社内ゴルフパワハラ上司をぶち倒せ 〜〜ミスショットを笑うやつのスコアと人生を終わらせて逆転ざまぁ〜

@pepolon

第1話 炎天下コンペと「実況タイガー」の洗礼

 集合時間の十五分前なのに、クラブハウス前の空気はもうぬるかった。アスファルトの上で陽炎みたいな揺れがちらちらしていて、俺はレンタルクラブ一式の入ったキャディバッグを持ち直す。


 ゴルフ場なんてテレビのツアー中継でしか見たことがない。画面の中のプロたちは日陰を歩き、ルーティンをこなして、涼しい顔でフェアウェイを歩いていた。現実は、駐車場から玄関まで歩いただけでシャツの背中がじっとり貼りつく灼熱地獄だ。昨日ネットで読んだ「夏ゴルフの注意点」が頭の中で勝手に再生される。


 ――帽子必須、日焼け止め必須、水分と塩分はこまめに。

 ――初心者はドライバーを振り回すな、まずは7番アイアンで刻め。


 知識だけは一人前だが、それを実際にやらせてくれる空気かどうかは、まったく別問題だった。


「おう、経理の新人くんやんけ、佐倉やったな」


 虎柄のポロシャツが回転ドアから飛び出してきて、低くよく通る声が耳を殴る。虎谷次長。社内で「タイガー」と呼ばれている男だ。元高校球児で営業部のエース、社内ゴルフコンペ連続優勝者。今日の“主催者”にして“処刑人”。口癖は「ワイはタイガーや! 」


「はい、佐倉です、今日はよろしくお願いします」


 頭を下げた瞬間、肩をバンバンと叩かれる。重い。普通に痛い。骨まで響く。


「堅いなあ、もっとリラックスせえや、新人くん。今日は社会人ゴルフの洗礼デーやで。安心せえ、ワイが直々に指導したる」


 指導、という単語がやけにねっとり聞こえる。周りを見渡すと、営業の先輩たちが三々五々集まってきていた。みんなそれなりにいいクラブを持ち、日焼けした腕で余裕の笑みを浮かべている。その輪の中で、俺のレンタルセットだけが露骨に「初心者です」と自己紹介していた。


「ほな全員、こっち並んでや。ルール説明いくで」


 クラブハウス横のスペースに全員が集められる。まだ朝だというのに、日差しは強く、帽子がない頭のてっぺんにじりじり刺さる。帽子、買っておけばよかったかもしれない。


「まず基本ルールは公式どおりや。OB出たら打ち直し、バンカーではクラブを砂につけたらアカン。細かいとこはキャディさんが教えてくれる。せやけどな、うちのコンペには特別ルールが三つある」


 嫌な予感が、首筋を流れる汗と一緒に背中へ落ちていく。


「一つ目。カートは荷物用や、人間は歩く。社会人の足腰は十八ホールで鍛えるんや」


 わっと笑いが起きる。真ん中あたりで誰かが小さく「マジか」と呟いたが、すぐ笑い声に飲まれた。ネット記事の「夏は無理をしないでカートを使おう」という一文が、音もなく頭の中から消えていく。


「二つ目。ハーフ終わるまで、水は我慢。喉の渇きも集中力に変えるんが真のビジネスマンや。炎天下で顔色一つ変えへんやつが、ほんまに数字持って帰ってくるんやで」


 さっき読んだばかりの「喉が渇く前に飲め」が、また一つ、脳内シュレッダーに吸い込まれた。熱中症って、集中力で何とかなる類いだっけ。経理として、医学と会計の区別くらいはつけたい。


「三つ目。今日の新人くんには、特別メニューや」


 嫌な予感が、今度ははっきりと言語化される。俺の名前が呼ばれる未来が、すでに見える。


「経理の佐倉くんにはな、一ホールごとにワイが実況解説を付けたる。ミスショットしたらその場で原因分析と人格評価、サービスで付けといたるさかい、感謝しいや」


 周囲から笑いと、微妙な同情のうめきが混ざったような音が上がる。人格評価、という言葉だけ妙に耳に残る。ゴルフのレッスン動画で聞いたことは、一度もない単語だ。


「ほなみんな、楽しんでいこか。仕事と一緒や。遊びも全力でやるのがうちの流儀や」


 全力で遊ぶ、の中身が問題なんだよな、と心の中でだけツッコむ。声に出した瞬間、今日のスコアが物理的に悪化しそうだった。


 スタートホールへ向かう道は、思ったより長かった。キャディバッグを肩に担ぎ、緩やかな坂を登っていくと、遠くに最初のティーイングエリアと、その向こうに果てしなく続くフェアウェイが見えてくる。空は青く、芝はきれいに刈り揃えられ、景色だけ切り取れば確かに爽やかだった。問題は、空気が熱湯みたいに重いことと、足元の芝が思った以上に柔らかいことだ。スニーカーの裏から、ぐに、とした感触が伝わる。


 スタートホールはやや打ち下ろしのロングホール。左に林、右にバンカー、その向こうにラフ。フェアウェイは真ん中だけ細い帯のように伸びている。「初心者はまず短いクラブで刻め」というネット記事の文が頭をよぎる。7番アイアンで100ヤードくらい打てれば十分、と書いてあった。理屈は分かる。理屈は分かるが、今ここで7番を持った自分の姿を想像すると、色々なものが折れそうでもある。


