地上はいらないので、スラム経由で世界をいただきます。──転生暗宵の地下帝国記
しょーちゃん
第1話 過労死したらなぜか地下だった
その日も、終電はとうに消えていた。
パソコンの画面は、同じエラーを三十回くらい見たような気がするし、気のせいじゃなく本当に三十回くらいは見ている。
「天城くん、そっちのバグ、明日の朝イチまでに直しといてね」
電話越しの上司の声が、やたら元気なのが腹立たしい。時刻は午前二時半。元気なのはカフェインのせいか、人の心がないせいか、その両方か。
「……了解です」
条件反射みたいにそう答えながら、俺――天城真也(あまぎしんや)は、マウスを握る右手の感覚が薄くなっていることに気づいていた。
いつからだろう。寝るより先に、締め切りのことを考えるようになったのは。
いつからだろう。コンビニのおにぎりを「え、今日まだ一個も食べてないじゃん」って言いながら頬張るのが当たり前になったのは。
「……とりあえず、ログ見て、再現して……」
ぼそっと独り言をこぼして、椅子の背にもたれかかる。天井の白い蛍光灯が目に染みる。ビルの窓には、自分のやつれた顔と、誰もいないオフィスの机の列が、幽霊みたいに映っていた。
そのとき、不意に胸の奥で、なにかが「ぷつん」と切れる音がした気がした。
次の瞬間、視界がぐらりと傾いた。
「あ?」
マウスを持っていたはずの右手が、マウスをすり抜ける。床が近い。いや、違う、俺のほうが落ちている。
――ああ、やばい。これ、ニュースとかで見るやつじゃないか?
テレビの中で見たことのある、「過労死」という単語が、やけに冷静に脳裏をよぎる。
もっとドラマチックな死に方を想像していた。トラックに轢かれるとか、通り魔に刺されるとか、せめて誰かを庇ってとか。
よりによって、バグとにらめっこしてる最中に心臓が止まるとか、笑えないにも程がある。
「……ま、いっか」
口の端がわずかに上がる。最後の最後まで、俺は諦めが良すぎた。
暗転。
音も、痛みも、なにもなくなった。
*
「よう」
不意に、声がした。
目を開けた覚えはないのに、気づけば俺は立っていた。真っ暗な空間。足元はあるのに、床が見えない。上を見上げても、天井はない。
なのに、そこには「誰か」がいた。
人影、と呼んでいいのかどうかも怪しい、ぼんやりとした輪郭。男か女かも分からない。顔も服も、全部が黒いもやに覆われている。ただ、その目だけが、白い点のように浮かんでいた。
「おつかれ、天城真也」
「……夢にしては、趣味が悪いな」
「いや、現実じゃないから、そこは合ってる」
もやの人物が、くつくつと笑う。
「ここは?」
「まとめて言うと、あっちとこっちの間。君はさっき、心臓が止まった」
「……マジで?」
「マジだよ。むしろ、よくそこまで持ったね。あんな働き方でよく三年もったよ、君」
あっさり言われて、俺は苦笑するしかなかった。
死んだ実感はない。痛くもなかったし、血も見ていない。でも、あの瞬間の感覚を思い出すと、きっと本当なんだろうと思えた。
「で?」
「ん?」
「こういうのって、あれだろ。人生振り返って反省会するとか、さいごの審判とか、地獄行きです〜とか、そういうやつじゃないのか」
「それでもいいけど?」
「やめてくれ」
即答した俺に、もやの人物はまた笑う。笑っている「感じ」がするだけで、実際の表情は分からないのがちょっと腹立つ。
「じゃあ、提案を一つ」
「提案?」
「次の世界、行ってみない?」
軽い。あまりにも軽い。
「いやさらっと異世界転生の勧誘するなよ」
「今の世界に未練、ある?」
問われて、俺は少しだけ黙った。
考えてみる。家族。職場。友人。趣味。やり残したこと。
……驚くほど、何も出てこなかった。
家族は、まぁ悲しんでくれるだろう。でも俺が働き続けていたのは、誰かのためじゃなく、ただ日々をやり過ごすためだった。
友人も、いつの間にか連絡を取らなくなっていた。趣味だったゲームも漫画も、ここ数年ろくに触っていない。
「……正直、ないな」
「だろうね」
もやが肩をすくめる。
「じゃあ、転生コースで決まり。君の前世データと嗜好を考慮して、次の世界を――」
「待て待て待て待て」
「なに?」
「せめて、内容くらい説明してくれない?」
「ああ、そういうの気にするタイプなんだ」
「当たり前だ」
転職じゃないんだぞ。人生だぞ。
もやは、少しだけ沈黙したあと、こんなことを言った。
「君、上のほうはもう、うんざりでしょ」
「上?」
「会社とか、上司とか、政治とか、ルールとか、『えらい人』ってやつらのこと」
「……まぁ、好きだとは言えないな」
「だよね。君、ずっと思ってたでしょ。“どうせ上は変わらない”“下っ端は潰れるだけ”」
図星すぎて、言葉に詰まる。
「だからさ。今度は“下から”やってみない?」
「下から?」
「地上の国だの王だのには興味を持たなくていい。そのかわり――」
もやの人物の声が、すっと低くなった。
「スラム、貧民街、裏社会。表の支配からこぼれ落ちた連中だけを集めて、“別の国”を作ってみない?」
心臓が、どくりと鳴った気がした。
「別の、国」
