深海少女と、ほんわか研究室ライフ
板垣鳳音
1 はじめまして、スイショウモリ
深く呼吸をすると、潮風が肺の奥まで流れ込む。
スピードを上げて進む船の甲板から感じる潮風は冷たくも心地よく、まるでこれから始まる冒険を祝福するかのように頬をくすぐり、振り返ると、飛沫が光を弾き、白い軌跡だけが海に残っていた。
足元で船が軽やかに揺れるたび、未知の世界がすぐそこまで近づいてくるのがわかる。どこまで行けるだろう。何に出会えるだろう。そんな想像が波のように押し寄せ、思わず笑みがこぼれた。今日は、絶対に特別な一日になる。そんな予感がしてならなかった。
「嬉しそうだな~、
「そりゃあもう、久しぶりに海に出るからね!ワクワクが止まりませんよ!」
同乗している海洋生物学者の津田は、大規模なプロジェクトを率いることも多々ある優秀なベテラン海洋生物学者である。見た目は筋肉質で若々しいアラフィフの男性だ。そんな津田が、からかうように話しかけてくる。ベテランの津田からすると今の自分は、幼い子供が新しい玩具を買ってもらって興奮状態のような様子に見えているのだろう。
しかし、自分もそこまで幼稚ではない。強いて言えば、甲板でスキップしながら踊りだしそうなくらいには喜んでいるが、30代前半の男性がそんなことをするわけがない。
若手海洋生物学者の
晴人は、幼い頃から海洋生物、特に深海生物に惹かれており、高校になるまでは、暇さえあれば自宅近くの水族館に入り浸って魚と共に人生を過ごしてきた。年間パスポートを購入し、海洋生物の泳ぎ方や餌を食べる様子などを飽きもせず観察していた。高校へ進学する際には海洋高校へ入学し、入学後はひたすらに海洋や陸水に生きる生物の体の仕組みや生態、海洋や陸水における環境の特性とそこに生きる生物との関連などについて学んでいった。その後も専門的な道へ進学し、海洋生物学者になってからはますます愛する海洋生物の生態調査に力を入れている。
「今回こそはスイショウモリを見付けて研究室に持ち帰るんだ…!」
スイショウモリ
――それは、日本海沿岸で生息が確認されている深海魚で、水晶のように透明な体表がほのかに光り、樹枝のような頭頂部と、まるで星屑が散らばったようなスカートを纏って海に舞い降りている天使のような魚だった。体の中心部には、ハートのような形の黒い塊が存在しており、体長15㎝ほどの大きさで、見た目は
しかし、スイショウモリの深海での確認事例も数回程度で、生息水深も不確定な、未知の深海生物といっても過言ではないものであった。しかも、ここ十数年は生息が確認されていないことから、絶滅したとも考えられていた稀少種である。
深海生物は、巨大な水圧、暗黒、低温、低酸素といった過酷な環境に適応している特徴があるため、生きたスイショウモリの捕獲に成功したところで深海から引き揚げたとしても、地上と深海の環境の違いがありすぎるため、研究機関の特別な装置を使用しても捕獲後の生存が可能かは誰も分からない状況であった。
――――――――――――――――――――――――
調査船で海洋に出てから数日が経過した。その日は普段よりも風がなく、海面が鏡のように静まり返って、穏やかな波の状態だった。凪のような海上とは対照的に、曇天の空からは太陽の光が遮られ、鉛色のどんよりとした印象を感じた。曇天は雨が降る前兆であることが多く、雨が降ってからの調査は困難を極めるため、今日はここまでか、と船内に戻ろうと
「深海300m付近にスイショウモリがいる!」
津田は、そのまま興奮した様子であれこれ準備をし始めていた。その後は、晴人もスイショウモリの捕獲準備のため船員と協力して動き出した。
捕獲に取り掛かってからどれくらいの時間が経過しただろうか、その日、若手海洋生物学者の晴人は、絶滅したと考えられていた稀少種―― “スイショウモリ” を深海で発見・捕獲した。
夢にまで見た今日この瞬間に、心の奥底から喜びが爆発した。資料からスイショウモリの姿はどのようなものか知っていたものの、実物を見るとまるで魔法にかけられたかのように魅了され、出会えた喜びに無意識に大粒の涙がぽろぽろとあふれ落ちていく。
「……すごく、きれいだ。」
横でその姿を見ていた津田が提案する。
「スイショウモリの生態研究の研究代表者を晴人、お前に任せたい。」
「自分がですか!?津田さんではなく?とても嬉しい提案ですが、俺が研究代表者なんて、正直自信がありません。」
「そんな難しく考えなくていい。生きて研究所へ持ち帰ることが出来るだけでもかなりの進歩なんだ。深海生物にかかわらず、海のことなんて、俺たち人間が把握している情報なんてごく一部。海底の95%はまだ人の目にも触れられていない未知の領域だ。」
スイショウモリの泳いでいる水槽を前にして、しばらくの沈黙が流れた。津田は晴人の返事を待っているように、晴人は額に変な汗が出て、不安と喜びで感情がぐちゃぐちゃで思考が定まらなかった。突然の大きな決断を迫られてどうしようとただ立ち尽くしてしまうしかできなかった。沈黙を破るように話し出したのは津田だった。
「海のことを心の底から愛しているお前だから任せたいんだ。もちろん、俺も共同研究者として一緒に取り組んでいきたい。…どうだろう?」
晴人は津田の真っ直ぐな瞳を見つめ、ふぅと一息つくと、覚悟を決めたようにきっぱりと言った。
「ぜひ、俺に研究代表者をやらせてください!よろしくお願いします!」
そう言って津田に向かって深く頭を下げた。
津田は一瞬びっくりしたような表情を浮かべたが、すぐに優しく微笑み、鼓舞するかのように晴人の背中を叩いた。
その後、調査船が港に着くと、すぐにスイショウモリの運搬が始まった。港から研究施設は車で20分程度で着く距離であったが、細心の注意を払い、慎重に運搬したこともあり、通常の倍近い時間を要した。
晴人の研究室には、今まで研究していた海洋生物が入っている水槽の他に、新たにスイショウモリの水槽が設置された。
運搬も終了し、久しぶりの研究室で海上で過ごした慌ただしい日々の疲れがどっと出てきた。近くにあったオフィスチェアを引き寄せ、そのまま身体を深く沈み込ませ、頭を後ろにもたれさせて目を閉じた。
しばらくそうしていたが、久々の自宅へ帰ろうと重い腰を上げた。その時、水槽のスイショウモリと一瞬目が合ったような気がした。そんなわけはないが、それだけのことがとても嬉しかった。
晴人はそのままスイショウモリに目線を合わせ、優しい口調で呟いた。
「やっと会えたね、嬉しいよ。はじめまして、スイショウモリ。」
水槽の中のスイショウモリが晴人の言葉に応えるように、ふわりと身を傾けた気がした。
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