第3話 1-3 魔女の森への片道切符

 チャンスは、思いのほか早く、そして唐突に訪れた。

 太陽が中天に差し掛かり、ジリジリとした熱気が馬車の屋根を焼き始めた頃だ。

 不規則なリズムを刻んでいた車輪の振動が、御者の掛け声とともに減速し、やがてキキーッという不快な摩擦音を立てて完全に停止した。

「……ふう。おい、ここで少し休憩だ。馬もバテちまってる」

 外から御者の野太い声が聞こえる。

 どうやら、街道沿いにある簡易な休憩所――といっても、古びた井戸とベンチがあるだけの広場――に到着したらしい。

 向かいの席で爆睡していた監視役の若い神官が、馬車の停止による慣性でカクンと頭を揺らし、その衝撃で目を覚ました。

「ん……あぁ? 着いたのか?」

 彼は寝ぼけ眼をこすりながら、大きく欠伸をする。口の端についたよだれを袖で拭う仕草には、聖職者としての威厳の欠片もない。

 彼は窓の外を確認すると、億劫そうに腰を上げた。

「厠(かわや)に行ってくる……ふぁぁ。ったく、なんで俺がこんな田舎まで。貧乏くじもいいとこだ」

 ブツブツと文句を垂れながら、彼は私の方を一瞥した。

 その目は、監視対象を見る目ではなく、荷物を見るような無関心なものだった。

 手枷も足枷もない私を見て、一瞬だけ考えるような素振りを見せたが、すぐに鼻で笑って思考を放棄する。

「逃げるなよ、と言っても……こんな森のそばで逃げ場なんてないだろうがな。大人しくしてれば、修道院で最低限の食事は保証されるんだからよ」

 彼はそう吐き捨てると、ガチャリとドアを開けて降りていった。

 外からは「おい、水筒を寄越せ」「聖女様はどうする?」「放っとけ、鍵さえかけときゃ出られねえよ」という御者との会話が聞こえてくる。

 そして、重たい金属音が響き、外から施錠される音がした。

 完全に侮られている。

 彼らの認識では、私は「温室育ちの無力な元聖女」だ。鍵のかかった馬車の中に閉じ込められ、周囲を深い森に囲まれたこの状況で、逃亡など考えるはずもないと確信しているのだろう。

 だが、その慢心こそが、私にとって計算外の好機だった。

(……鍵の構造は、音からして旧式の円筒錠ね。内部のピンは三本。構造的欠陥レベルの単純さだわ)

 神官の足音が建物の陰に向かい、御者が馬に水をやるために井戸の方へ歩いていくのを確認すると、私は音もなく座席から立ち上がった。

 鞄を肩にかけ直し、帯をきつく締める。

 そして、ポケットから取り出したのは、細長い一本の針金――ではなく、形状記憶合金で作られた自作の『万能解錠具』だ。

 私はそれを鍵穴に差し込み、指先の感覚だけに集中する。

 カチ、カチ、という微かな音。

 魔力を通して金属の分子配列に干渉し、鍵穴の内部形状に合わせて先端を変形させる。

 所要時間、わずか三秒。

 カチャリ、と軽快な音がして、錠が外れた。

(簡単ね。警戒心が低すぎるわ)