「最初はワイからいこか。勉強さしてやるわ」


 虎谷が、迷いゼロの動きでドライバーを抜き取る。構えた瞬間、さっきまでざわついていた周囲が、ぴたりと静まった。ふざけたポロシャツからは想像できない、無駄のないスイング。しなやかに振り切られたヘッドがボールを捉え、白い球は鋭い弾道でフェアウェイのど真ん中に突き刺さるように落ちた。


「はいワンオン待ちやな、今日もええ感じや」


 プロっぽい。悔しいが、本当に上手い。これを見せられたあとで「初心者なので7番で刻みたいです」と言えるメンタルの持ち主が、世の中にどれくらいいるのか知りたい。少なくとも、今の俺にはない。


「次、宮城」


 名前を呼ばれて、一人の女性社員が前に出る。営業の宮城さん。噂ではゴルフ経験者らしい。彼女は静かにドライバーを選び、深呼吸してからボールの後ろに立った。スイングはコンパクトで、さっきの虎谷ほど派手ではない。それでもボールはまっすぐフェアウェイ左寄りに飛び、十分すぎる距離を稼いだ。


「ナイスショットや宮城。ええ嫁になれるで」


 周囲がまた笑う。彼女は苦笑いを浮かべただけで何も言わない。その表情に、一瞬だけ何か引っかかるものを感じたが、考える前に自分の名前が呼ばれた。


「ほな新人くん、出番や。経理の底力、見せてもらおか」


 貸しクラブの中から、俺もドライバーを抜いた。7番アイアン、という選択肢が一瞬頭をよぎったが、「ここで短いクラブを持つ=小心者」という図式が脳内会議で満場一致可決されてしまった。人間のメンタルは、案外単純にできている。ティーアップされたボールが、自分を見上げているように見える。右足、左足。スタンスの幅。グリップ。昨日見たスイング解説動画のポイントを、頭の中で必死にチェックする。ゆっくり引いて、トップで止めずに、そのまま振り下ろす。八割の力で。八割で――。


「……っ」


 クラブヘッドがボールのほんの少しだけ上を通り過ぎた。乾いた空振りの音が、やけに大きく聞こえる。周囲が一瞬静まり返り、次の瞬間、虎谷の声が落ちてきた。


「はい出ましたあ、ノーカウントのオープニング空振りや。これがな、社会人初心者の“様子見スイング”や。今の一本で、こいつのメンタル持ち点が三割減ったで〜〜」


 笑いが起きる。どっと、というより、じわじわ広がるタイプの笑いだ。俺の耳には、自分の心臓の音のほうが大きい。


「気にせんでええで新人くん。新人の空振りはスコアに入らん。どんどん振っていこか。数字は後からついてくるんや」


 数字は後からついてくる、という言い回しに、なぜか経理として理不尽さを覚える。数字は結果であって、後から勝手に都合よく整うものではない。だが今、俺に整えられるのは自分のグリップくらいだ。二度目のスイングで、ようやくボールは前に飛んだ。飛んだ、という表現が許されるかは微妙なところだが、とりあえず球はティーイングエリアから脱出した。右に低くすっ飛んでいき、ラフ手前の傾斜に転がって止まる。


「はい〜、経理らしい“帳尻合わせショット”入りましたあ。距離も方向も足りてへんけど、とりあえず数字上は前進しとる。こういうのがな、決算書で一番困るタイプや」


 また笑い。さっきよりも少し大きい。俺は作り笑いを貼りつけながら、内心では「決算書にゴルフは載らない」とだけ反論しておいた。声に出す勇気はない。


 フェアウェイへ向かって歩き出すと、芝の柔らかさがさっきよりもはっきり足裏に伝わる。カートがないので、クラブも自分で何本か持って歩く。バッグは後ろのカート道に置き去りだ。陽射しは高く、風はほとんどない。最初のホールの途中ですでに体力がじわじわと削られていくのがわかる。


「佐倉くん、こういうときはね、ボールまで持っていくクラブは二本、多くて三本にしといたほうがいいよ」


 横を歩いていた宮城さんが、小さな声で教えてくれる。


「状況によって使い分けるから。足りないよりはちょっと多めに。でも、忘れ物したからって毎回バッグまで往復してたら、それだけで体力なくなるからね」


 俺は自分の手元を見下ろす。ドライバーと7番アイアンと、ピッチングを掴んでいたので、慌ててドライバーをバッグに戻し、サンドを取り出した。


「ありがとうございます」

「ううん。あと、暑いから、影があったら必ず影に入って待ったほうがいいよ。ボールの真後ろでずっと立ってるより、ちょっと横の木陰とか。影と水分はケチらないほうが、スコアのためにもなるから」


 役立つ知識が突然現れて、思わずそれだけは素直に胸に刻む。――影に入れ、クラブは二〜三本まで。さっきネットで見たどのアドバイスよりも、体感に近い。


「おーい宮城、新人に甘すぎやろ。甘やかしたら伸びんぞお」


 前を歩く虎谷が、こちらを振り返りながら笑う。


「厳しさが足らんと、スコアも数字も伸びんのや。なあ新人くん、今日一日で、自分の甘さ思い知るで」


 その言葉に、少しだけ背筋が冷たくなった。熱いのか冷たいのか、自分の体がどんな状態なのか、よく分からなくなってくる。まだティーショットを打っただけだ。ゴルフの十八ホールは長い。数字でいえば、今はまだゼロポイントいくつの世界だ。


 けれど、この最初のホールの空気だけで、なんとなく悟ってしまう。――今日一日のスコアは、単なる「初心者の下手さ」だけでは済まない。俺はゆっくりと息を吐いて、ラフに向かって一歩、足を踏み出した。

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