第一部:エピローグ:鋼鉄の秘密

第38話

すべての音が、雪に吸い込まれて消えたようだった。

戦いが終わったクラドノの広場を支配していたのは、勝利の歓喜ではない。


重く、冷たく、そしてどこまでも深い畏怖の念だけが、そこに満ちていた。空を覆っていた分厚い雪雲が裂け、差し込んだ月光が、惨状を青白く照らし出している。


人類を絶望の淵に追いやった上位個体セラフィム。そして数百にも及ぶ人工精霊の群れ。それらが今や、ただの鉄屑と光の粒子となって雪原に骸を晒している。


それを成したのは、たった二人の人間だった。


市民たちは、手にした武器を取り落としたまま、身動き一つできずにいた。彼らの瞳に映っているのは、自分たちを救ってくれた英雄の姿ではない。


人の形をした、理解の範疇を超えた何か。


圧倒的な暴力と、物理法則を無視した異能。それを目の当たりにした彼らは、感謝の言葉を紡ぐことさえ忘れ、ただ震えることしかできなかったのだ。


遠巻きに向けられる視線。それはかつて、この都市に来た時に向けられた蔑みや、排除しようとした時の敵意とは決定的に違っていた。


触れてはいけない。近づいてはいけない。


神話に語られる荒ぶる神を遠くから崇めるような、絶対的な断絶を含んだ眼差し。そこにはもう、同じ人間として肩を抱き合い、温もりを分かち合う余地など、欠片も残されていなかった。


「……行こう、イルゼ」


その凍てつく空気を誰よりも早く、そして正確に読み取ったのはラデクだった。彼は血と泥にまみれたコートを翻すと、守り抜いたはずの市民たちに背を向けた。


その背中は寂しげではなく、孤高だった。


「嵐は止んだ。ここに俺たちの席はない」

「ええ。……そうね」


イルゼもまた、何も言わずにラデクに従った。彼女は一度だけ、瓦礫の山となった街を振り返った。だがそこに自分の居場所がないことを悟ったように、静かに、長い睫毛を伏せて視線を切った。


翌朝。


昨夜の暴風雪が嘘のように晴れ渡り、突き抜けるような蒼穹が広がっていた。ダイヤモンドダストが舞う極寒の空気の中、一台のランドクルーザーが唸りを上げ、要塞都市クラドノを後にした。


