第20話 5-4 胃袋の陥落と雪解けの誓い

 卓の上には、白煙と共に甘美な香りを漂わせる二つの皿が鎮座していた。

 私は調理場から持ってきた銀の匙(スプーン)を手に取り、ジークハルトに勧めた。

「さあ、召し上がれ。熱いから気をつけてね。猫舌……じゃなくて、虎舌でしょう?」

「フンッ……(侮るな。俺は熱さにも強い。北国の生まれだと言っただろう)」

 彼は強がりを言いながらも、その目は皿に釘付けだ。

 そして、首輪は彼の心の声を隠すことなく垂れ流す。

「『早く食べたい! 冷まして! いや、熱くてもいいから今すぐ口に入れたい! この香りで頭がおかしくなりそうだ!』」

 ジークハルトは恐る恐る肉に顔を近づけた。

 湯気に包まれた肉塊は、深い飴色に染まり、艶やかな脂を纏っている。

 彼はまず、小さな舌でペロリと肉汁を舐め取った。

 その瞬間、彼の蒼氷のような瞳が、驚愕に見開かれた。

「『う、うまい……!』」

 首輪の音声変換など待たずに、彼の表情が全てを物語っていた。

 濃厚な赤葡萄酒のコク、野菜の甘み、そして野生の猪肉が持つ力強い旨味。それらが渾然一体となって舌の上で爆発する。

 次に彼は、我慢できずに肉の塊に噛み付いた。

 その時、奇跡が起きた。

 硬いはずの猪肉が、まるで綿菓子のように解けていったのだ。

 噛む必要すらない。舌と上顎で押し潰すだけで、繊維がほろりと崩れ、中から熱々の肉汁が溢れ出してくる。

 特に、筋や軟骨の部分は、高圧加熱によってプルプルの膠質に変化しており、噛むたびに濃厚な旨味の爆弾となって弾けた。

「『なんだこれは……肉なのか? 俺の知っている肉と違う! まるで雲を食べているみたいだ! いや、雲よりも濃厚で、大地よりも力強い!』」

 ジークハルトは無我夢中で食べ始めた。

 ハフハフと息を吐きながら、熱さも忘れて肉を貪る。

 口の周りをソースで汚し、鼻先に人参がついているのも気にしない。

 その姿は、高貴な皇子ではなく、ただの食いしん坊な子供だった。

 いや、あるいは長い冬を越え、春の最初の獲物にありついた野生の獣そのものかもしれない。生きる喜びが、その全身から溢れ出ている。

「よかった。圧力密閉釜の性能試験は合格ね」

 私も自分の席に着き、一口食べた。

 ……うん、最高だ。

 自分で作ったとは思えないほどの完成度。これもポロ村の新鮮な素材と、私の完璧な魔導具設計のおかげだ。

 赤葡萄酒の酸味が脂っこさを中和し、いくらでも食べられそうだ。隠し味の蜂蜜と香草が、複雑な奥行きを与えている。

 これは、貧しい廃屋の食事ではない。王宮の晩餐会でも主役を張れる、奇跡の一皿だ。

 外では風雪が強まり、窓をガタガタと揺らしている。

 だが、暖卓という結界に入り、熱々の煮込みを食べている私たちには、それは遠い世界の出来事のようだった。

 ここにあるのは、温もりと、美味しさと、そして共犯者めいた連帯感だけ。

 やがて、皿を綺麗に舐め尽くしたジークハルトは、満足げにため息をつき、卓の上でごろんと横になった。

 膨れたお腹を天井に向け、無防備に晒している。

 手足はだらりと投げ出され、口元には緩みきった笑みのようなものが浮かんでいる。

 これは生物学的に見て「服従」のポーズだ。いや、野生を捨てた「堕落」のポーズかもしれない。

 首輪の魔石が、静かに、しかしハッキリと明滅した。

「『……負けたよ。もう君なしじゃ生きられない体になっちゃった』」

 それは、これまでの熱烈な求愛とは違う、しみじみとした、そして切実な敗北宣言だった。

 胃袋を掴まれるとは、こういうことか。

 彼は悟ったのだ。帝国に帰れば、王都の高級料理店にも負けない、洗練された宮廷料理が待っているだろう。最高級の肉、希少な香辛料、美しい盛り付け。

 だが、この「温かさ」と「驚き」、そして「作り手の愛情(あるいは狂気じみた情熱)」に満ちた料理は、ここ以外では食べられないのだと。

「あら、じゃあ帝国に帰るのは止める?」

 私が意地悪く聞くと、彼はハッとして顔を上げた。

 青い瞳に、一瞬だけ皇子としての理性の光が戻る。

 葛藤の色が見えた。

 このままここで、温かい卓と美味しい料理に囲まれて暮らす一生。それはあまりにも魅力的だ。皇位継承権争いも、暗殺の恐怖も、宮廷のドロドロとした人間関係もない。

 ただ食べて、寝て、撫でられるだけの日々。

 ――だが。

「……(いや、それは……帰らねばならん。俺には果たすべき義務がある。俺を待っている民がいるのだ)」

 首輪は『ずっとここにいたい! 帰りたくない!』と叫びかけたが、彼はそれを意志の力でねじ伏せたようだった。

 その小さな体から発せられる、凛とした気配。

 腐っても皇子。呪われても戦鬼。

 その矜持までは、完全に溶けてはいなかったようだ。

 その葛藤する姿を見て、私は微笑んだ。

 そうだ。彼はただの愛玩動物ではない。国を背負う人間なのだ。

 その誇りを、美味しい料理と温かい寝床で奪い尽くしてしまうのは、私の本意ではない。

 私は彼を堕落させたいわけではない。ただ、少しだけ肩の力を抜いてほしいだけなのだ。

「冗談よ。あなたが帰るべき場所に戻れるよう、私も全力を尽くすわ」

 私は彼のお腹を優しく撫でた。

 満腹のポンポコリンなお腹は、温かくて柔らかい。

 ジークハルトは安堵したように目を細め、私の手に自分の前足を重ねた。

 小さな肉球が、私の掌に触れる。

「『ありがとう。君は……本当に、不思議な人だ。変人だけど、悪い奴じゃない』」

 首輪の声は、優しく響いた。

 変人扱いは余計だが、まあ否定はしない。

 外の吹雪はまだ続いている。風の音は唸り声を上げ、世界を白く塗りつぶしていく。

 だが、この小さな廃屋の中には、確かな信頼と温もりが満ちていた。

 この日を境に、私たちの関係は「飼い主とペット」から、「同志」へと少しだけ変化した気がする。

 お互いに足りないものを補い合い、厳しい冬を乗り越えるためのパートナー。

 もちろん、彼が夜な夜な寒さに負けて私の寝台に潜り込んでくる「甘えん坊」であることに変わりはないのだが。

 そして、平穏な日々は長くは続かない。

 この温かな生活を脅かす「招かれざる客」の足音が、雪を踏みしめて近づいてきていることを、私たちはまだ知らなかった。

 帝国の放った追手か、それとも――。

 嵐の予感をはらみつつ、魔女の森の夜は更けていく。

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