは今の診療所をお継ぎになるのですよねとお聞きしたんです」
「ああ、そういうことですか……ええ、父が引退すればそういうことになるでしょうね」
相手の女性はマコトと付き合うことより、ゆくゆくは診療所の院長になる医師と付き合うことの方に関心があるようだ。
「もし……市原さんが家庭をお持ちになったら子供は何人くらい欲しいとお考えですか?」
「こどもですか……」
現実には自分の子供を持つなんて考えたこともない。というか考えるだけで恐ろしい。自分は自分の血を分けたこどもを前にしてどうなってしまうのだろうか。やはり性的興奮を得るのだろうか。そんな鬼畜が父親になって良い訳がない。あらためて自分はペドフィリアという狂気を持つ人間であることを呪った。
リエは自分が狂気の持ち主であることを知っているのに、なぜ自分との共同作業を平気で進めることができたのだろうか。捜査に必要だったからとはいえ、リエが自分に接するその態度には何の嫌悪や躊躇もなく、時には好意すら感じられる信頼感を自分に示していた。もしかしたら自分が恐れるほど他人は自分を忌み嫌うわけではないのか……。リエの態度はそんな錯覚を起こさせる。
しかし勘違いしてはいけない。マコトは慌てて自分自身に言い聞かせた。彼女は反社会的な異常者を相手にする仕事柄、犯人を捕まえるためには自分みたいな怪物とも平気で付き合える特別な神経の持ち主なんだ。今ここで目の前の女性にカミングアウトしたらどうなるだろう。彼女はきっと侮蔑と恐怖の視線を自分に向けてこのレストランから逃げ出し、大勢の人々を引き連れて自分を抹殺しにくるにちがいない。
「こどもは……持つ気がないというか……」
「何言ってんの!だったらなぜ私のおなかの中にあなたのこどもがいるのよ」
マコトの背からいきなり女性の大声が聞こえてきた。驚いて振り返るマコト。
「あっ!リエさん。なんで……おなかのこどもって……」
マコトのお見合い相手は、見知らぬ女性の突然な登場に驚いたものの、やがておなかをさすりながらマコトの横に仁王立ちする女性が言っている意味を悟る。
「市原さん!そういうことなんですか?」
「えっ?いや、そうじゃなくて……」
「馬鹿にしないでください!」
怒った見合い相手は、狼狽するマコトの顔にコップの水を見舞うと、席を蹴って出て行ってしまった。慌てながらも彼は、この程度の理由じゃ見合い相手が大勢の人を引き連れて殺しに戻ってくるほどにはならないと、複雑な安心感に浸っていた。
一方、見合い相手の後ろ姿を見送ったリエは、ニヤニヤしながら空いた席に座る。今更であるが、リエの目の前のテーブルに注文していた料理が運ばれてきたのだ。
「わあ、久ぶりに見るまともな食事。誰も食べないならいただくわよ」
リエは図々しく食べ始めた。忙しくナイフとフォークを動かす彼女を見つめながら言葉を失うマコト。
「ところでずぶ濡れのお顔、拭いた方がいいわよ」
料理を頬張りながらおしぼりを渡そうとするリエの手から、乱暴におしぼりを奪うとマコトは彼女に抗議する。
「なんでこんな韓流ドラマみたいな嘘ついて相手を怒らせるんです!」
「だって……話がなかなか終わりそうにないから」
「用があるなら電話すればいいじゃないですか」
「スマホの電源切ってたでしょ」
そうだ。彼はお見合いの相手に失礼かと電源を切っていたことを思い出した。
「診療所に連絡したらここだって教えてくれたから……まさか、お見合いしてるなんて、びっくりしたわ」
「びっくりはこっちですよ」
「それに……私の知らないところでお見合いするなんて言語道断だわ」
「どうしてです?僕が何しようとリエさんには関係ないでしょ」
「だから……いや、そもそも結婚もする気がないのにお見合いするのは相手に失礼でしょ」
「確かにそうかもしれないけど……」
痛いところを突かれたマコトは形勢が悪くなる前に話題を変えた。
「最後に東京駅で別れてから捜査は進んでるのですか?」
「進んでいるというか……」
