第一部第四章:人間の定義

第31話

放送が途絶え、ノイズだけが残った。


スピーカーから吐き出された無機質な宣告は、分厚い鉄の壁に守られたコンテナハウスの中を、絶対零度の冷気のように満たしていた。


『――汚染源の引き渡し。それのみである』


その言葉の余韻が、ラデクの荒い呼吸音と混ざり合い、狭い室内に澱んでいる。


ラデクは怒りに顔を歪め、何かを叫ぼうとしていたかもしれない。

あるいは、イルゼを守るために銃を手に取ろうとしていたかもしれない。


けれどイルゼの意識はそこにはなかった。


世界中から突きつけられた死刑宣告。

「お前は人間ではない」という断罪。


普通なら恐怖で泣き叫ぶか、絶望して膝をつく場面なのだろう。だが不思議なことに、イルゼの心拍数は平常時と変わらず、その思考はかつてないほど冷徹に澄み渡っていた。


まるで長く散らばっていたパズルのピースが、あるべき場所へ吸い込まれていくような感覚。


(ハイブリッド人類……)


その言葉を反芻した瞬間、彼女の脳裏で、錆びついた扉が開く音がした。


ここではないどこか。

雪の降らない、無菌室の白さに塗り込められた記憶の底へ、イルゼの意識は滑り落ちていった。


・ ・ ・


最初の記憶は「白」だった。


温かい母親の腕でも、揺り籠の揺れでもない。目に刺さるような無機質なLEDの白光と、鼻をつく消毒液の臭い。そこは実験室だった。


ガラス越しに見下ろしてくる大人たちは、白衣を着ていた。その中に、まだ髪に黒いものが混じっていた頃のユリアン・ホラーク博士がいた。


幼い彼女に向けられる彼らの視線。それは確かに優しかった。転べば助け起こしてくれたし、痛がれば治療してくれた。誕生日は祝ってくれたし、絵本の読み聞かせもしてくれた。


けれど、それはどこか違っていた。


今、隣にいるラデクが彼女に向ける、あの不器用で泥臭い温もりとは決定的に異なる温度。


彼らの瞳の奥にあったのは、壊れやすい美術品を扱うような慎重さと、そして――神殿に祀られた御神体を見上げるような、狂信的な崇拝の色だった。


『素晴らしい。数値は安定している』

『彼女こそが希望だ。人類が失った翼だ』

『名前はどうする? コードネームではなく、人としての名を』


誰かがそう問いかけた時、ホラーク博士は少しだけ考え込み、穏やかに告げた。


『……イルゼにしよう』

『イルゼ、ですか? エリザベートの短縮形……。確か古語で「神への誓い」を意味する名前ですね』


研究員の一人が感心したように頷く。

だが博士は首を横に振った。


『この子がいる世界に、祈りを捧げるべき神はいない。精霊という偽の神に支配されたこの時代において、彼女こそが我々人類が未来へ捧げる唯一の誓いになるのだ』


イルゼ。神への誓い。


そして、エリザベートという完全な名前から派生した、小さな分身。

それが彼女の名前だった。


彼女は遺伝子操作で生まれたデザイナーベビーではない。

母胎から生まれたわけですらない。

人工精霊を構成する疑似生体組織の技術を応用し、人間のDNA情報を設計図として、培養槽の中でゼロから編み上げられた存在。


言わば、魔法の技術で錬成された人間。

オリジナルである人類から派生し、その形を模しながらも、異なる機能を与えられた新しい種。


蘇る記憶。毎日のように行われた過酷な投薬と訓練。


筋肉が悲鳴を上げ、神経が焼き切れるような苦痛の中で、イルゼは一度も泣かなかった。泣くという意味がわからなかったからだ。


それは虐待ではなかった。博士たちは彼女の体を痛めつけたかったわけではない。ただ広げようとしていただけだ。


旧人類という、あまりにも脆弱で小さな器を、膨大な魔力の奔流に耐えられるように。人工精霊という道具に頼らず、人間自らの意思で世界を書き換えるための、強靭なシステムへと作り替えるために。


『人工精霊は失敗だった。あれは便利すぎたのだ』


いつか、ホラーク博士が独り言のように呟いていた言葉が蘇る。


『人は道具に依存し、退化した。……だから次は、人間そのものを進化させなければならない。精霊に愛されるのではなく、精霊を従える上位種へと』


ああ、そうか。

彼女はそのための器だったのだ。


人工精霊がイルゼを汚染源と呼ぶのも無理はない。

彼女は彼らにとって、自分たちを支配し、取って代わるために生み出された天敵そのものなのだから。


・ ・ ・


意識が現実へと浮上する。 コンテナハウスの冷たい空気。


目の前でイルゼの方を見ているラデクの、痛々しいほどに心配そうな瞳。彼はわかっていない。


イルゼが、彼が守ろうとしているような「か弱い少女」ではないことを。


彼女が感じていた人間としての欠落感。

他人の痛みに共感できない冷たさ。

躊躇なく引き金を引ける合理性。


それらは全て、エラーや欠陥ではなかった。最初からそう設計されていたのだ。感情というノイズに邪魔されず、目的を遂行するための最適解を導き出す機能として。


(私は、人間じゃない)


けれど、それは絶望ではなかった。

むしろ深い納得と、奇妙な昂揚感が彼女の胸を満たしていた。


自分は本物ではないかもしれない。

けれど、だからこそ、誰よりも強く在れる。


脆弱な肉体に縛られた旧人類オリジナルを凌駕し、傲慢な人工精霊ツールをねじ伏せるために作られた、最高傑作。


人類が夢見た進化の似姿。


「……始まりのレプリカ」


少女の唇から、ふと、そんな言葉がこぼれ落ちた。


それは自嘲ではなく、自らの存在意義を定義する、誇り高い宣言のように響いた。

彼女は顔を上げた。

その瞳にはもう迷いはない。


「ラデク。……行きましょう」


イルゼはベッドから降りると、自分のリュックを背負った。

ラデクは驚いたように目を見開き、そして何かを悟ったように表情を引き締める。


彼は何も聞かなかった。


ただ無言でM700ライフルを肩にかけ、分厚い鉄の扉に手をかける。


「……覚悟はいいか?」

「ええ。いつでも」


重い金属音と共に扉が開かれる。

吹き荒れる風雪の向こうには、数えきれないほどの敵意が待っていた。

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