 私は内心で呆れつつ、ドアノブに手をかける。

 ここで普通に開ければ、錆びついた蝶番が「ギィ」と大きな音を立ててしまうだろう。

 私は指先から微量の水属性魔力を放出し、蝶番の隙間に浸透させた。さらにそれを極薄の氷の膜へと変化させ、一時的な潤滑剤とする。

 そっと力を込めると、ドアは無音で滑らかに開いた。

 外の空気は、王都のそれとは明らかに成分が異なっていた。

 煤煙や下水の混じった都市の空気ではない。湿り気を帯びた土の匂い、濃厚な緑の香り、そして肌をピリピリと刺激するような、野生の魔力の気配。

 私は踏み台に足をかけ、地面へと降り立つ。

 通常なら砂利を踏む音が響くところだが、私が履いているブーツの底には、衝撃吸収と消音効果を持つ『緩衝底(スライム・ソール)』が貼り付けてある。

 フワリ、という頼りない感触と共に、私は音もなく大地に着地した。

 御者は馬の世話に夢中で、こちらには背を向けている。馬が水を飲む音と、御者が鼻歌混じりに桶を扱う音だけが響いている。

 私は馬車の影を利用し、低い姿勢で素早く移動した。

 目指すは、街道のすぐ脇に口を開けている巨大な闇――「魔女の森」の入り口だ。

 数メートルほどの距離を一気に駆け抜け、最初の茂みに身を隠す。

 そこで振り返ると、馬車は何事もなかったかのように佇んでいた。中に誰もいないことなど、彼らは夢にも思っていないだろう。

 目の前には、昼間だというのに薄暗く、不気味に枝を伸ばす木々が壁のように立ちはだかっている。

 樹齢数百年はありそうな巨木たちが、絡み合う根で侵入者を拒絶し、頭上を覆う枝葉が光を遮断している。

 森の奥からは、聞いたこともない獣の遠吠えや、風が枝を揺らす不穏な音が聞こえてくる。

 普通の人間なら、この威圧感に耐えきれず、足がすくんで引き返すに違いない。「あそこに入れば二度と戻れない」という本能的な警鐘が鳴り響く場所だ。

 けれど、私にはそれが「未知への招待状」にしか見えなかった。

 魔力視を通して見る森は、まさに宝の山だ。

 地面を這う根の隙間には、魔導具の触媒として使える希少な苔が青白く発光している。

 木々の幹には、魔力を蓄えた樹液が琥珀のように輝いている。

 そして何より、森の深部から溢れ出してくる濃密な魔力の奔流。それはまるで、「早く私を使ってくれ」と訴えかけているようだ。

「……ふふっ」

 自然と笑みがこぼれた。

 これから始まるのは、誰にも指示されず、誰の顔色も伺わず、好きなだけ研究に没頭できる日々だ。

 私は森の入り口で、一度だけ街道の方を振り返った。

 そこには、私を縛り付けていた社会の象徴である馬車がある。だが、もうあれは私を運ぶ檻ではない。ただの風景の一部だ。

「さようなら、地獄の職場。定時退社どころか、永久休暇をありがとう。こんにちは、悠々自適な生活!」

 誰に聞かせるでもなく、小さな声で告げる。

 それは決別であり、新たな冒険への宣誓だった。

 私は迷うことなく、森の深い闇の中へと一歩を踏み出した。

 一歩進むごとに、背後の文明社会の音が遠ざかっていく。それは恐怖ではなく、重たい鎖が一つずつ外れていくような、圧倒的な開放感だった。

 足元の腐葉土の柔らかい感触。木々の隙間から差し込む一筋の木漏れ日。どこかで鳴く正体不明の鳥の声。

 全てが新鮮で、全てが私の新しい研究対象だった。

(さて、まずは拠点探しね。雨風をしのげて、作業スペースが確保できる場所……できれば水場の近くで、地脈の収束点があれば最高なんだけど)

 方位磁針など役に立たない磁場の狂った森の中を、私は魔力視という最強の案内役を頼りに進んでいく。

 魔力の流れ(レイライン)が収束する場所には、必ず何かしらの特異点が存在する。私の勘が正しければ、この森の主――かつて「魔女」と呼ばれ、この森を結界で守っていた存在が住んでいた場所があるはずだ。

 道なき道を進むこと、約二時間。

 茨(いばら)を万能ナイフで切り開き、時には魔力で強化した脚力で大木の根を飛び越え、私は森の奥深くへと入り込んでいった。

 普通なら疲労困憊し、方向感覚を失って遭難するところだが、私は自作の『身体強化中敷き』と『自動地図作成眼鏡(脳内投影式)』のおかげで、散歩気分のまま歩き続けていた。

 ふと、視界が開けた。

 鬱蒼とした木々が唐突に途切れ、ぽっかりと空いた空間が現れる。

 巨大な木々に囲まれた円形の広場。その中心に、ひっそりと、しかし確かな存在感を放って「それ」は佇んでいた。

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