リエはマコトの質問にまともに答えず欠食児童のように料理を頬ばる。その様子を見ながらマコトは、とにかく今までまともな食事や睡眠がとれていないほど捜査に動いていたのだろうと理解した。
ようやくリエのナイフとフォークが止まり、彼女の落ち着く頃合いを見計らってマコトは再度問いかけた。
「ところで、いまさら一般人の僕に何の用があるんですか?」
「そうでした!」
リエはそう言うと強引にマコトの手を取った。暴漢に襲われた傷はすっかり回復しているようだ。
「今は説明をする暇がないの。すぐ本庁に同行して」
「ええっ?本庁?」
リエに腕をつかまれ店を出たマコト。刑事に逮捕連行されるのはこんな感じなのか。マコトはリエのたくましい腕に身動きが取れないほどがっちり固められてそんなことを思っていた。
マコトがリエに連行?されたのは本庁の会議室で、地味な服装で重い息を吐く男女の一団が彼を待ち構えていた。
「すみません。突然お呼びだてして」
一団の中で年長と思われる男性が、いかにも人工的な笑顔を浮かべてマコトに挨拶する。その横に座っている女性は見たことがあった。そうだ、以前リエを治療した病院で会ったリエの先輩だ。
「私は今回の捜査チームを束ねているチーム長の高岡です。それに副長の萩原」
萩原の性格を知るマコトは身を固くして頭をわずかに下げるのみであった。
「他は今回の捜査メンバーです」
会議室のメンバーはそれぞれマコトへ精一杯の歓迎の微笑みを投げかけるが、どんなに人懐っこい笑顔を作ったとしても、日頃凶悪な事件や悲惨な事件現場に接しているであろうメンバーからは、悪を許さぬ分厚いオーラしか感じられない。そんな中にマコトが投げ込まれたのだ。ここへ到着する前にリエから、彼に関することは整形外科医であること以外は何も知らないと聞かされてはいた。しかしこんな人たちの前では、ペドフィリアとしての自分の狂気がすぐ看破されてしまうのではないかと心底恐ろしかった。
「吉岡もこのチームのメンバーですけど紹介する必要ないですよね。先生とお付き合いしてるとか……」
高岡の紹介にリエがマコトの腕に自分の腕を通し大げさにマコトに身を寄せる。
「そうなんです!ラブラブなんですよね、マコト先生」
マコトはリエの奇行に驚いたものの、彼女のその腕から体温や柔らかさを感じると少し落ち着きを取り戻した。リエは彼の恐怖感を察知して緊張を和らげようと少し大げさな行動をとったにちがいない。
「吉岡!ラブラブはわかったけど、ここは職場よ。ちょっとは自重しなさい」
「はーい」
萩原の注意にリエは頭を掻きながら身を離した。そんなやりとりで会議室のメンバーが爆笑するも、マコトはみんなにわからぬよう机の下でリエの手を握った。これから何が起こるかわからないが、とにかくリエを傍に感じていたかったのだ。
「ところで、自分がこの席に呼ばれてた理由はなんでしょうか?」
ひと通り笑いが治まるとマコトが恐る恐る高岡に尋ねる。
「ああ、すみません。ご説明が遅れまして。実は私たちは……」
高岡は黒板の一番上に書かれた捜査チームの名前を指さす。黒板の上部には大きな文字で『女児連続失踪事件』と書かれていた。
「ここにいる吉岡の捜査で判明した連続性のある女児失踪事件を捜査しているチームでして……」
その初期捜査にマコトがかかわっていることはみんな知らないらしい。リエは彼を申し訳なさそうに見ていたが、実際そのことを主張すれば彼の性癖も世間に曝されてしまう。仕方ないことだ。『いいんだ大丈夫、気にしていないよ』と目でサインを返した。高岡は説明を続ける。
「……で捜査の結果、イオンモールのイベントスペースで実施されていたあるイベントが大きく関わっていることが判明したんです」
そうか、イオンモールでやっていたイベントが失踪事件を関連付けるカギだったんだ。マコトは改めて、リエの顔を見つめて『よく調べ上げたね!』のサインを送る。リエは嬉しそうだった。
「それで……そのイベントというのは?」
「ロコモ予防推進プロジェクトが主催する『ロコモを知る教室』です」