「そう。表の歴史書には一切名前が残らない。“影の帝国”。君、そういうの、好きでしょ?」
「…………」
否定できなかった。
子どもの頃から、ヒーローよりも、影で動く黒幕とか、裏で支えてる参謀とか、そういうポジションのキャラが好きだった。表で称えられるのは別の誰かでいい。裏で全部つながってるほうが、性に合うと思っていた。
「そこで暮らしてる人たちは、みんな、今の君みたいに“上”に切り捨てられた連中だよ。貧しさ、病気、犯罪の被害者、戦争の孤児。どうする? そういう連中をまとめて、下から世界をひっくり返してみない?」
「……俺に、できるか?」
「できるかできないかじゃなくて、“やりたいかどうか”でしょ」
ずるいことを言う。
でも、そのずるさに、俺は少しだけ救われていた。
「一つだけ、条件がある」
「ほう?」
「そっちの世界がどんなに荒れてようが、どんなに治安が悪かろうが――」
言いながら、自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出てきた。
「“強姦”だけは、絶対に許さない。それに関わったやつは、どんな事情があっても、絶対に見逃さない」
もやの人物が、わずかに沈黙する。
「そこ、譲れないんだ」
「譲れない」
自分でも、なんでそんなに強く言えるのか分からなかった。ただ、胸の奥のほうで、昔読んだニュースや、飲み会で聞いた最低な武勇伝が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
『あいつ、酔わせてさ〜』『ノリってあるだろノリ』『嫌がってたけど、最後はさ〜』
笑い話じゃない。絶対に。
「どんな“裏の世界”だろうが、それだけは違う。それだけは、“もっと下”に押しつぶされるやつが出る。俺は、そういうのが嫌いだ」
「……ふむ」
もやの白い目が、じっとこちらを見つめてくる。
「いいよ」
軽く、しかしどこか満足そうに言った。
「その線引き、こっちとしても歓迎だ」
「本当に、守れるのか?」
「君次第。でも、“絶対に許さない”って目で、世界を見続ける人間が一人いるだけで、変わることもある」
「責任重大だな」
「責任と使命感、嫌い?」
「嫌いじゃないけど、重たい」
「じゃあ、背負えるね」
「話聞いてた?」
ツッコミを入れた俺に、もやは楽しそうに笑った――「感じ」がした。
「じゃ、決まり。君は次の世界で、地下から世界を見て、地下から世界を変える。最初のスタート地点は、そうだな……」
もやが指を鳴らす。存在しない空間に、きらきらと光が舞った。
「とりあえず、一番底辺から始めてもらおうか」
「おい」
「だって、そのほうが面白いでしょ?」
「……まぁ、いいけどさ」
どうせもう、一度死んでいる。今さら怖いものなんて、ほとんど残っていない。
だったら、せめて今度は、自分で選んだことに責任を持ちたい。
強姦は絶対に許さない。上の都合で切り捨てられたやつらを拾い上げる。表に名前が残らないまま、地下に帝国を築いて、世界を下から支配する。
――それは、想像しただけで、妙に胸が躍る話だった。
「天城真也」
もやが、はっきりと俺の名前を呼ぶ。
「次の世界での君の名前は――『シン』。意味は、“核”。中心。芯。骨。ぶれないもの」
「……悪くない」
「気に入ってくれて何より。じゃ、行ってらっしゃい、“地下帝国の王”」
「いや、王とかじゃなくて――」
言いかけた瞬間、足元が崩れた。
今度こそ、本当に落ちている感覚があった。風もないのに、全身が下へ下へと引きずり込まれていく。耳元で、何かの笑い声が遠ざかっていく。
視界は暗闇。だが、さっきまでの「無」の暗闇ではない。土の匂い、湿った空気、遠くで水が滴る音。
――ああ、本当に、地下から始まるのか。
そんなことを考えながら、俺は新しい世界へと落ちていった。
*
目を開けると、そこは、薄暗い地下室だった。
石壁。粗末な木箱。鉄の棚。ひんやりとした空気。鼻をつくカビと酒の匂い。
「……あー」
喉から、かすれた声が漏れる。
「がっつりファンタジーだな、これ」
そう呟いた瞬間、上から、どんどん、と誰かが階段を降りてくる足音が聞こえた。
「おい、ガキ。さっさと樽を運べ。ぼさっとしてる暇はねぇぞ」
荒っぽい声が飛んでくる。
反射的に振り返ると、そこには、筋肉質で鼻のつぶれた中年男が立っていた。腰には短剣。服は薄汚れた作業着。いかにも、「裏の雑用係」といった風情だ。
男の後ろには、細い階段の先に続く扉。そして、そのさらに向こう――かすかに、人のざわめきが聞こえる。
笑い声、怒鳴り声、泣き声。酒場か、賭場か、それとも――。
「……ここから、か」
俺は、小さく息を吐いて、目の前の樽に手をかけた。
今はまだ、ただの地下倉庫の雑用係。だけど、ここから始める。
地下室の石床の、そのさらに下に張り巡らされた「何か」が、微かに脈打っているのを感じながら。
――そうして俺、シンの、地下帝国建設の物語が始まった。
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