届かない想いの先で、あの日の君に伝えたい。
羽澄ゆえ
届かない想いの先で、
真っ暗な視界の中、繰り返し俺の名前を呼ぶ声がする。その声が段々と増えていくのを感じ、その騒がしさに耳を塞ぎたくなる。
「……や、
頭に何かがぶつかる衝撃で目を覚ますと、目の前には呆れた顔でこちらを見下ろす担任の姿があった。彼の手には丸められたファイルがあり、自分はこれで頭を叩かれたのだと察する。ぼんやりとしていた意識が徐々に覚醒すると、ここは教室で
「あ、先生。おはようございます」
「おはようじゃないだろ。お前寝るだけならまだしも、唸り声が前まで聞こえてたぞ」
俺の席は窓際の一番後ろだ。教卓まで聞こえていたということは、教室中に聞こえていたということだろう。クラスメイトがこちらを見るのに気遣わしげな目が混じっていることにも納得がいく。
「いやー、食べ過ぎる夢を見ちゃってました」
「お前な……まあ、いい。文化祭の実行委員、男子は和泉に決まったから」
「えっ!? なんでですか」
「堂々と寝てるからだよ。部活もしてないし暇だろ」
異論は認めないというように言い放つと、先生は教卓の方へ戻っていった。その背中を目で追うと、教卓前の席に座る
かっこ悪いところを見せてしまったな……
あえてひょうきんに振る舞っているのだからかっこ悪いだなんて今更だろうか。高校に入学してから一年半、ずっとこの調子なのだからかっこいい姿なんて見せたことはないのかもしれない。
「男も決まったことだし、続きは実行委員が仕切ってくれ。詳細はここに載ってるから」
先生は教卓にファイルを置くと、窓際で広げたパイプ椅子に足を組んで座った。各クラスで男女一名ずつ決める文化祭の実行委員、そのうちの男子は拒否権なく決まってしまった。俺が寝ている間に決まったであろう女子は誰なのだろうと思いながら席を立つと、数秒遅れて席を立つクラスメイトが視界に入ってきた。
あ、高見さん……
先に教壇へ上がった彼女は、ファイルに挟まれたプリントに目を通して俺が来るのを待っている。歩みを速めて教壇に向かい彼女の横に並ぶ。
「とりあえず、クラスで何をするか決めるか」
「そうだね。私板書するから和泉くんみんなに意見聞いてもらえる?」
「おっけー」
うるさい鼓動に気づかないふりをして平然と答える。高校二年生となり同じクラスになってから半年、まともに話した回数は片手で数えられる程度の彼女に片思いをしているなんて、きっとこのクラスの誰にもばれていない。しっかり者でみんなに頼られる彼女とふざけてばかりの俺とでは、どこか住む世界が違うとまで感じてしまうだろう。
「みんな静かにー。文化祭でしたいこと挙げて。周りと話し合ってもいいから」
クラスメイトが話し合う間にプリントに目をやる。二枚重なったプリントのうちの一枚、そこには文化祭の日程が書かれている。二日間行われる文化祭は毎年十月末の土日で、今年は十月二十六日・二十七日だ。今日の日付が九月二十七日ということは文化祭まで残り一か月ということだ。
「えーっと……意見割れたな」
黒板には六つの出し物が書かれている。それぞれの下に書かれた正の字は、二つが多数決で同数だったことを示している。
「文化祭といえばカフェでしょ」
「カフェとかありきたりだろ。俺はお化け屋敷でみんなをビビらせたいわ」
「お化け屋敷こそありきたりだよ」
同数になったカフェとお化け屋敷、対立した二つの意見はどちら折れる気はないだろう。この二択で再び多数決を取るべきかと、首だけで後ろを振り向き黒板を見る。チョークを持ったまま黒板を見つめていた高見さんがこちらを見るのと同じタイミングだった。
「もう二つを掛け合わせちゃえば?」
「え?」
「お化け屋敷をテーマにしたカフェ、みたいな? 教室の雰囲気を暗くしたり、たまにお化けの格好で脅かしたり、いくらでもやりようはあるんじゃないかな」