「それって確か市民向けのロコモティブシンドローム予防啓発イベントじゃないですか?」
マコトは自分の専門に近しい言葉が出てきて思わず声が出てしまった。
「さすが整形外科の先生ですね。日本整形外科学会もからんでいるのでご存じなのも当然かもしれませんが……」
ロコモティブシンドロームとは、運動器の障害や、衰えによって、歩行困難など要介護になるリスクが高まる状態のことである。一言で言えば運動器機能不全のことで、日本整形外科学会が2007年に提唱した呼称である。同学会やそれに関連する団体がその名称のもとで予防啓発を行っていたのだった。高岡が言葉を続ける。
「このイベントはロコモに関連する製薬会社や企業をスポーンサーとして、モールへ訪れる一般市民にロコモ度チェックの体験やロコモ予防体操の紹介などを通してロコモの予防啓発をしているみたいですね」
「それなら自分も学会報で知ってます」
「このイベントの開催会場と開催日が、失踪届のあった場所・日程と重なるんですよ。つまりそのイベントがあった時に付近で女児の失踪届が出されているのです」
マコトはその事実に絶句した。そうか、だからコロナ禍でイベントを休止していた期間である2020年から2022年の3年間、事件は発生せず間があいたのか。マコトは横に居るリエを見た。彼女は軽くうなずいていた。
「では……推進プロジェクトの中に犯人がいると?」
マコトは意気込んで高岡に問いかける。
「いや、そう考えるのは早計ですよ。市原先生。もちろん我々もその可能性を含みつつ極秘でイベントの裏を取りました」
高岡が黒板の前に書かれた4名の氏名を指さす。
「イベントには学会の人間は立ち会っておりません。毎回立ち会うのはこの4名です」
高岡の言葉の後を継いで萩原が資料を読み上げた。
「1人目は三室哲平。男性。45才。プロジェクトの事務局からイベントの運営を委託されている代理店の営業です。2人目は安田俊樹。男性40才。三室からイベントの制作運営の発注を受けているプロダクションのチーフディレクター。3人目は石津泰秀。男性。67才。主にイベントの設営を担当しているアシスタントディレクター。最後のひとりは吉岡政紀。男性。40才。イベントの運営担当のアシスタントディレクターです。いずれの人物も小児性犯罪の犯罪経歴はありません」
萩原の説明を受けて高岡は彼らの写真が貼られた黒板に仁王立ちして言った。
「イベントは毎回木曜の夜仕込みで、金曜から日曜の3日間開催され、日曜中に撤去します。もし本当に女児の連続失踪事件にこのイベントが関係あるのだとしたら、我々はこの3日間のイベントに立ち会うこの4名の中に犯人がいるのではないかと考えています」
高岡の言葉に煽られたように、この会議室のすべてメンバーの瞳に邪悪を許さぬ炎が見え隠れしていた。この2週間、彼らは相当な執念を持って調べ続けたに違いない。よく見ればリエの眼の下にもうっすらクマが出ているように見える。マコトは寝食を忘れてここまで調べ上げた吉岡やチームの捜査努力に頭が下がった。だがなぜ自分はこんなジャスティスリーグに呼ばれたのだろうか。
「で……自分がここに呼ばれた理由は?」
マコトの問いに高岡の声質が若干ソフトに変わった。
「イベント中に来場者の質問に個別に応える『ロコモドクター相談コーナー』が有るそうですね」
「自分はよく知りませんが……」
「調べたところ、毎回そのコーナーにはプロジェクトからロコモドクターが派遣されて、来場された一般市民の相談を受ける企画のようなのです」
「それで?」
「……市原先生もロコモドクターですよね」
高岡が諮るような眼で誠を見つめた。
「ええ、自分も登録していますが」
「……次回のイベントが2週間後、富山県高岡市にある『イオンモール高岡』で実施する予定なんです」
そうか高岡市の子どもたちに危険が迫っているんだ。マコトはそんな懸念とともに嫌な予感がした。
「市原先生。そこへロコモドクターとして行ってもらえませんかね」
