第4話



 クラクションが鳴る。

 

 僕はそこに立っていた。


「はぁっ!」ベルトに憚られてできなかった唾が飲めた。

 

 首にもうベルトは埋め込まれてないし、凹んだ後もない。爪の間に肉も血液も詰まってない。

 

 理髪店のガラスには青い唇で激しい呼吸をする僕の体がいた。

 

 初めて僕じゃない体を見たときと同じ状況。時刻14時50分。周りの人間が着ている服も、車も、太陽だってさっき見たものだ。

 

 どういうことだ?

 

 僕は死んだんじゃないのか。僕は誰だ。なぜここにいる。僕は死んだのか。どうして元に戻るんだ。彼女の変わり様。暴動を理性的に行う市民。戦争はいつ始まっている。この国は誰が運営して統治している。ここはどこなんだ。この体はなんだ。悲惨な少年少女たちはどうなったのだ。ウィンストンとはなんだ。僕の元の体はどこだ。どうして始まった。カズとは誰だ。僕の母親と父親は。全部嘘だったのか。カズとは誰だ。僕は何歳だ。そっちの僕じゃない、本当の僕だ。どうやってここまで生きてきた。裏切り者とはなに。裏切り者を粛清するのは当然か。エカチェリーナとはなんだ。連れ去られたときの男は誰なんだ。家はどこだ。この国はどうなんだ。アンフェミアはどうしてあんなことをした。なぜ戦争は終わらない。敵とは何。


 ガラスに手をつき俯いている。わからないことが多すぎる。


 どうなっているんだ。アニメや漫画と全然違う。もっと簡単に優雅な生活ができるはずなのに。死んでもどこかに行くわけじゃない。変わらずにここに戻されるのか?永遠これを繰り返されるのか?


 なんてひどい世界なんだ。楽天的だった自分がおかしかったのだ。ここにいる意味も、わけも知らない世界が僕の仮説通りに動くことなんてない。僕の足元を転がる紙くずさえも一秒後には襲ってくるのかもしれない。窓ガラスの向こう側の人も急にあのハサミを投げてくるのかもしれない。


 何をしようが最悪の結果になる予感がする。けれどあの死に方はもういやだ。せめて少し悪いくらいの結果にしたい。


 急に殺されたのは法則があったはずなんだ。死んだ理由がある。僕はまだ負けていない。


 ともかくだ周りの人間に擬態しながら情報を集めるしかない。僕は拳を握りしめた。

 

 丸くなった背中を二回小気味よいリズムで叩いてきた。


「カズどうしたの?気分悪い?」

 

 僕を心配そうに背中をさするアンフェミアがいた。さっきまでと同じ服装で僕を見ていた。僕を絞め殺したあの小さな手で僕の鼓動を確かめている。笑顔の裏では『今度はどんな風に殺そうか』とほほ笑んでいるんだ。


 僕はこいつに殺された。間違いない。彼女に出会って二秒半止まっていた心臓と幻に縛られていた脳が急激に動いた。それに応じるように体が熱くなる。ただ一か所あのベルトが食い込んだところだけが冷たい。そこだけ死んでいるような感覚がある。


「うっ、、」僕が知らないものが消化器から逆流して外に出た。ぺちゃぺちゃと地面に落ちる。アスファルトに出た吐しゃ物。なぜ黒いのか。未知の物質を体に取り込んでいたことにパニックを起こしている。


「大丈夫?」彼女は僕の背中をさすり続ける。


「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」死んでいた喉元が息を吹き返したとき僕は走りながら叫んでいた。


 僕は走った。通行人を押しのけて走った。僕とぶつかった誰かが倒れようがお構いなしにただ走った。僕の足元転がってきたサッカーボールも赤信号も無視。逃げた。でも人間として当たり前のことじゃないか。本能が僕を逃げろと言ってくるんだ。僕の生存を脅かす存在から逃げたんだ。


 怖い。痛いのは嫌だ。


 これは逃げるうちに入っていない。ノーカンだ。しょうがない、仕方がない、やむを得ないだろう。誰だって殺された相手からは逃げるのが当り前だ。シマウマが生き返ってもライオンに復讐しに行くわけがないだろう。誰でもやることだ。僕だけじゃない。僕だけなはずがない。


「あぁ、ぁぁ」

 

 なんてみじめなんだろう。むせび泣きながら走る自分を想像してさらに泣けてきた奇行な目で見られている自分はなんてみじめなんだろう。


 上司に怒られて何も言い返せずに辞めた時と重なる。あの日も会社から飛び出してすぐ布団に入った。くしゃくしゃになるからスーツを脱いでと、優しく言ってくれた母親が懐かしい。どうせなら一言くらい暴言でも言ってやればよかったよ。スーツじゃなくて僕を心配してくれよって。


何かにつまずいた。


交差点に体が投げ出される。


車のシールドビームが僕のすぐ真横。


「――       」


 ひどい音が聞こえた。


 世界がぐるぐる回って落ちた。


 一瞬だけ痛かったが、もう体の感覚はない。懸命に目を開けた。

 

 体は二メートル先。道路は赤い液体と黒いタイヤカスと漏れたオイルで色付けしていた。肘と膝が面白おかしくなった僕のほとんどは建物につっこんだ車と落ちた瓦礫の下にある。半身から出る血を止めなきゃと手に信号を送っても右手は別の場所にあった。何もできなかった。ただ乾いてゆくだけだった。

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