見送りはいない。


誰もが彼らの出立を知っていたが、誰一人として声をかける勇気を持てなかったのだ。ただ一人を除いて。


「……達者でな、クラル博士」


崩壊した防壁の上。瓦礫と鉄骨が剥き出しになった高い場所に、ヤン・ヴルチェク将軍は立っていた。


吹き付ける風が、彼の軍用コートを激しく煽っている。彼は深く帽子を目深にかぶり直すと背筋を伸ばし、去りゆく車に向けて無言の敬礼を送った。


その指先は震えていたかもしれない。その敬礼の意味するところが、都市を救った英雄への万感の感謝なのか。


それとも、秩序を乱す劇薬をようやく厄介払いできたことへの、為政者としての安堵なのか。その答えを知る者はいない。


ただランドクルーザーが巻き上げた白い雪煙だけが、答えの代わりに風に乗って彼方へと消えていった。


 ・ ・ ・


都市を離れて数日後。


ラデクとイルゼは、人工精霊の監視網が薄い山岳地帯の廃屋を仮の宿としていた。


満身創痍の体を癒やすための、束の間の休息。暖炉にくべられた薪の爆ぜる音が、静かな夜に心地よいリズムを刻んでいる。


「……ん、ぅ……」


ソファの上で毛布にくるまり、イルゼが小さく寝返りを打った。その寝顔はあどけなく、数日前に鬼神のごとき力で人工精霊を退けた少女とは別人のように安らかだった。


ラデクはしばらくその寝顔を見つめていたが、やがて音もなく立ち上がった。


「少し、冷えるな」


独り言のように呟き、彼は自分のコートを手に取ると、音を立てないように廃屋の外へと出た。


外は満天の星空だった。冴え渡る月明かりが、雪原を青白く照らし出している。


ラデクは周囲に敵の気配がないことを慎重に確認する。人工精霊の反応はない。野生動物の気配すらない。


完全な静寂。


誰にも見られていないことを確認すると、彼は深く息を吐き、廃屋から少し離れた岩陰に腰を下ろした。


「……さて」


ラデクは苦渋の表情で、包帯が巻かれた右腕を掲げた。セラフィムとの戦いで炭化し、動かなくなっていた右腕。


普通の人間ならば壊死し、切断を余儀なくされるほどの重傷だ。


だが彼は包帯を解くと、治療キットを取り出すわけでも、新しい包帯を巻くわけでもなく、自身の右腕をしばらく眺めていた。


しばらくの後、彼は懐から無骨な工具セットを取り出した。そして、ためらいもなく右腕の皮膚にマイナスドライバーを突き立てた。


カチリ、という硬質な音。血は出ない。


代わりに皮膚の下から現れたのは、肉でも骨でもない。精巧に組み上げられた歯車と、魔力伝達用の銀色のチューブ、そして焼き付いて黒ずんだサーボモーターの群れだった。


「……やれやれ、ガタが来ているな」


ラデクは自嘲気味に呟くと、焦げ付いた人工筋肉の繊維をピンセットで摘み出し、予備のパーツと交換していく。手慣れた作業だった。痛みはない。


あるのは摩耗した部品が軋む不快な感覚と、システムログに表示される無機質なエラー警告だけ。


ラデク・クラルは、死んでいる。


本物の天才科学者ラデク・クラルは、15年前、人工精霊の起動実験中の事故により、すでにこの世を去っているのだ。


今ここにいる男は、死にゆくラデクの意識と記憶を、開発中だった「最初の人工精霊プロトタイプ」のコアに転写し、精巧な義体に押し込んだだけの存在。


身体強化魔法?


違う。


そんな人間離れした芸当ができるわけがない。


彼がその身に宿しているのは、人間が使う魔法ではなく、人工精霊が使う純粋な魔力駆動マナ・ドライブそのものなのだから。


人間以上の膂力も、精霊への干渉も、彼自身が精霊と同質の存在だからこそ可能な業だった。


(俺は、人工精霊どうぐだ)


ドライバーを回しながら、ラデクは月を見上げた。


だからこそ、彼は人を殺さなかった。


「人間に危害を加えてはならない」という、かつて本物の自分が刻み込んだ戒律コードが、今もなお、この偽物の魂の根底に焼き付いているから。


そしてだからこそ――彼はイルゼを守れる。


人工精霊たちがイルゼを「排除すべき異物」と定義したのに対し、ラデクのシステムは彼女を「守るべき人間」と認識した。


たとえ彼女が作られた存在であろうと、その心が痛みを感じ、誰かを想うなら、それは人間だと。


本物のラデク・クラルが遺した人間への愛と、戒律の狭間で、このレプリカが出した答え。


「……似たもの同士だな、俺たちは」


修理を終えたラデクは、人工皮膚を元に戻し、繋ぎ目を丁寧に塞いだ。


手首を回す。微かな駆動音と共に、指がスムーズに動く。彼は廃屋の方を振り返った。


あそこで眠る少女は、本物の肉体を持ちながら、偽物の出自を持つ「作られた人類」。


そして自分は、偽物の肉体を持ちながら、本物の魂を継承した「作られた英雄」。


世界から弾き出された、二体の「始まりのレプリカ」。


「……行くか」


ラデクはコートを羽織り、夜の闇に紛れるように歩き出した。


目的地は遥か彼方。

世界を敵に回した、偽物たちの本当の旅は、まだ始まったばかりだ。


・ ・ ・


第一部 「始まりのレプリカ」完

作者あとがきに続く

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