高岡の思わぬ依頼に絶句するマコト。無理やり自分を落ち着けて彼は言った。
「行ってどうするんですか?僕に犯人を押さえて、犯行を止めるなんてことできるわけないでしょ!」
「いや、先生にそんなことお願いするつもりはありません。実はこの手の事件は現行犯逮捕でなくてはなかなか立件が難しくてね。先ほどの4名にはしっかりと監視を付けますが、イベントの開催中の動きに関しては監視対象の動きが拠点化しているので、監視が目立って対象に気付かれやすいのです。過去には尾行に気付かれた犯人を半殺しにした黒歴史もありますし……」
高岡はそれとはなくリエに目をやった。彼女はニヤニヤしながらうつむいていた。
「市原先生にはできる範囲でイベント実施会場内での彼らの動きを見てもらい、イベント会場から抜け出すなど動きがあったら報告してほしいのです」
整形外科医に潜入捜査をしろだと!マコトの知っている映画の範囲では、潜入捜査員の末路にろくなことはなかった。
「そんな事……急に言われても……自分にできるかどうか……」
彼は困ったようにリエに助けを求める。
「それに、2週間後なら既に派遣される先生は決まっているだろうし……」
そんな彼を突き放すようにリエが言った。
「確かプロジェクトの理事にマコト先生の大学の先輩がいるわよね」
「えっ、そんなことまで調べたの?」
「理事に直接電話して頼めば何とかなるわよ」
「……だけど……向こうは覚えているかどうか……それに」
「それに何よ!」
診療所での診察では、ある程度対面する患者の属性をコントロールすることができていた。しかし、オープンな場所で無差別に訪れる人々と面会して相談に乗るなんて、いつ自分のパンドラの箱が開いてしまうかわからない。いつまでも逡巡するマコトの態度に、ついにリエが切れて佐久平での彼の言葉を持ち出した。
「マコト先生!以前お蕎麦屋さんで『僕は何だってするよ』って私に言ったことば、嘘だったとは言わせないわよ!」
マコトの手を強く握り返してのリエの一言に、当の本人であるマコトはもう抵抗ができなかった。リエは説得したつもりだったが、周りは強要で相手に承諾させたとしか思えない。ふたりの様子を見ていた周りのメンバーは、仮にこの二人が結婚したとしたなら、きっとそれは彼のプロポーズではなくリエの強要によるものであろうと、目の前の男に多少の哀れを感じていた。
富山県高岡市にある『イオンモール高岡』は2002年9月に開業した北陸最大のショッピングモールである。 北陸新幹線の新高岡駅へ近い場所に位置してるとはいえ、まだまだ住宅の狭間に畑や空き地も垣間見ることができる振興の街である。敷地面積は約20万5千平米、 延床面積約14万平米。その中の専門店街のある1階のフロアに東館 セントラルコートという約百十平米ほどのイベントスペースがある。マコトが向かったイベント『ロコモを知る教室』はここで行われる。
北陸新幹線で開幕当日に会場入りしたマコトは、スタッフたちに笑顔で迎えられた。
「市原先生、遠いところにおいでいただいてすみません」
口火を切ったのは三室である。
「学会の事務局からお聞きしたのですが、お住まいが東京なのに、趣旨に賛同して志願していただいたのですね。ありがとうございます」
三室の口調は親しげでソフトだった。しかし、もしかしたら彼が狂気の持ち主かもしれないと思うと、マコトも身を固くせざるを得なかった。
「うちのスタッフを紹介します。まずチーフディレクターの安田」
会釈する彼は成人のクラブで草サッカーを現在も続けているらしく長身で体躯のしっかりした男だった。
「そして、アシスタントディレクターの吉岡」
彼のそっけない挨拶とその風貌で、マコトは彼が秋葉原に徘徊するようなオタク系ニートにちがいないと想像した。
「同じく主に設営を担当するアシスタントディレクターの石津です」
ひげを蓄えて髪の毛の薄い初老の男が笑顔で挨拶してきた。
「自分は本日のオープンを確認したら本日中に帰京しますがよろしくお願いいたします」