二つの意見どちらとも採用できるのが一番良い。確かに、お化け屋敷をテーマにしたカフェならどちらの意見も取り入れられる。ただのお化け屋敷と比べると驚かせる機会が減ってしまうだろうが、食事中に驚かされるかもしれない空間はまた違う面白さがあるだろう。
「それなら怖い見た目の料理とかできるし楽しそう!」
一人が賛成の声を上げると、他も次々に同意していく。
「じゃあベースは俺らが考えてからみんなの意見加えていく感じでいいよな? 先に当日の役割決めるぞ」
やることが決まった話し合いは、その後スムーズなものだった。高見さんは困っているところでサッと答えをくれる。助けをくれる、そんな彼女に俺は恋したのだ。役割が決まったころに授業終了のチャイムが鳴った。
LHR後にすぐ始められた終礼が終わると、教室内にはばらばらな足音響く。のんびりと席に着いたままの人もいれば、急いで部活に向かう人もいる。友達と話しながら帰る人、一人で教室を出ていく人。そんないつも通りの放課後で、俺もいつも通りならば一人帰るだけだ。
いつもクラスで仲のいい奴らはみんな部活をしている。仲のいい奴らに限らず、クラスでほとんどが何かしらの部活に所属していて帰宅部は十人もいない。普段はのんびりと帰り支度をして一人帰宅するところだが、今日は急いで荷物をリュックに詰め込む。その勢いのまま昇降口まで行けば、探していた後ろ姿がそこにはある。
「高見さん!」
突然背後から名前を呼ばれた彼女は、肩をビクッと小さく震わした。帰宅部である彼女は、学校が終わるとすぐに教室からいなくなる。今日は教室を出るのがいつも以上に早かったようだ。ゆっくり振り返った彼女の表情から何を思っているのかは読み取れないが、あまり話さないクラスメイトに呼び止められて驚いているだろう。
「何か用だった?」
「連絡先、クラスのグループから追加してもいい? 文化祭のこととか話したいしさ」
へらりと笑って伝えると彼女は訝しげに眉をひそめる。文化祭なんてただの口実に過ぎない。クラスのグループに入っているだけで個人では繋がっていないメッセージアプリ、それをこの機会に繋がりたいという下心が九割だ。
片思いのまま何もできていない現状を変えたい。文化祭実行委員で一緒になったのだから、このチャンスを逃すと一生進展などしないと俺の勘が言っている。一瞬悩むような顔をした彼女に「週明けに提出のプリントだってあったじゃん?」と付け加える。
「それくらい私一人でも大丈夫だけど……」
「二人で実行委員なんだからさ! 追加しておくな。てか、高見さん電車通学だったよね? 駅まで一緒に帰ろうよ」
彼女の隣に並び下駄箱から靴を取り出しながら勢いのままに言葉を紡ぐ。靴に履き替えて待つ俺を見た彼女は、諦めたようにため息を吐いて靴を取り出す。
せっかく同じクラスになったというのに何もできなかった半年。それを取り戻すように押して押して押しまくるのだと心に決め、彼女が靴を履くのを待った。
高校から駅までは歩いて十五分ほどかかる。はじめはぎこちなかった二人の会話はすぐに自然なものになっていた。学校ではしっかりした印象が強い彼女は、もしかすると天然な部分があるのかもしれない。そんな一面を知ってさらに好意が深まるのを感じる。
「やっぱり、好きだな……」
駅が見えてきたころ、そんな言葉が口をついて出てしまった。自分で言った瞬間にハッとして、思わず口元を押さえる。彼女の乗る電車は俺とは反対方向だと聞いた。あと少しで別れだということが惜しくて、つい無意識で言葉にしてしまった。
「えっと、そうじゃなくて」
「なに? どうかしたの?」
立ち止まり、言ってしまった言葉を誤魔化そうとする俺を見て、彼女は不思議そうに首を傾げる。
聞こえてなかった……?