石津と名乗る男は少し枯れた声で言った。そうか、この男は明日にこのイベントから姿を消すのか……。この得体のしれない笑顔を作る4人の男たちに囲まれながらも、現時点では時間的空白が多く作れるこの石津という男がいちばん怪しいのではとマコトは思った。
「では早速ですが、相談コーナーの段取りを……」
「先にひとつだけお願いがあります」
マニュアルを基に進行の説明をしようとした安田をマコトが遮る。
「私はどうも子どもの五月蠅いが苦手で……相談の邪魔にもなるのでコーナーにはできるだけ子どもを入れないようにお願いします」
マコトにとっては切実なお願いなのだが、それを聞いたスタッフたちはよほど子ども嫌いな先生なのだろうと勝手に解釈していた。
イベントがオープンした。金曜の平日だというのにイベントは盛況である。会場がイオンモールということもあるので家族連れが多いのだが、相談希望者となると俄然高齢者が多い。ペドフィリアを持つマコトにはせめてもの救いだった。
相談コーナーはあくまでも相談であって、診察ではない。医療法では 医行為の行われる場所は病院,診療所などに限られると定めている。だから結局病名や治療方法も言わず最後は『医療施設でしっかり診察してもらってください』で終わる。相談者はちょっとガッカリした顔で相談コーナーの席を立つのだが、実際の医師が来ていると知ると相談希望は後を絶たない。
多くの相談希望者を捌きながら、かつスタッフの動向を監視するのは結構ハードな仕事だった。一日目が終わり、ぐったり疲れても自分のホテルには戻れない。捜査チームの拠点となっているホテルへと急ぎ、今日の状況の確認ミーテイングをしなければならないのだ。今もイベントスタッフの監視は行われており、高岡、萩原、リエの3人がホテルの一室で待ち構えていた。
「萩原、実際の彼らを見たところで、一度プロフィールを見直しておこうか」
口火を切ったのは高岡である。
「はい」
萩原が高岡の指示にプロフィールを読み上げた。
「まず営業の三室。既婚ですが子どもは無し。次にチーフディレクタの安田。、既婚で2男1女の3人のお子さんがいます。ADの石津はバツイチで前の奥さんとは二人の息子がいます。最後に同じADの吉岡。未婚40過ぎまで独身を貫いてます。石津、吉岡ともこの仕事の為に安田から召集された外部スタッフのようです」
「既婚者は容疑者としての可能性は低いのかしら……」
リエのつぶやきにマコトが反応する。
「既婚者だからと言ってペドフィリアを持っていないとは言い切れないよ。それに子どもがいたとしても同様だ。ペドフィリアは確かに先天性な要素が強いが、結婚後や出産後などに何かの拍子で覚醒することもあるのだから」
「へぇー、そうなんだ」
「ところで先生はなんでそんなにペドフィリアにお詳しいんですか?」
マコトの解説を拝聴しながら高岡が彼に尋ねた。
「えっ?それは……」
高岡の問いにとまどうマコトをリエが救った。
「マコト先生は心療内科も勉強してるから当然ですよね……そんなことより、もし今回も犯人が動くとなると初日にあたる金曜の今日に狩場、いや犯行現場の下見は済ませているはずですよね」
「自分の見る限りイベント開催中にそれぞれ45分程度の昼休みを取る程度で長時間姿を消したスタッフはいませんでしたよ」
マコトが今日の状況を報告するとリエが早速反応する。
「もしかしたら、下見は夜にしているかも」
「リエさん、狩人は下見の時間を大切にするものだ。狩りをする時間のその現場の獲物の状況を知ることが大切なのでね」
「そうか……」
考え込んでしまったリエを見ながらマコトが高岡に言った。
「あくまでも推測なんですが……自分としては今日オープンを見届けて帰京した石津という人物が一番時間的余裕があって下見できる可能性が高いのでは……」
「市原先生もそう思われますか……実は石津に着けた監視からの報告によると彼はまだ帰京の電車に乗っていない……」
「えっ?それはいったい……」