自分でははっきりと口にしてしまったつもりの言葉は、隣の彼女には届いていなかったらしい。駅付近であるここは人通りも多く色々な音で溢れているのだから、それにかき消されたのかもしれない。「何でもないよ」と再び足を進めると、あっという間に駅に着く。
「じゃあ、私はこっちだから」
改札を抜ければそこでお別れだ。反対側のホームへ向かう彼女の足取りはあっけないほど軽やかで、こちらを気にする様子などを一切ない。それがなんだか悔しくて、その背中に向かって声を張る。
「高見さん、また来週!」
彼女は一瞬だけ足を止めてゆるく振り返る。口元に浮かんだ笑顔は、どこか儚げで、複雑な感情が混じっているようだった。人が彼女の横を通り過ぎるたびに、さらさらのボブがわずかに揺れる。それが彼女の表情を一瞬隠したかと思うと、彼女は何も言わずにそのままホームの奥へと消えていった。初めて見た彼女の表情への違和感を残し、俺もホームへ歩いていった。
***
文化祭が二週間後に迫った金曜日の放課後、準備をするために多くの生徒が残っている教室はいつも以上に騒がしい。通常はきれいに並べられている机は教室の隅に固められ、広がった空間には段ボールや布、さまざまな画材が散らばっている。籠った空気を入れ替えようと窓を開けると、澄んだ空気がカーテンを揺らした。十月に入ってから続いていた雨はすっかりその気配をなくし、今は太陽がじりじりと地面を照らしている。
「和泉くん、葉月ちゃんどこに行ったか知らない?」
「高見さん? そういえばしばらく見てないな」
最初はほとんどのクラスメイトが残っていた教室だが、部活や用事で既にいなくなった人も多い。まだ時間に余裕があり強制ではない放課後の準備なのだから、教室にいない人がいてもおかしくはない。帰宅部である高見さんは、予定もないから今日も最後まで残ると言っていたはずだ。
「カフェメニューの詳細、確認してほしいんだけどなー」
「あぁ、俺探してくるよ」
同じ実行委員であるのだから確認は俺でも良いだろう。しかし料理の苦手な俺よりは高見さんの方が適任だろうと、メニュー関連は彼女、室内の装飾関連は俺と担当を分けている。
最後に彼女を見たのはいつだろうと記憶を遡る。たしか三十分前に見たときは教室の隅のほうで紙に何かをまとめていた。彼女がいたはずのそこには筆記用具だけが残されており紙はない。きっと職員室にでも提出しに行ったのだと推測し教室を出る。
職員室へ向かう途中の渡り廊下、中庭の方によそ見をすると探していた姿を視界が捉える。歩く足が止まってしまったのは彼女を見つけたからだけではない。彼女と向かい合わせで立っている男子生徒が見えたから。
……隣のクラスの人だっけ?
二人はこちらに気付くようすはなく何か話している。彼女は困ったように笑った後、向かいの彼に頭を下げて一人こちらに歩き始めた。
「あっ」
二人の様子から目を逸らすことができなかった俺は彼女と目が合ってしまう。彼女は何もなかったかのようにこちらに駆け寄る。
「ごめん、勝手に教室離れて。職員室行ってた。今から戻るね」
「あぁ、それは気にしないで。そんなことよりさっきの人……」
「やっぱ見てたかー。なんでもないよ」
「告白、された?」
ただのクラスメイトの俺が踏み込んでいいことではない。頭ではわかっているはずなのに、つい口から出てしまう。彼女に彼氏ができるかもなんて考えるのも嫌だった。いや、今も彼氏がいない確証なんてないのだけれど。一緒に実行委員になって、以前よりも仲良くなって、勘違いしていたのかもしれない。自分は彼女にとって何なのか、彼女は自分にとって……。俺たちはただのクラスメイト以上になることはあるのだろうか。彼女は先ほど見た横顔と同じく、困ったように笑った。
「なんでそんなに気になるの?」
「それは……」
今度はしっかり頭で考えて言葉を出さなければ、そうしなければきっと築き始めたばかりの関係はあっけなく崩れてしまう。馬鹿な自分でもそれくらいはわかっている。それでも、変に言い訳を重ねるよりは素直に言ってしまおうと彼女の目を真っ直ぐ見つめる。どう思われるか不安がない訳ないが、好きな人に噓を吐きたくない。
「好きだから。高見さんのことが好きだから、気になってしまうんだ」
言ってしまった。あの日、初めて一緒に帰ったあの日に零れた言葉を。今度は無意識ではない、想いを伝えるために意識してはっきりと。二人の間に流れた沈黙が永遠のように感じる。実際には十秒もしないうちに彼女は口を開いた。
「それは、って……だからなんで?」
「え?」
彼女はただただ疑問だと伝えるように首を傾げている。
「好きなんだ、高見さんのことが。好きです」
再び伝えてみても彼女の表情は変わることがない。聞こえていないなんてことはありえないはずだ。以前とは違う人通りの少ない場所で、はっきりと言葉にしているのだから。しかし、彼女がふざけているようにも見えない。
「高見さん」
「何?」
「いや、なんでもない。ごめん、なんでもない! 教室戻ろうか」
「……うん、戻ろう」
いきなり様子の変わった俺を見て彼女は何か言いたげだが、それに気づかないふりをして歩き始めた。彼女も横に並び歩き始める。
当たり障りない話題で会話を交わしながら教室へ向かう。文化祭のこと、授業のこと、友達のこと。何かを問えば答えてくれて、その話を広げてくれる。
「好きだよ」
なぜかはわからない。こんなことがあり得るのかもわからない。ただこれは現実で、自分の目の前で起こっていることだ。
高見さんには“好意を伝える言葉”だけが聞こえていない。そして、それはきっと俺限定。
***
風呂に入り体はすっきりしたのに、どうにもすっきりしない心。自室のベッドに寝転がりため息を吐く。どれだけ見つめても変化のないスマホの画面。開かれたトーク画面は、三時間前に送った俺からのメッセージで終わっている。
【好きだよ】
何度も文字を打ち込んでは消してを繰り返して、やっとの気持ちで送ったその言葉は未読のままだ。普段、この時間帯に送るメッセージには三十分足らずで返信が来る。気づいていないのか、気づいていてスルーしているのか、それとも――
「届いていない、なんてことあるのかな……」
思い出すのは今日の放課後の出来事。下校時刻になって、当たり前に高見さんと一緒に駅まで帰った。彼女に伝えた好きが届いていないこと以外は至って普通の放課後だった。
一人で電車に乗って、家に帰り着いても彼女のことが頭から離れない。夢でも見ているのではないかと思っても、つねった手にはしっかりと痛みが残り、自分の額に流れる汗の気持ち悪さが現実なのだと証明している。
直接好きと伝えても聞こえないのならばメッセージを送ればよいだろうという単純な思いつきも、未読のままでは届いているのかわからない。もうすぐ日付が変わり土曜日になる。
【おやすみ】
彼女からの返信が欲しくて送ってしまった追いメッセージ。今度はトーク画面を見続けることができなくて電源を落とし充電器に繋げる。
【おやすみなさい】
二分ほど経ったころに通知で画面が明るくなる。それをタップすれば、ずっと待っていた彼女からの返信だった。ようやく来たメッセージ、その画面にはありえない光景が広がっていた。【おやすみ】のメッセージに付いている既読マーク。しかし、その上にある【好きだよ】には既読が付いていない。
やはり、なぜかこの好きは彼女には届かないようだ。どうすればよいのかなんてわからない。それでも俺にできるのは好きを伝え続けること。一度伝えても届かないのなら、もう一度、もう何十回だって彼女に想いを伝えよう。
そう心に決めて、俺は眠りについていった。
***
廊下まで聞こえるほど騒がしい教室、重い足をなんとか動かして入り口まで進む。扉に手をかけてゆっくりと開けると、ガラガラと鳴る音が教室に響く。一瞬静まり返った教室で、視線が一斉にこちらに集まる。目元を隠すほど長く伸びた前髪越しでも感じる、異端なものを見るような、蔑むような目だ。
「……おはよう」
どうにか振り絞って出した挨拶に返ってきたのは、くすくすとした笑い声だけだ。自分の席に歩いていけばそんな笑い声もなくなっていき、先ほどまでの騒がしさが戻ってくる。席に辿り着き、座ったころにはすっかり俺は空気だ。もう慣れたはずなのに気を抜けば涙が零れ落ちてしまいそうだ。
泣いたら負けだ。泣いたら……