「どうも違うホテルにチェックインして、彼はまだこの市内に留まっているようなんですよ」
それを聞いたマコトの膝が震えだした。
「リエさん。僕を送るなんて口実で、実際はこれを食べたかったんじゃないですか?」
『ラーメン一心 富山駅前本店』のカウンター席。ブラックラーメンを目の前に、マコトが彼女に言った。状況確認ミーティング終了後、マコトを送っていくと言いながら、リエは遠慮する彼の腕を取って市内の夜街に出ていたのだ。
「一般市民の安全を図るのは警察の使命でしょ。しかも今回の捜査では特別に、拳銃の携帯も許可されてるんだから万全よ」
リエはそう言いながらもマコトには一瞥もくれず、それこそ一心に麺をすすっていた。
「潜入捜査ってやつはどうしても僕には苦手だなぁ……」
マコトがそう切り出しても、リエはブラックラーメンを啜るのに忙しく彼の話など聞いていないようだ。マコトは仕方なく黒い汁から麺を箸で持ち上げてボヤキ始めた。
「今日容疑のかかった人たちに直接会ったわけだけど、この中に犯人がいるかと思うと緊張して普段通りに話もできないんだ」
マコトは箸を置いてリエに正対する。
「ねぇ、リエさん。こんな時はどうしてるの?」
問うたマコトの耳にはリエが麺を啜る音しか聞こえてこない。しばらくして、リエは器を両手で落ち上げて最後の汁を飲み込み器をカウンターの上に置くと、やっと満足したのか、げっぷともため息ともいえるような息を吐きながら口を開いた。
「捜査でね人と話す時は、この人が犯人である証拠を見つけてやろうと性悪説で相手に対応しがちなのよね。だから緊張するのよ。逆にこの人が犯人でない証拠を見つけてあげよう、つまり性善説で接すれば、案外楽に話せるものなの。その方が情報を得られやすいし、かえって見逃していたことに気づいたできるものなのよ」
「ふーん、そうなんだ……」
なるほどといった表情を浮かべてラーメンの器に向き直り、マコトはレンゲで麺のスープを啜り始めた。一方、器を空にしたリエは、暇を持て余してあたらめてこの男を見つめていた。
「そんなに見たって、僕のラーメンはあげませんよ!」
マコトの横顔を眺めながら、リエはこの男の『可愛さ』に思わず頬が緩むのを感じていた。ペドフィリアに悩む男性は彼以外にもいる中で、なぜ事件の相談相手に彼を選んだのか。確かにリエが彼に近づいたのは捜査の為ではあった。だが、本当に理由はそれだけだったかと問われればきっと言葉を濁すに違いないと自覚していたのだ。
だがこの時、彼に近づいた別の理由をわかった気がした。この男は、理屈抜きで可愛いのだ。たいがい男性が女性を可愛いと愛でるものだが、女性が男性をこれほど可愛いと感じることは奇異なことであろうか。今更、『あなたが可愛いいから、事件の捜査にこつけて診療所の帰り道で待ち伏せしました』などとコクルつもりもないが……。実際のところ、まんまとマコトのマンションへ出入りできる仲になったリエは、彼と過ごした日々が積み重なるにしたがって、この男を可愛く思う気持ちが膨らんでいたのは間違いがなかった。
リエの思いも知らず、マコトはラーメンの器を抱え込んだ。
「だから、そんなに見たって、僕のラーメンはあげませんよ!」
マコトの仕草を見て、ついにリエの秘めた感情が爆発した。こんな可愛い男を放ってはおけるわけないじゃない。
「ああ、リエさん。何を?」
リエはマコトの後ろに回るとバックハグよろしく器と箸を持つ彼の手を握りしめる。
「あなたがあたしを挑発したからいけないのよ!」
リエがマコトの手を使って彼の麺を自分の口に運ぶ。自分の麺を奪われてなるものかと、マコトは全力で抵抗する。しかし腕力に勝るリエは、無残にも残った麺をすべて平らげてしまったのだ。店内の客をはじめ従業員たちは、これは喧嘩なのか、新手のイチャイチャなのかと、唖然として二人の姿を見つめていた。
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