自分に言い聞かせながら手を強くつねり、今日も一日が終わることを待つしかできなかった。小さな中学校で、自分だけがどこまでも孤独なのだと感じていた。
じわりと背中に流れた汗が気持ち悪くて目が覚める。アラーム音は聞こえていないことを考えると、まだいつも起きる時間ではないのだろう。体を起こしてスマホを手に取ると、暗い室内で光った画面は五時半を教えてくれる。
「シャワー浴びよう」
家はまだ静かで、両親は起きていないのだろう。六時になれば二人とも起きてくる。それまでに汗を流して不快さを取り除いてしまおうと、物音を立てないよう静かに部屋を出た。
シャワーを終えてリビングに行くと、ダイニングテーブルに着いた父さんがニュースを見ていた。キッチンでは母が朝食の準備をしている。
「おはよう」
「おはよう。今日は早いな」
「うん。目が覚めちゃって」
「そうか」
たったこれだけ話せば父の視線はテレビのほうに戻る。いつも俺が起きるころには出勤している父と朝に話すのは久しぶりだ。
「朝から三人でご飯食べられるなんて嬉しいね」
鮭の塩焼きが乗った皿を持ってきた母が穏やかに言った。父は帰りも遅くなることが多いため、ご飯は二人で食べることが多い。もう少し時間が経ってから朝食を摂ろうと思っていたが、いつも以上に笑顔の母を見るとそう伝えることもできない。
「母さん、何か手伝うよ」
「ありがとうね。じゃあ、キッチンに二人のお弁当あるから持ってきてくれる?」
「うん」
キッチンに行くと二つのランチバッグが並んでいた。それを手にリビングへ戻ると、母は白米と味噌汁をお盆に乗せて運んできた。
「そういえば、明日から文化祭ね」
「あー、そうだね」
久しぶりの三人揃った朝食は、穏やかな時間が流れる。いつもは談話する余裕のない朝の時間だが、不本意な早起きのおかげでこの時間がある。
「その日はお父さんも休みだし、二人で行くからね。ねえ、お父さん」
「そうだな」
「えー。来なくていいよ。つまんないって」
ダイニングテーブルに置かれた卓上カレンダーには文化祭の二日間に丸が付けてある。いつも通りの授業と放課後の準備を繰り返した日々はあっという間に過ぎていき、いよいよ明日に迫っていた。文化祭前日は本格的な準備日になる高校では、今日一日は授業がない。
「父さんだって休みくらい家でゆっくりしたいでしょ」
ただでさえ仕事で忙しくしている父の貴重な休みだ。なによりも父は文化祭のような騒がしい空間をあまり好いていないように感じる。父は母に無理言われて行くことになったのだろうと思いそう言うと、父の代わりに母が答えた。
「何言ってるの。文化祭に行こうって言ったのだってお父さんからなのよ? 誠弥は嫌がるかなって私が悩んでいたら、二人で行こうって」
「え? そうなの?」
思わず目を見開いて父の方を向いてしまう。それに気づいた父は持っていた箸とお茶碗を置いてこちらをまっすぐに見る。
「お前中学のころから学校行事を見に来るの嫌がってただろう?」
やはり気づいていたのだろう。確かに中学のころの自分は学校に親が来ることを嫌がっていた。初めのころは何とも思っていなかった中学で、二年生が終わるころからは学校にいる自分の姿を見てほしくなかった。見せられなかった。
今でもあのころの夢を見ることがある。何がきっかけだったか、はっきりとは覚えていない。多分くだらないことがきっかけで、それでも幼い考えの俺たちには大きな理由になっていたのだと思う。
小さな地域の小さな中学校は在校生も少なく、各学年一クラスしかなかった。仲良くなるのは一瞬で、孤立するのも一瞬だった。ある時を境に、俺はクラスで、学校でいてもいなくとも変わらない人間になっていた。
母は何も言わず静かに頷くだけだ。俺も何も言えずに、ただ続きの言葉を待つ。
「俺も仕事で忙しいのを理由に、あまりお前を見ていなかった。でも母さんから聞いたんだよ。ここ最近の誠弥はすごく楽しそうだって。いつも帰りが早かったのに最近は遅くまで学校に残って、帰ってからも楽しそうにスマホいじってるのを見るようになったって」
「それは……」
「だから、そんな環境にいるお前を一目見たいだけなんだよ。俺も母さんも」
「そっか」
何と返すべきかわからず、言葉が続かない。みんな再び箸を進めて、静かな時間が流れていった。父は急いで朝食を食べ終えると、準備を終えて家を出ていった。俺もゆっくりと朝食を済ませて食器を水につける。
「お父さんはあぁ言ってたけど、私もあのころ何もできなかったこと気にしてたのよ。だからって言うのはおかしな話だけど、今の誠弥を見て安心したの」
「うん」
「誠弥が笑えるようになったきっかけの人が、きっと高校にいるんでしょ? 文化祭で見られるの楽しみにしてるからね」
「うん」
きっかけの人と言われて頭に浮かぶのは高見さんだけだ。彼女に出会って、彼女と話すようになって世界が変わったというのは大袈裟だろうか。
「その人のこと、大切にしなさいよ」
母はどこまで気づいているのかわからない。ただその言葉に「わかってるよ」と返して部屋に荷物を取りに言った。
彼女を大切にしたいだなんて誰目線だよと思いながらも、そう思ってしまうのだから仕方がない。母にそれがばれるのが照れくさくて、いつもより早い時間に家を出た。
普段は朝練に励む部活動生が多い朝、今日はそれも少なくなっている。普段通りなら、まだ電車に乗っている時間に着いた学校は思ったよりも生徒は少ない。教室までの道のりで出会った生徒は片手で数えられる程度だった。
「おはよう、高見さん」
教室に着くと、そこにはまだ一人しか登校しているクラスメイトはいない。席に付いてスマホの画面を見つめている彼女に声をかける。
「おはよう。今日は早いんだね」
スマホの電源を切り、画面を隠すように裏返して机に置くとこちらを見上げる。自分の席にリュックを置いて彼女の横の席に座る。
「早起きしちゃってね。高見さん、いつもこの時間にはいるの?」
「んー、そうだね。いつもこれくらいにはいるかな」
高見さんは黒板上にかけられている時計を見つめる。部活をしているわけではない、朝練などないのに毎日早くに登校していることに疑問を感じる。
「早く来ても暇じゃない? これから俺もこの時間に登校しようかな」
「だめ。和泉くんいつもギリギリに来るじゃん。遅すぎるのもだめだけど、無理しないで」
「無理だなんて」
「それに私、この時間暇とか思ったことないよ。結構好きかも」
彼女はそう言って笑った。けれど、その笑いの隙間から溜息みたいな声が漏れていて、これ以上踏み込むことを拒まれているような気がした。
一日中文化祭準備で授業のない校内は賑やかだ。普段はクラスの半数ほどが舟を漕いでいる午後の教室は、すっかりいつもの姿ではなくなっている。教室の壁は暗い紫の布を貼り付けられており、窓際に用意した布まで降ろすと昼とは思えないほどの暗闇になる。準備中の現在は困る暗さも、文化祭当日になると雰囲気のある空間になることだろう。
「教室中に装飾終わりそうだな」
「はい。結構気合入ってるから間に合うか不安だったけど大丈夫そうです」
先ほどまで姿の見えなかった担任がいつの間にかすぐ隣に来ていた。いつも適当で投げやりな先生だが、こういった行事ではある程度自由にさせ見守ってくれている。
「準備が順調なのはいいけど、今の教室の状況も少しは気にしてくれー」
「あっ……」
苦笑交じりに言う先生は教室を見渡している。そこには床や机で楽しげに話しながら作業するクラスメイト、そして使わない段ボールや画用紙、布が所狭しと散らかっている。準備することにばかり意識して、掃除や片付けを後回しにしてしまっていた。
「俺、ちょっとごみ捨ててきます」
「うん、そうしてくれ」
手が空いてるうちに行ってしまおうとゴミ袋に使わないものを詰めていく。気にしていなければそんなに多くは見えなかったゴミは、まとめてしまえば大きな袋を一杯にするほどだった。
「ごみ捨ててくるねー」
普段は教室で出たゴミは昇降口近くの倉庫まで運ぶことになっている。しかし文化祭期間はゴミが多いことから、少し離れた位置にあるゴミ置き場まで直接持って行かなければならない。一言残してから教室を出たが、いつも以上に騒がしい教室で誰かの耳に届いていたかはわからない。
靴を履き替えてゴミ置き場まで向かっていると、反対側から歩いてくる生徒と何度かすれ違う。他のクラスでも溜まったゴミを捨てに来ているのだろう。ゴミ置き場に着くと、そこには普段は見ないようなゴミの山ができていた。その山を崩さないように慎重にゴミを置き、教室までの帰路につく。
昇降口に戻るとそこにはちょうど靴に履き替える高見さんがいた。彼女は一人で、手にはお金の入ったクリアポーチとメモされた紙のみだ。
「高見さん」
「あ、和泉くん。私少し買い出し行ってくるね」
「買い出し? 何か足りないものあった?」
教室の装飾は既にほとんど完成している。当日の衣装は昨日確認が済み、残っていたのはカフェメニューの最終確認だけだったはずだ。先ほど教室にいなかった高見さんは、調理担当のクラスメイトと調理室で最後の試食を行っていると聞いていた。
「足りないと言うか、二日間で足りなくなりそうだから追加で買っておいたほうがいいと思って。」
「一人?」
「うん。先生には言って出てきたから安心して」
履き替えたローファーのつま先を地面でコンコンとしながら彼女は言う。手元の紙を盗み見ればそこには箇条書きでいくつかのものが書かれている。はっきりと読み取れたものだけでも、2Lのペットボトル飲料が二つある。それ以外にもあるということはそこそこの重量の買い出しだろう。
「一人じゃ大変でしょ? 俺も行くよ」
「全然大丈夫だよ」
彼女は笑って答える。
「教室はうるさくて疲れたし、サボりついでに荷物持ちさせてよ」
「なにそれ。んー、じゃあ手伝ってくれる?」
「もちろん」
そこそこの重量のものを一人歩いて持って帰るのはかなり大変だ。普通ならば二・三名で行ってちょうどいい買い出しであるのに彼女はそれを一人で行こうとする。教室にいるクラスメイトはきっと彼女が買い出しに行っていることに気づいていない。
みんなが気づかないうちに一人で色々とやっていてくれるのが高見葉月という人間なのだ。ここ数週間で彼女のことで分かったことがあった。誰よりもしっかり者の彼女は、きっと誰かに頼ることが苦手だ。だから俺は、そんな彼女の負担を少しでも一緒に抱えたいとそう思った。
「なんでそんなに気にかけてくれるの……」
半歩先を歩き始めた彼女がぽつりと呟く。ギリギリ聞こえた声量の言葉に、これはきっと俺に届けるために発したのではないのだと感じる。
「好きだからだよ」
彼女に届けるためにはっきりと言葉にする。彼女は足を止めることも振り返ることもない。周りには二人以外誰もいない空間で、さらさらと風が木々を揺らす音だけがしていた。
「ねえ、重くない? 私も持つよ」
「大丈夫。左右のバランス取れるからこの方が楽だし」
買い出しは大きめの袋、二袋分のものになった。片手に一袋ずつ持つ俺を見て高見さんはそわそわとしている。
「私ばっかり楽して申し訳ないよ」
「気にしないで。高見さんは他のこと頑張ってくれてるじゃん」
「いや……」
「じゃあさ、一つお願い聞いてくれない?」
あと十メートルも歩けば学校の正門だ。そこで歩く足を止めると、隣の彼女も不思議そうに足を止める。
「私にできることなら」
「文化祭さ、一緒にまわってほしい」
真っ直ぐ見つめて言うと彼女は目を見開き、その後動揺するように視線を左右させた。数秒後答えようと口を開くが何も言わずに唇を嚙みしめる彼女に、いきなり過ぎただろうかと反省する。しかし、今さら反省したところで何にもならない。ずっと誘いたいと思っていたのを、文化祭前日にやっと誘えたというのだから、むしろ遅かったくらいだ。なるようになると言い聞かせて彼女の返事を待つ。
「……いいよ。明日だけなら」
「まじ!? よかった~」
返事を聞いて再び歩き出すとその半歩後ろを彼女も歩き出す。返事を悩んだ彼女の葛藤を気にするよりも、明日一緒に過ごせる喜びが勝っていた。明日こそ想いを伝えられるように、文化祭が終わるまでに想いが届くように、そう願いながら学校まで足を進めた。
学校はすっかり文化祭の雰囲気に染まっていて、教室は完璧なお化け屋敷カフェへと変化する。いよいよ明日からは文化祭だ。みんなどこか浮かれた様子で下校時刻を迎えた。
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